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★タイトル (GSC ) 96/ 9/22 0:14 (112)
11 音楽鑑賞
★内容
なんといっても、私の第1の趣味はクラシック音楽を聞くことである。
小学2年生の頃、兄が友達から、手回しの蓄音機と200枚ほどのSPレコードを
譲り受けてきた。
レコードの大半は歌謡曲や演芸の類だったが、中に1枚、ギター伴奏によるヴァイ
オリンの独奏で、〈荒城の月〉と〈シューベルトのセレナーデ〉があった。このレコ
ードは、かろうじて捨てられずに残っていたような代物で、レコード板の1/5ほど
も欠け落ちていて、曲の途中からしか聞けず、レコードを回すとカチッ カチッと大
きな音がしたが、それを姉と二人でよく聞いたものだ。
クラシック音楽に対する興味は、このレコードから始まった。
小学生の頃、寄宿舎のラジオから流れるクラシック曲を聞きながら、友達と題名を
当てっこするのが面白くて、色々な作曲家のメヌエット・ワルツ・マーチなどの旋律
を覚えたものだ。
音楽のJT先生は、舎監を兼ねて寄宿舎に住み込んでおられたので、講堂のピアノ
は朝から晩まで鳴り通しだった。先生は大変な練習好きだったと思う。曲目は、モー
ツァルトの〈トルコ行進曲〉・メンデルスゾーンの〈狩りの歌〉・ショパンの〈ワル
ツ〉・ベートーベンの〈月光の曲〉・ウェーバーの〈舞踏への招待〉など、親しみや
すい物ばかりだった。
先生はまた、子どもたちを舎監室に呼び集めて、電蓄(電気蓄音機)で、日本や外
国の歌曲や小品を沢山聞かせてくれた。
けれども、私は長い曲が苦手で、毎朝ラジオで放送する『名演奏家の時間』なども、
身を入れて聞いたことはなかった。当時のラジオがあまり良い音質でなかったことに
もよるであろうか。
高校3年生の夏、YS先生の骨折りで、盲学校主催の『ヘレンケラー来朝記念慈善
(チャリティー)音楽会』を、名古屋市公会堂で開くことになった。
YS先生が関西地区の交響楽団を指揮され、盲学校の男声合唱団も一役かった。
生徒や職員が手分けして切符を売り捌き、確か2000枚は売れたとか、当日はか
なりの盛況だった。
音楽会は昼の部と夜の部の2回行なわれ、第一幕は私たちの男性合唱団が〈ヘレン
ケラー賛歌〉を歌い、その後オーケストラでドボルザークの交響曲〈新世界〉を演奏
した。第二幕は室井真矢子(文字不明)というソリストによるベートーベンのピアノ
コンチェルト、最後にハンガリア舞曲抜粋、というプログラムだった。
〈ヘレンケラー賛歌〉というのは、この日のために、盲学校の国語の先生が作詞し、
YS先生が作曲したカンタータで、私たちは随分練習したにも関わらず、結果は惨憺
たる出来生えだった。当時の名古屋市公会堂は、残響(エコー)が全く無くて、舞台
で歌っていると、自分の声が会場に全部吸収されてしまい、指揮棒を使わず耳だけが
頼りの私たちの合唱では、バランスよいハーモニーが作れなかった。
さて、その日のリハーサル・昼の部・夜の部と、初めて管弦楽の生演奏を聞いた私
は、強い衝撃を受けた。
金管楽器の迫力ある響き、弦楽器の優雅な音色…。重厚な低音から澄みきった高音
部にいたるどの音も、かつて私の聞いたことのない素晴らしいものばかりだった。特
に、クレッシェンドからフォルテに移って行く山場のあたりでは、顔の筋肉が細かく
痙攣して、貧血でも起こしそうな、それでいてすがすがしい感動を覚えるのだった。
「なるほど、オーケストラとはこういう物か!」
私は初めて納得できたのである。
近衛秀麿氏の著書に、こんな1文があったのを思い出す。
「レコードを何十回聞くよりも生の演奏を1回聞くほうが、はるかに優っている。」
録音技術の発達した今日においても、私は全く同感である。
あの日の音楽会以来、私は長い曲にも退屈しなくなったのみか、むしろ小品では物
足りないとさえ感じるようになった。
ところで、私の最も尊敬する作曲家はモーツァルトである。
伝記を読んで、彼の極度の貧困に共感を覚え、無類の天才に心服していたのは幼い
時からであるが、モーツァルトの音楽がこの世で一番美しいと確信したのは、大学に
入ってからである。
彼の音楽は正に美しいの1語につきる。
最初、彼と同時代の音楽の特徴として私が気付いたのは、『レミレミレミ』のよう
なトリルから主音のドに移って一旦終止する形式が、楽章の随所に出てくることであ
った。それを手がかりに聞いてみると、モーツァルトらしい特色は沢山ある。うっと
りするような旋律・正確なテンポ・粒の揃った音のつながり・急激な跳躍や下降・ハ
ッとするような和音と転調…。そのどれもが私の好みにぴったり合うのである。
とかくモーツァルトを評して、表面的で軽い音楽のように言う人があるのを、私は
残念に思う。先に私は、
「モーツァルトの音楽は美しいの1語につきる。」
と書いたが、なお一言付け加えるならば、
「美しさの中に、深い憂愁が漂っている。」
と言いたい。彼の短音階の曲が烈しい悲哀を表していることは誰しも認めるところ
だが、例えば、ハフナー セレナーデとか・ヴァイオリンコンチェルトの5番とか・
39番の交響曲など、長音階の曲でも、聞いていると、つい涙を誘われるような哀愁
が秘められているではないか!
モーツァルトと同じくらいに私が尊崇してやまないのは、ヨハン セバスティアン
バッハである。
バッハの音楽には付点音譜が少なく、その平板な感じがまことにいい。8分や16
分・また3連音譜が淡々と続くフーガの技法は、ただ荘厳と言う他ない。
もし、バッハの真の音楽を理解できない面があるとすると、それは私の宗教心の乏
しさによるものであろう。とはいえ、思想や境遇を超越して、バッハの作品は人の心
の内に永遠に生き続けること疑いない。
年齢により心境によって、人は好みの音楽が変わるものだが、今の私ならバッハの
オルガン曲だろうか。1度でいいから、ヨーロッパの由緒あるパイプオルガンで、生
の演奏を聞いてみたい。
そして、自分の一番好きな音楽を1曲だけ選べと言われたら、やはり私は、バッハ
の〈ヴァイオリン協奏曲第二番 ホ長調〉を挙げるだろう。
他に私の好きな音楽と言えば、ヴァイオリン曲なら何でもいい。チェンバロやビオ
ラダモーレ、ジェズワルドの合唱曲やドビュッシーの音階も面白い。インドの複雑な
リズム・雅楽の優雅な響き・和楽器を使った現代音楽なども将来性がありそうだ。
目下私の最大の望みは、防音設備の整った部屋に、まずまずのオーディオ機器を備
え、好きな音楽を心行くまで鑑賞したいということだ。時間と金のかかる贅沢な望み
ではある。
[1996年3月17日 竹木貝石]
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