#4674/7701 連載
★タイトル (GWN ) 96/ 4/19 19:47 (162)
沈 黙 の 森 W 紫野.
★内容
【 沈 黙 の 森 W 】 紫野
青年は、ここから遠く離れた街の名をあげた。首都を挟み、ほぼ正反対とい
ってもあながち間違いではない位置にある街である。鉄道とバスを乗り継ぎ、
五日はかかる距離だ。
「町についたのは昨日の夜遅くです。途中、長雨のせいで父の体の具合がひど
くなり、コーブルクの町で一泊したため、到着が予定より一日遅れてしまって、
予約を入れていた宿には泊まれなくなっていました。時期が悪かったというこ
とでしょう、明後日はイブですからね。しかたありません。宿の主人も気の毒
がってくださり、強まった嵐のせいでバスが運行を見合わせたために宿泊を求
める客でごった返している中、いろいろ働きかけてくれたのですが、やはりど
この宿も帰省客やら旅行客やらで満配で……あなたもご存知の通り昨夜は雷雨
でしたから、はたしてどうしたものか案じていたとき、その宿で下働きをして
いた男が倍の値段を出すなら二日間自分の部屋を貸してもいいと提案してきま
した。地下にある使用人用の部屋でしたが、あの嵐の中に放り出されるよりは
ましだろうと思案し、男に金を払って彼の部屋を借りたんです。二日待てば客
室があくと主人も言いましたし。しかしそれがとんでもない部屋で……いえ、
まさか何から何まで不自由のない部屋を想像していたわけでなく、ある程度は
予想をたてていて、それでもしかたないと諦めていたのですが、床板が思った
以上に薄く、ロビーを走り回る子供の振動で埃は舞うし、けたたましい笑い声
や話し声、怒声まで聞こえてきて・・・しかも道路に面した小窓からは耳をふさぎ
たくなるような雨音でしょう? はては壁から雨水までしみ出してきて。あれ
ではまだロビーの一角の方がよかったかもしれません。わたしだけならそうし
たのですが。
ともかく冷たい風が吹き抜ける場は父の体によくないと、あるだけの毛布と
布をかき集めて敷きつめたのですが、やはり今朝になってもまだ気分がすぐれな
いようで、朝食をとろうともしないのです。普段であるなら宿に泊まる部屋がな
く、使用人の部屋を借りようとしたなど知っただけで靴の先から頭の先までの毛
を逆立てて、ぶるぶる震えながら怒鳴り散らすようなひとなのにそれもせず、ま
た道中もめったに口を開きませんでしたから、よほど苦しいのだと思います。
もちろん、今の父に影響を与えているのが体の不調ばかりであるとは思ってお
りませんが…」
青年はわたしの胸に去来するだろう何かを探るように意味有り気にそこで一旦
言葉を切り、わたしを見つめた。表情・手、あるいは言葉などで、わたしが表に
何がしかの反応を現しはしないかと思っているのだろう。なぜかはわからなかっ
たが、あえてわたしは何も言わなかった。
思惑ははずれただろうに、彼は最初から何も求めていなかったような顔をして
言葉をつなげる。
「ともかく、早朝、医者を頼もうと宿の主人に紹介を求めました。主人はまだ寝
足りなさそうなやぶ睨みの目をしたまま、けれど親切に、連絡はつくけれど往診
は午後からだと教えてくださいました。父は動くのはいやだと言い張り、往診に
来ていただくことにしたわけですが、そのためわたしは昼には宿に戻っていなく
てはならなくなったのです。午前中の間はなんとか宿の下女についてもらえるよ
うになったのですけれど、なんでも午後には宿とは別にもう一つ経営している店
を開けるための準備があるとかで。もちろん具合の悪い父をあのような場に残し
て遠出をするのは避けたかったのですが、占いをしていただけるようにこちらと
話をつけねばと思いまして。こればかりはひとづてに頼むというわけにもいかな
いでしょう。
電話を、置いてらっしゃらないんですね、フォルストさん」
やはりこの青年は、見かけとは大分かけ離れた中身をしているようだ。声にも
表情にも責める様子を一切出さず、笑顔であっさりと口にする分タチが悪い。
「ああいう騒々しいものはきらいです」
何やらキナ臭くなってきた話の内容に閉口する思いになりながらも、そうと言
うわけにもいかないので奥歯に力を入れて我慢する。
「郵便夫も訪れないようですし、町から遠く離れた一軒家では、もしものときな
ど心配ではありませんか? 生活にも、とっさの入り用ができたときなど不都合
が出ると思いますが」
「週に一〜二度ハンスが通ってくれておりますので特に不都合はありません。ま
た、あなたがお考えになっています多少の不自由など、この森で暮らすわたしに
とって我慢というほどのものでもありませんし、どうしても必要を迫られた出来
事など一度もありませんでしたわ」
「ああ、それでですか」
合点がいったような口ぶりで言う。
「ああいえ、主人に相談した際、ハンス=フレーゼにことづてを頼めばいいとも
勧められたんですよ。今日にもこちらへ出向くと言っていたそうで。ですが、こ
ういったことはやはりわたし自身の口でお願いしなくては失礼でしょう?
手紙や電話で連絡がとれない以上、直接お伺いするしかないと、そう考えたの
です。ここまで車は入れないし、昨日の雨で道が川になったり木が前をふさいで
いる可能性もあるから今日はやめた方が無難だとひきとめられましたが、わたし
も、むこうに仕事を置いてきている身ですから、そうそうこの地に長居はできな
いのです。片道五〜六日の行程ですから、せいぜいがクリスマスまで。二十五日
には発たないと、新年の催しに間にあいません」
長い『事情』説明も、ここで終わりのようだ。わたしの同情を促すように肩を
竦めて見せ、だからと話をしめにかかる。
「だから、しかたなし、こういう非礼に及んだわけです、フォルストさん。くる
途中、あなたのおっしゃった掲示板の貼り紙の文字はたしかに目にしていました
が、片道二時間以上の道程では、どうしても今の頃でないとお話をきいていただ
くどころか、午後に間にあうように戻れませんから」
たしかに、とは思う。けれど、青年の語ったこと全てが真実であると信じるの
は不可能だった。特に体調を崩した父親など、わたしの同情心を引きつけるため
に創作したのではないかとの疑いが残る。いかにもいいところの出である青年が、
一人の供も連れず父親と二人だけで国の反対側までやってくるというのも胡散臭
い。しかも、いくら切羽詰まったとはいえこういった身なりの者が下働きの部屋
で我慢できるのか?
こういう輩にはへたな同情は禁物だと、今一度気持ちの手綱を引きしぼるつも
りで手擦りに触れていた指にきゅっと力をこめる。
「それだけですか?」
わたしは、話を聞く前と変わらない声で訊く。
「そうです」
青年は率直に肯定し、頷く。そして前言の撤回を望む視線でわたしを見てくる。
わたしは小さく息を吸い、告げた。
「ではなおさらあなたは早く戻られるべきでしょう。このような遠い地で、体を壊
されているおとうさまはあなたがそばにおられないことにさぞ心細い思いをなさっ
ているでしょうから。
今、あなたはわたしなどの占いに気をとられるよりも、おとうさまの身こそ案じ
られるべきです」
その、あくまで拒絶を示すわたしの態度に、青年は眉をひそめ、奥歯を噛みしめ
たようだった。
ここにいたり、はじめて青年の面に苛立ちの色が差す。鋭さを増した目に見つめ
られて、一瞬、たしかに全身の膚が強張った。それがほんの瞬間的なものでなけれ
ば、わたしは体裁を繕おうとしていることも忘れて瞬時に目をそらしていただろう。
そこにこもっていたのはそれほどに強く、相対する者の胸の奥底を無理矢理こじ開
ける感情だった。まるで、わたしの卑怯さを見抜き、糾弾するかのような。
目線をそらし、後ろめたさを暴露せずにすんだのは、ひとえにそれがほんの一瞬
であったがためである。
これ以上この者に関わるのは危険だと、ざわめきだした胸にかりたてられ、急ぎ
踵を返して戸に近寄ろうとする。その刹那だった。耳に、独り言のような非難がと
びこんできたのは。
「そうか。どうやらはじめから占う気がなかったらしい」
反応を見せてはいけないとは思ったが、思ったときにはもう遅い。足が凍りつき、
肩が、それとはっきりわかるほど震えた。
青年の視線が熱く熱した針のように肩に突き刺さってくる。
だめだ、振り返ってはいけない。あと二歩だ。戸は先に開けたままになっている。
把手に手を置き、あと二歩、中へ足を動かして後ろ手に閉じればすむ。そうすれば、
わたしはこの出来事に幕を引くことができるのだ。
いつまでも動こうとしない体にじれて、理性が大声でわめきたてる。心臓が口か
ら飛び出していきそうなほど熱く脈打って、鼓動が喉を押し広げてくる。
彼は危険だ。そうくり返す警告に従って、石と化したような右足を持ち上げ、一
歩前に進める。けれど、続けられた青年の言葉が、いともたやすくわたしの足をそ
の場に釘づけた。
「よくよく考えてみれば、それも当然ですね。わたしは先に名のってるんですから。
あなたはあのマリアの娘だ、クライザーを占うなどとんでもないと、早く追い返し
たくてたまらないのでしょう。恥というものを少しでも知る者なら、それも当然の
行為でしょうからね」
いやな予感は今こそその全容を表し、わたしの胸をちりちりとその赤い舌で焼い
ていた。肩越しに見た青年は、まるで仮面をはずして捨てたように、先までなど比
較にもならない厳しい表情をして帽子を弄んでいる。
声は変わらずおだやかだが、それはゆとりからでも余裕からでもない。嵐の前兆
のようなものだ。割れる直前の風船のようなもの。
「なにを、おっしゃって、ますのか…」
文字通り喉から押し出して、やっと、それだけを返す。
「知らないと言われる?」
おもしろそうに声のトーンを上げて、口端をほんの少し吊り上げる。
下から盗み見るように、獲物を前にした猛禽のごとき鳶色の瞳がわたしを一瞥し
てくる。
「──ええ、何をおっしゃっられてますのか、見当もつきませんわ…」
笑み返すという、虚勢を張る力は、まだわずかながらわたしの中にあった。だが
次にもできるとは到底思えない。二つ目の失敗──振り返った瞬間から、こぼれ落
ちる砂時計の砂のようにさらさらとわたしの中から彼に抵抗する力が失われてゆく
のがはっきりと感じとれていた。
「では占ってみればいかがです? あなたは占い師だ。わたしが何を思ってここに
いるかを知るなどたやすいことでしょう」
「おことわりします!」
それがどれほどわたしを──備えた能力ではなく、わたしという人間を──侮辱
していることになるか、彼ほどの者ならば気付かないはずはないだろうに、あえて
口にしたというのがあからさまにわかる態度に、カッと目の前が怒りで赤く染まる。
反射的、叫び返したあとで我に返り、してやられたことに唇を噛んだがもう遅い。
わたしの感情の発露に青年は上々とでも言いたげに息をつき、手擦りに背を凭せか
けた。
「ではしかたがありません、わたしの口から申しましょう。どうやらはっきり言葉
にしなくてはあなたはいつまでもそうしてのらりくらりと逃げ続けて、わたしの望
みは退けられそうですから」
「なにを…一体……」
「なにをですって? わたしの家族を離散させ、そして今もって父が苦しんでいる
のはすべてあなたの母・マリア=フォルストによって引き起こされたということで
すよ。今から十年前のイブの日、マリア=フォルストのかけた呪いのせいで、わた
しの家はめちゃくちゃになったということです!」
続.