#908/1336 短編
★タイトル (AZA ) 97/10/ 1 0:30 (104)
憶えなくていいのに 桐鳩吉太
★内容
久しぶりに彼女−−志保が部屋にやって来た。
約束なんかしていない、突然の訪問だった。
僕は文書保存を実行し、フロッピーを抜き取ると、ワープロの前から離れた。
それから玄関に駆けつけ、志保を迎え入れる。
「珍しいね。とにかく上がって」
彼女は食料がいっぱい詰まった買い物袋を提げていた。何か作ってくれるら
しい。ありがたい。
「急に来て、怒ってなあい?」
「全然。退屈してたんだ。液晶画面とにらめっこしてた」
「ワープロ? じゃあ、レポート? 確率論の?」
「うん。まあ、色々。さっきまではレポートで、他に手紙やら詩やら」
僕が案内するまでもなく、志保はキッチンへ直行した。
「相変わらず、きれいだね」
「使ってないからさ」
自嘲気味に答えたが、僕は男にしてはきれい好きな方だと思う。確かにキッ
チンはコーヒーや紅茶をいれるぐらいで滅多に使わないが、その他の生活空間
はしょっちゅう掃除している。
だから、彼女の急な訪問にも、慌てずに済む。
いや、本当は火種を抱えてはいるんだけど……幸い、今日は鉢合わせせずに
済んだ。
そう、二股ってやつ。志保と美鳥。二人を天秤に掛けても、バランスが取れ
ちゃってる。困ったもんだ。二人の異性を平等に愛せると言ったら、女は信じ
てくれるだろうか。自信がない。だから隠す。平和のためにも。
「手伝おうか」
「ううん。座ってるだけでいいから」
志保はエプロンを着けて、キッチンに立った。
料理はこれまでの志保の手作りの中では、最高と言ってよかった。
「ああ、うまかった。ごちそうさん。中華料理なんて作れたんだ?」
「まあね。練習してるから」
食べ終わったあとの皿をてきぱきと片付け、志保は満足そうに手を拭いてい
る。よくしてもらった直後だから、その一挙一動がかわいらしく感じられるの
は当然だろう。
「時間、いいのか? 泊まっていく?」
「泊まるのは無理だけど、まだ大丈夫。ね、レポート見せてよ。完成してるん
でしょ? ヒントがほしい」
「しょうがない。うまい物を食わせてくれたお礼だな」
「サンキュ」
手を叩いて喜ぶ志保に、ワープロを見せてやる。
早く早くと急かすので、間違えそうになったが、ちゃんと勉強用のフロッピ
ーを取り出し、どうにかレポートのファイルを読み込むことができた。
「あー、えっと、メモメモ。紙と書く物、ちょうだい」
「それなら、プリントアウトするぜ。何なら、データをやろうか」
志保も、同じ型式のワープロを持っているのだ。
「だめだめ、そんなことされたら、丸写ししちゃうから」
志保が強く主張するので、僕は紙とペンを取りに机の前を離れた。すっかり
ワープロ人間になってしまって、机上にはペンの類が一切ないのだ。
「お待たせ」
電話横のガラス瓶に立てていた中から書ける物を選んで戻ると−−いきなり
だった。
「な、何で叩くんだよ? おいっ」
前触れもなく、びんたを食らった僕は、頬を押さえながら聞き返す。怒るよ
り前に、唖然としてしまったけど、いわれのない誹謗中傷その他の火の粉は払
わなければならない。
「何で? 嘘つきがよく言うわ! 美鳥とも付き合ってるんじゃない!」
返す言葉がなかった。
一瞬、フロッピーディスクに保存しておいた美鳥への手紙を読まれたのかと
考えたが、それはあり得ないと思い直す。美鳥宛の文書は専用のフロッピーに
入れて、本棚の奥に隠している。勉強用のフロッピーには、やましい文章は一
切作っていないはずだ。なのに。
「どうしてばれたんだって顔してるわね。教えたげるわ」
帰り支度を手早く終えると、志保は人差し指をぴんと伸ばし、にらむように
して、ある物を示した。
「……ワープロ?」
真っ先に可能性はないと断定した物だっただけに、僕の中で混乱は深まる。
「画面、ご覧なさいよ!」
僕が頭を捻っている内に、志保は捨て台詞を残し、姿を消してしまった。
志保の去った部屋で一人、僕は画面を見つめた。素直な奴だと、自分で呆れ
そうになるが、今はそんなこと、問題じゃない。考えるんだ。
「……あれ」
レポートの終わりに、覚えのない文字が打ち込んであった。
「美鳥」と。
僕がペンを取りに行っている間に、志保が入力したんだろう。
僕はその文字を穴が開くほど見つめた。
どうして彼女、こんな文字を書いたんだ? 僕と美鳥の関係に薄々気付いて
いたとしたら、「美鳥」なんて書くだろうか? 脅かすため?
いやいや、志保は言った。画面を見れば分かると。脅しではない。
頭を悩ます僕の視界に、また別の字が飛び込んできた。
「緑」。
確率論のレポートの文中に出て来る。赤、青、黄、緑の四つの球から……と
いうよくある問題をベースにしているからなのだが、そんなことはどうでもい
い。
美鳥と緑。この同音異字に、秘密があるような気がする。
僕は考えに考えた。そして。
「……あっ」
間抜けな声を上げていた。
志保はやはり、僕と美鳥の関係を疑っていたんだ。
そしてたまたま今日、確率論のレポート中に緑の字を見つけ、確かめる方法
を閃いたに違いない。だから彼女は、「みどり」を変換させてみたんだ。
ワープロで何をやっていたかの問いかけに、僕は迂闊にもこう言っていた。
「さっきまではレポートで」と。
僕が本当に、志保がやって来る直前まで確率論のレポートをやっていたのな
ら、「みどり」と入力して変換させれば、一発目は「緑」となる。直近に用い
た漢字が「緑」だからだ。辞書学習機能というやつだ。
しかし実際は、「美鳥」と変換した。
これで志保は、僕の嘘を見破ったのだ。そう、僕は志保がやって来るまで、
美鳥への手紙を書いていた。「みどり」を「美鳥」と変換させたばかりだった。
志保が機械音痴ならいくらでもごまかせたんだろうけど、あいにくと、彼女
は全く同じワープロを持っている。言い訳のしようがないだろうな、これは。
脱力した僕は床に寝転がり、そして恨めしい気持ちでワープロを見上げた。
思わず、愚痴がこぼれる。
「……憶えなくていいのに」
−−終