#179/1336 短編
★タイトル (YPF ) 94/ 1/10 19:50 ( 91)
お題>どいつもこいつも 不知間
★内容
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どいつも・こいつも
不知間 貴志
あたたかい。ぬるま湯のような液体に体が
浮いている。口の中に苦い塩味を感じる。
目が。両方とも何かで縫い合わせられてい
るように開かない。
暗闇ではないけれど、金属のバネのような、
歯車のような図形が、もの凄いスピードで動
いている。ストロボが点滅しているような光
もある。閉じた瞼の向こう。血を通した暗赤
色。
「手遅れになる」と、やけにはっきりした、
しかしナイショ話をするときのように、息の
音ばかりの声。それに呼応したような消毒薬
の、いわゆる病院の臭い。しかし、それを嗅
いでいるはずの鼻にも、体を濡らす液体が詰
まっている。音はある。無数の鉄製の器具が
カチカチいう音。サディスティックな予感。
下腹部から股間に、誰かが触れる。他人に握
りしめられる、私の膨れあがったペニス。ぼ
んやりと腫れ上がるように、消える寸前の意
識。厚い綿の壁の向こうで、切り開かれる私
の皮膚。
そう。私はあなたのもの。
つぶった目を、さらにぎゅっと力をいれて
つぶる。ああ、”その”力はある(それなら
逆が)。次には、思いきり目を開くことに全
身の力をこめるようにしてみる。こめかみの
激痛・・・
本当にバリバリと音をたてて目がひらく。
目の前は巨大な水槽とも思えるガラス。
どうやらTVのブラウン管の内側。鉢の中
の金魚のよう。グリセリンを通して、どろど
ろと動いてゆがむ視界。うす青い燐光に満た
されるサンドストーム。
TVの中では、死ぬことさえできないよ。
「わ、わたしはここよっ!」
叫ぶ自分のアゴの関節が、ぐきり、と音を
たてる。もう七年も口を開いていなかったの
だから。手をつきだすと、目の前のガラスは、
冷たくてぶよぶよした触感を残して屈服する。
つきだされた手を、誰かが握る。あたたか
い手だ。やさしさと、二人だけでホームドラ
マのような日常を繰り返した、大好きな彼の
手。
有毒な呼気から、私は逃げ出す。目の前の
壁をぐいぐい押して、背中に二つの渦を巻き
起こして、越える。
「どうしたんだ、待っていたよ」
剃り残した髭と、眠そうな、象の目をした
パジャマ姿の夫の姿。住み慣れたキッチン。
「ああ、あなた」
不安をぶつけるように飛びつくように抱き
しめると、「ひぃっ」とかすれるような声で
叫んで、彼は灰色の石になる。勢い余って、
ごつんと額をぶつけた私は、その痛さに悲鳴
をあげる。
柱となった夫は、つまりは私の愛するあな
たじゃない。だって腰一つも動かせなければ、
私を抱けない。
窓をあけるとそこは銀座の歩行者天国。雑
踏。時計台。巨大なアンパンの看板。陽光。
何故? どいつもこいつも、見つめると私
から逃げていく。視線をそらす。驚いて、私
は自分の体を見つめる(変な服着てきたのか
な私。いやだな)。
丁寧に塗られた爪。白い手。気になってい
る小さな火傷の痕。
そして、古びた大きなTVの胸。チェロの
胴体。どうしてこんなに素敵な私を避けて通
るの? あなた。私を探して。見えないよう。
どこ・いつも・いつも・わかってくれたじゃ
ない。あなただけは、私をまだ愛してくれる
わね。
だから、どんなに痛くっても、たった一人
のあなたの為に、私は戻るからね。
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1994.1/10