#178/1336 短編
★タイトル (RMM ) 93/12/28 1:45 (118)
ルンペン 椿 美枝子
★内容
母の背が振り返る。
いい? 今日から私達、ルンペンよ。
こくん、と頷くと母と私は新宿駅東口の柱の下に抱えた段ボールを敷き始めた。
もう戻らない。それが二人の結論だった。
父の仕事はフリーランス・プログラマー。きこえはいいけれど、収入は不安定。
普段は一日中パソコンの前にいるけれど、締切前になると昼夜逆転。十八時間位
続けざま起きていて仕事をしているようだけれど、気が付くとよく日曜の昼あた
りに昏睡している。そのそばで母が、布団を干せずに困った顔をしていたり、着
替えた気配のない下着を引き剥いていいものか判じかねていたり、兼用の車を買
い出しに使っていいものか当惑していたり、仕事の電話を取り次いでいいものか
案じていたりする。仕事が一段落しているのか、それともささやかな休憩なのか、
母には何の情報もない。そして私の遊び場は、父の眠っている間のパソコンだっ
た。
小さい頃から母は一人娘の私に語ってきかせた、大きくなったらお父さんのよ
うに手に職をもたなくちゃ駄目よ。お母さんはどうなの、そう問い返すと、お母
さんはね、小さなイラストの仕事だったから、もう、駄目なの。そう切れ切れに、
呟くのだった。フリーのイラストレーターだった母の仕事が、私を産んだために
成り立たなくなったのだ、と、あとで知った。
そんな母が子供部屋に幼い頃から与えてくれたのは、父の使わなくなった、古
いパソコン。お父さんの前で、コンピューターの話は、しちゃ駄目よ。あなたが
あんまり使えると知ったら、嫌な思いをするから。そう言われるようになったの
は中学に入る頃。その頃、父の部屋のパソコンを覗いてみてわかったのだ、父の
プログラミング能力を既に凌駕していた事を。それを私は母に告げたのだった。
父はまだ、ベーシックしか使えなかった。私は、その他にパスカルとCとアセン
ブラを習得していた。父が苦労しているバグを、私はすぐに気付いた。もっとも、
覗いていると気付かれない程度にしか直しておいてやらなかったが。
私のパソコンには、小遣いの全てをつぎ込んだ1ギガのハードディスク。父の
ハードディスクの中身はもう三年も前から、三日と空けずにバックアップしてお
く。父はそれを知らない。そして、父が浮気をしている、と私がとうに気付いて
いる事も、父は、知らない。
最近、仕事が少なくて、請求書が切れなくてね。今月なんか、一枚も切れなかっ
たよ。母に、家計のためのささやかな金額を渡すと父はそう愚痴を言ってみせる。
確かに今月は一枚も切っていない、それは本当だ、ちゃんと父の確定申告用プロ
グラムを確かめておいた。でも、今月請求書を切れなかった理由を、私は知って
いる。父はパソコンでラブレターを書くのだ。父はパソコンにFAX用の電話回
線をつないでデートをするのだ。そして打ち合わせと称して一週間に一度パソコ
ンの向こうに飛んでいくのだ。東京から弘前へ月に四往復もすれば確かに仕事は
滞るだろう。父は締切を一度、二度と破っていき、そして今月はとうとう一枚も
請求書を切る事ができなかったのだ。もう何年も前から二人が付き合っている事
を、いや、付き合い始めたその日付まで、私は通信記録で知っていた。私の1ギ
ガハードディスクは情報を、何一つ欠く事なく集め続けた。
父の口説き文句、父の愛の歌、父の懇願、父の謝罪、それらを全てをハードディ
スクは知っていた。随分前から、母は勘付いていた。電話回線を通してモニタ上
で2バイト文字がはいづりまわるデートは高く付くのだ。そして、随分前から私
は母に、家出をそそのかしていた。母の返答はその度に、じゃあ、あなたは全て
を捨てる事ができるの、という疑問文、それは身寄りのない母にもう夫である私
の父以外誰も頼るものがないという意味も含み、そして私は答える事ができなかっ
たのだ、そう、中学を卒業するまで。
中学三年の夏、担任に呼ばれた。お前、これ、どういう意味だ。そう言って、
頭が筋肉でできているような坊主頭が、指先で紙をはじいた。そこには、昨日提
出した進路指導票があった。確かちゃんとフリーランス・プログラマーって書い
た筈だ。意味がわからないのだろうか、これだから年寄りは困る。それとも言葉
が足らないというのだろうか。
すみません、フリーのコンピューターのプログラマーという意味です。筋肉坊
主はむっとした顔で、そんな事きいてるんじゃない、お前、就職、じゃなくて、
進学、だろ? 四倍角ぐらいの大きさで『進学』を強調して睨み付けてきた。私
の家、貧しいんです。そう答えると、信じられない、という顔をしてみせる。お
前、今時、中卒で就職できるか? え? そのプログラマーだかなんだかに、今
すぐなるつもりか? なれるつもりか? 親はそれでいいって言ってるのか?
親にこれ、見せてないんだろう。だいたい、お前、数学と理科はいつも満点だろ
うが。国語も英語も社会もそこそこの点だし、公立に入れば授業料は大した事な
いぞ。この紙、今度はちゃんと親に見せて書いてくるんだぞ。いいか、わかった
な。
母は幻聴に悩まされていた。父がパソコンを通じて恋人と話しているのが『聴
こえる』というのだ。母は、怖くて父の部屋に入る事ができなくなった。そのか
わり時折、蒼い顔をして呟くのだった、いまだれとはなしていたの。それは父が
二階の自室から居間に降りてきて、珍しく食事を共にしてまた戻っていってしまっ
た五分後、もうわずかな温もりしかしない父の席に向かって。皿を拭きながら父
が居るかのように話し掛けるのだった。そして、このままでは、いけない、私は
そう思っていた。父のパソコンを覗いていている私は予測していた、今年の年収
は、おそらく三百万を下回るだろう、と。あと三十年も、家のローンが残ってい
るのに。このままいけば、おそらく来年にでも、既に積み立てるのをやめている
娘の養育費として貯めているお金に手を付け始めるだろう。
お母さん、義務教育って中学校までだったよね。私、進学しなくていいよね。
母は、頷いた。言外の意を汲み取っていたのだ。
進路指導票に母の字で、娘のしたいようにさせます、と記されてから、担任は
もう諦めたようだった。時折廊下ですれ違う数学教師と理科教師は、奇妙なほど
私に励ましの言葉を掛けた。担任が、金銭的な理由そのほか、ある事ない事職員
室で吹聴してまわったらしかった。それはそれで、有り難かった。家出よりも、
正当だ。
卒業式の日、秋葉原に行った。この間売り飛ばした自作のゲーム改造プログラ
ム代金に、卒業祝に父からせびり取ったお金を足して、光磁気ディスクを購入し
た。これで、ハードディスクの中身をこのCDもどきの小さなディスクに落とし
込む事ができる。家を出るのに、1ギガハードディスクは荷物になりすぎる。か
といって、今まで集めた父に関するデータを捨てるのは惜しまれる。家に残して
置いて欲しい時に取りにいくわけにはいかない。ノートパソコンは既に購入して
あったけれど、ノート対応の内蔵ハードディスクは、340メガが上限だった。
それにしても、どうやって私達食べていけると思うの。母が気弱な声をだした。
いつだって母はこんな風だ、そしてこんな母を見ていると私はしっかりしなくっ
ちゃ、って思うんだ。当分の間、アパートにも住むお金がないのよ、それにアパ
ートを借りるには保証人保証人の判子だって要るのよ。
お金さえたっぷり渡せばアパートなんて、何にも訊かずに貸してくれるわよ、
当座のお金は私が稼ぐ。私は今まで作りためたテレホン・カードの束を母に見せ
る、いわずとしれた変造ものだ。何、それ。知らない方がいいと思うよ、これは
ね、外国人労働者に、売れるの。手始めに、新宿駅だよ。あそこは、結構、外人
多いしね。
あなたはお父さんに、本当、そっくりね。母が、呟いた。
その日の内に二人は、家出荷物をまとめ終えた。私は光磁気ディスクに全てを
記録させると、1ギガハードディスクを領域解放し、更に初期化した。これは、
置いてゆくのだ。長い歳月は、いつだって、ただの磁性体の流れでしかなかった。
そしてルンペンになった私達は、段ボール片手に駅の構内や道端で、昼、眠る。
駅からは終電と共に追い出されるためだ。人が多ければ多いほど、人は私達には
構わない。それでもたまに空き缶には、小銭や札が放り込まれる。浅草、上野、
渋谷。外国人の多い駅に行っては、カードを、夜、売り歩く。三枚千円、一日二
万円は売れている。そしてそろそろ来週あたり、私達は念願のアパート暮らしを
始めるだろう。そして今日も群衆の中を二人で眠る。母は、ゆっくり風呂につか
る事を、そして私は光磁気ディスクドライブを増設したノートパソコンをコイン
ロッカーから取り出して存分にいじる事を、共に夢見ながら。
了
1993.11.24.28:20