#154/1336 短編
★タイトル (RMM ) 93/10/31 23:19 ( 54)
広過ぎる家 椿 美枝子
★内容
庭付き一戸建てが夢、だなんてテレビでサラリーマンが言うけれど、こんなも
の何の役にも立たないよ。新築で、一階に部屋が二つとキッチンと浴室、二階に
部屋が三つと納戸とユニットバス、5LDKっていうのかな。庭には鬱蒼と草木
が茂り、松の木の下には二台分のカースペース。
住むのが、私だけじゃね。
捨て置かれたグランドピアノ、黴の生えたオーケストラスコア、埃の積もった
譜面台、全部持ってきたのはいいけれど、面倒だなそのまま誰かに売り渡してし
まおうか。
等身大の住処さえあればよかった。書斎にしている八畳でさえ、ベッドを置い
ても、なお広い。隣の寝室で眠った方が熟睡できるけれど、それじゃ寂し過ぎる
んだ。六畳一間だったアパート暮らしの癖が抜けなくて、部屋に鍵をつけてみた、
そうじゃないと安心できないんだ。
アパートからお父さんの訃報で呼び戻された。どうしていつも間が悪いんだろ
う。全然、親孝行してなかったのに。一人っきりになっちゃった。東京に進学す
る、って決まったら大学の近くに家を買って引っ越しする、なんて、親馬鹿だよ
ね。お父さんは古い家に残って仕事して、週末だけ東京に来るって。夏休みに引っ
越しが終わる筈だったんだ。なのにお父さん、過労で倒れるなんてあんまりだよ
ね。実はガンだった、なんてあんまりだよね。私が帰るとすぐ今度はお母さんは
胃カイヨウ悪化して、手術したらやっぱりガンだった、なんてあんまりだよね。
そんな風に新しい家は私の物になったって、ちっとも嬉しくない。親の屍の上
に住んでる様なものじゃない。ねえ、そう思わない。
何だか、疲れちゃった。
古いシャンソンを弾いてみる。後ろで、お母さんがうまいね、って声を掛けて
くれる筈なんだ。本当だったら。本当だったら。
新しい家に家族一人一人の姿を泳がせてみる。この部屋にお父さん、この部屋
にお母さん。そしてこの部屋に私。お父さんはいつも赤い工具箱を小脇に畳の上
で寝っ転がってぼんやり過ごす。お母さんは観葉植物の手入れを終えると庭の花
で生け花をする。私はサンルーム付きの部屋でピアノを弾いている。なんてこと
ない休日の風景。実現しなかった、この新しい家での団欒のひととき。
そして、かなしくなるんだ。むなしくなるんだ。
屍の上に住むのは屍がふさわしい、ね、そう思わない。
大学はずっと行っていない。一年目でこれだ、もう、多分、駄目だよ。掲示板
に呼び出しが出ていたらしいけど、どうでもいいよ。やる気、ない。
東京にも雪が降るんだね。二月の大雪、この家を埋めてくれればいいのに。
ちょっと耐えられないこんな夜は、二階の和室から窓を開け放ち膝を抱えて、
さらさら流れる小川の脇にたたずむ柳をただぼんやりと、バーボン飲みながら見
下ろしている。誰でもいいんだ、誰か居ればいいんだ、真っ白な風景、月明かり
に照らされて何も動かない。時間が動いていくのが、不思議だよ。今ここにいる
のが、不思議だよ。
広過ぎる家なんて、何の役にも立たないよ。そう、住むのが私だけじゃ、ね。
そして、眠ってたって、誰も助けに来ないって知ってる。
了
1993.08.30.29:20