#4725/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:33 (194)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【49】 悠歩
★内容
「ポリッシュさん?」
再度声を掛けると、ようやくポリッシュはうなだれていた頭を上げ、緩慢な動
きで振り返った。
「伯爵………さま」
「ポリッシュさん!」
振り返った画商の顔に、老伯爵はただならぬ問題が発生したのだと予想した。
長い戦争によって興廃してしまった、この国の芸術。特に絵画界において、そ
の復興を願う志が一致し、尽力を惜しまず働いてくれた画商であったが、いま老
伯爵が見ている表情はそのつきあいの中で初めて目にするものだった。
それは恰幅の良い画商には、あまりにもそぐわない表情であった。重そうな身
体を、一つ所に休ませておくことなく動き回り、時に怒り、時には快活に笑う。
活力に満ちた画商が、こんな表情を見せることもあるのだとは、老伯爵はいまの
瞬間まで思いもよらなかった。
「忘れていました………あのラインバルト・デトリックが、貧しい家の生まれで
あったことを………少年時代、どれだけ辛い暮らしをしていたかを。その中で、
画家になるという夢を、大切に守り続けてきたことを」
画商の丸い顎から、雫が垂れる。それが涙なのか汗なのか、それとも鼻水であ
るのかは定かでない。それを判別するのが難しいほどに、画商の顔は涙を中心と
した液体に覆われていたのだ。
号泣という言葉でさえ物足りない。画商はそれほど激しく泣いていたのだ。
画商がなぜ、突然そんな話を始めたのか、老伯爵には理解出来なかった。ただ
画商が対応していたはずの問題とは、老伯爵の想像していたものとは質が異なる
のかも知れない。そう思えてきた。
「これを………ご覧下さい。伯爵様が待ちかねておられた、デニス君の描いたも
のです」
そう言って、一枚の紙が老伯爵へ差し出された。どうやら画商は、それを見て
涙していたらしい。
老伯爵は無言でそれを受け取る。目を落とすと、一見してそれが水彩による絵
だと分かる。だが画商からデニスの名を聞いたため、絵そのものより先に老伯爵
の目は、そこに記されているはずのサインを求め、まず画面の右下に向けられた。
「なるほど、確かに『デニス・ラングレイ』とサインされている」
それから改めて絵を見る。
油絵の道具を手にしたデニスが、なぜ約束の時間を過ぎて水彩画を出して来た
のか、怪訝に思いながら。
「デトリックが初めて油絵を描いたのは、彼の作品が認められ、わずかながらも
収入を得られるようになってからと聞きます。私たちは、何か間違っていたので
はないでしょうか………いま思えば、このサロンも新たなる才能を見つけるため
と称しながら、初めから恵まれた者しか、対象にしていなかったのではないでし
ょうか」
鼻を頻繁に啜りながら、画商は震える声で語った。けれどもう、老伯爵はその
熱弁に耳を傾けることは出来なくなっていた。
老伯爵が手にした絵は、決して状態の良いと言えるものではない。たぶん壁に
でも貼られていたのだろう。四隅に画鋲によるものと思われる穴があいている。
それだけならまだしも、まるでその絵を一度握り潰しでもしたかのような、大小
のしわが無数に走っていた。加えてここに持って来るのに、絵を保護するための
然るべき手段を執らなかったらしい。雪の水分が紙を濡らし、絵の各所でにじみ
となっている。状態だけを見れば、この絵は致命的なダメージを受けていた。
しかし老伯爵の手にした絵には、それを超えたものあった。それが何であるの
か、具体的に言葉にするのは難しい。強いて言うのであれば、「心」であろうか。
優しさと言うものだろうか。
そこに描かれていたのは、二人の少女の姿だった。老伯爵には、二人とも見覚
えがある。
ああ、そうだ。デニスに油絵の道具を買ってやりたいと、街角で歌っていた少
女たちだ。
その幼さからは信じがたい、美しく洗練された歌声が耳に蘇る。
その歌声の効果もあるだろう。しかし歌を聴いていないはずの画商さえ、涙さ
せたのだ。いま老伯爵が感じている歌声の効果は、付随的なものに過ぎない。
老伯爵の手にした絵からは、およそテクニックというものを感じられない。構
図的にも別段工夫された痕は見られない。それはかつてあの公園で、画商が下し
た評価そのままであった。が、同時に感じたという不思議な力、それが分かった
ような気がする。
幼い子を見つめる少女。その優しげな表情。柔和で慈しみ深く、暖かく。
抱かれた幼い少女は見上げる。その安らいだ表情。幸せに満ち、愛しげで……
…ともに言葉を並べようとすればきりがない。言葉を並び立てることが、無駄で
あるよう思えた。全てはこの一枚の絵を見れば分かる。二人の少女が、どれだけ
お互いを想いあっているのか。それを描いた作者が、どんな目でその姿を見守っ
ているのか。
老伯爵は改めて思う。自分がデニスという絵描きに惹かれた訳を。
それは単に表に現れる、ものの形を正確に絵に写すという技術の高さではなか
った。いや、正直なところ最初にデニスに似顔絵を描かせたとき、相場以上の代
金を払ったのには、彼の見た目の貧しさに同情した気持ちがなかったとは言い切
れない。しかしそうではなかった。デニスの描いた絵には、そのモチーフとなっ
た者の内に秘められた心が、映し出されていたのではないだろうか。そしておそ
らくは、彼にとって最も愛する少女たちを描いた絵は、強く見る者の心を捉える
のだ。
「伯爵さま………」
不安そうに呼び掛ける声に気がついた老伯爵だったが、すぐに顔を上げること
が出来ない。先ほどの画商と同じように、自分の顔が人に見せるのをはばかられ
る状態になっていると感じたからだ。
「伯爵さま?」
繰り返し呼び掛けられるものを、いつまでも無視し続けることも出来ない。
「少し待ってくれ」
そう応えると、絵に折り目をつけぬように二つに曲げ、片手に収めた。そして
空いた片手でハンカチを出す。その際、腕の上にうっすらと積もっていた雪が、
崩れて落ちた。自分が感じていた以上に、長い時間、絵に見入っていたらしい。
「伯爵さまにさえ、異論がないのでしたら………」
どうにか見られても恥ずかしくないほどに顔を整えて上げた老伯爵に、やはり
いつの間にか顔を整えた画商が何か提案を持ち掛けて来る。
「その絵を正式に、出品作品として認めたいと思うのですが」
「私に異論など、あろうはずもない。だが………」
老伯爵にはデニスの水彩画の出品を認めるよりも、先にしたいことがあった。
「彼は………デニス君はいまどこに? 絵を持ってきたのは、デニス君だろう。
彼はどこに行ったのかね?」
すぐにでもこの絵への讃辞を、デニスに伝えたい。どう言葉にしていいのか分
からなかったが、その気持ちを抑えることが出来なかったのだ。
「それが………絵を持ってきたのはデニス君ではないのです。幼い少女でした。
そう! その絵に描かれている少女です。間違いない!」
「あの少女が? では、その子はいまどこに」
「さ、さあ」
老伯爵に言われ、初めてそれを思い出したように、画商は通りの方へ視線を向
けた。つられて老伯爵も通りを見遣るが、それらしい姿はない。
「申し訳ありません………私が絵に見入っている間に、どこかへ行ってしまった
ようです」
「そうか………仕方ないですな。せめて出品が認められたことだけでも、伝えて
やりたいのですが」
この雪のせいだろう。見つめる通りを行く人影はまばらであった。気のせいか
雪の降る勢いは、今朝方より増したようだ。
目的を果たした後の帰り道。少女にとって、行きの片道でさえ長い道のりだっ
たが、その帰りは一層遠いものになっていた。
一歩進むごとに雪に埋まった足を抜き、また雪の中に沈める。そんな行軍は、
幼い身体から容赦なく体力を奪う。絵を無事に送り届けた安心感と疲労、そのた
めに当然帰り道の方がより時間が掛かってしまう。
他の場所より柔らかかったのか、それとも降り積もった雪が多かったのか、そ
の一歩を踏み出すため埋まった足を抜くのに、より多くの力を必要とした。その
ために、雪から足が抜けたときには勢いを止めきれず、転倒をしてしまう。果た
して、何度目の転倒になるだろう。回数を重ねたことで、少女も転ぶことへの対
処法を学んでいた。手にしていた庇うべき絵を届け終えていたこともある。両手
をつき、顔面を雪中に沈める事態は避けられた。
驚きと痛みはあったが、上手く手をつけたことへの喜びが勝る。腕立て伏せを
するような恰好で、少女は笑みを浮かべる。けれどそんな小さな喜びは長く続か
ない。
足下の冷たさに気がついて、少女は慌てて立ち上がった。靴をなくした右足は、
もうとっくに慣れるというより感覚が麻痺して、何も感じてはいない。だがその
右足に代わるかのようにして、今度は冷たい雪の感触を左足が捉えていたのだ。
少女は裾をつまみ上げ、自分の足下を覗き込んでみる。紫色になった右足。その
隣りの左足が履いていたはずの木靴がなくなっていた。
転んだときに、脱げてしまったのだ。
少女はいま来た道を振り返る。白い雪の上に、点々と残る自分の足跡。
それを見たとき、少女の頭にある考えがひらめく。それと同時に、なくした靴
を探すことを忘れてしまう。
足跡の残る、いま来た道への関心は失ってしまった。けれどこれから進もうと
する道にも、幾つかの足跡がある。少女は背伸びして、周囲をぐるりと見渡す。
もっとも、伸びをしてもいくらも高さを稼げない身長と、降り続ける雪で霞む視
線では、それほど広い範囲を見られはしないのだが。
そして少女は見つけた。まだ誰の足跡にも汚されていない、滑らかな雪面を。
少女は寒さも忘れて走り出す。公園の中へと。その公園が、デニスが似顔絵描
きをしていた場所だとは、知りもしないで。
なるべく余計な足跡は残さないようにと、少女はベンチに飛び乗って歩く。滑
るために、ベンチの上では走れないのだ。ベンチの端まで来ると、今度は花壇を
進む。雪もベンチも花壇も、とても靴を履いていない足に優しいものではない。
それでも自分の考えに夢中になった少女は、その冷たさをも忘れていた。
やがて適当なところまで来ると、少女は純白の雪面へと飛び降りる。
転ばずに、上手く着地が出来た。空を見上げ、自分のやろうとしているを頭の
中で復習する。
それから慎重に足を進めた。一歩一歩、足を上げて歩くのではない。すり足で
進むのだ。雪に溝を掘るようにして。しばらくそれを続け、雪上に一本の直線が
刻まれる。そこから少女は向きを変え、また進み始める。今度は弧を描くように。
やがて弧は、直線のもう一方の端に繋がった。
そこから少女は、不要な足跡をつけないように注意し、ベンチの上に戻る。そ
れからまた、少し進むと雪面の上に降りて、溝を刻む。いつまでも飽きることな
く、少女はその遊びに夢中になっていた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。少女の一人遊びは、雪上に何本もの線を描
き、それは幾つかの文字となっていた。文字は二つの単語を成している。
言葉を語らない少女は、デニスやマリィの前で、文字を記すこともなかった。
けれど本当は文字を全く知らない訳ではなかったのだ。なのになぜか、少女は今
日まで文字で語ることを拒んでいた。
まだ歳幼い少女のことである。聞き覚えた言葉を、正しい綴りに直すことは難
しい。それでも懸命に、雪上に綴った言葉。少女は花壇の上から、それを満足そ
うに眺めていた。
「DENIS」と「MALY」。
デニスとマリィ、いまの少女が何より大切に思う、二人の名前。
やにわに思い立ち、さらに言葉を加えようと、少女は雪の上へ戻る。だが二文
字目を刻む途中、少女はふと足を止めた。書きかけの文字を見つめ、何かを真剣
な面持ちで考え込んだ。そして自らが出した結果に、少女は小さく頷く。
少女は足踏みを始めた。いま書いた文字を消すために。足踏みだけでは思うよ
うに行かないと知り、少女はその身体を文字が刻まれた雪の上に投げ出す。そう
して文字が消えると、少女は少し離れた場所から、新たな作業を始める。
降りしきる雪が、また少し勢いを増した。
時として、雪は優しい。このクリスマスの日に降る雪は、一部の人々には天か
らの贈り物として目に映ったことだろう。愛しい相手と二人きりの夜を過ごす約
束の恋人たち。愛する家族らと賑やかな夜を過ごす約束の者たち。そんな人々に
は、今宵の宴を演出する立役者となってくれる。
けれどそれは富める人々に限られたこと。暖をとるための薪にも不自由するス
ラムの住人には、雪は寒さに眠れない夜を一層過酷にするだけのもの。神子の生
誕の日を、祝うゆとりもありはしない。
ただこの瞬間だけ、少女は冷たい雪に夢中で文字を綴っていた。自分の身体が、
雪と同じほどに冷えて行くのも忘れ。
そして完成した、三つめの言葉。
並ぶ、デニスとマリィの名前。その中央、二つの名前よりやや下がった位置。
二人の名前に守られるようにして刻まれた、三つめの名前。それは「ルウ」と読
める。
三人の名前を書き終え、満ち足りた表情でそれを眺めていたルウ。けれど見て
いるうちに、雪に刻んだ名前を持つ二人が恋しくなってしまった。一面を白で覆
われた無音の世界、そこに自分一人の寂しさが小さな胸を締めつける。二人の顔
が見たくてたまらない。病気で寝ているマリィの容態が心配になった。
少女は駆け出した。
二人の元に帰るため。
少女が去った後、刻まれた文字の上にも新しい雪が舞い落ちて行く。しかし三
人の名前が消えてしまうのには、まだまだ時間が掛かるだろう。
そして三人の名前の近く、潰されてしまった文字の跡も。
少女がどんな名前を書き掛けていたのか、それは分からない。