#4724/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:32 (197)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【48】 悠歩
★内容
それを見る者の反応は、小さな違いはあるがほぼ同様であった。
まずは絶句。しばらく見入った後に、口から漏れるのは感嘆の言葉。
「素晴らしい」
「まさにそれぞ芸術というもの」
「全く、鬼気迫るとはこのことだ」
それらの賞賛を受け、アルベルト・ローダンは満足げだった。そこへ背後から、
画商が声を掛けてくる。
「驚いたよ、君の実力は充分に承知していたつもりだったが………まさかこれほ
どのものを仕上げてくるとは」
「恐れ入ります。ポリッシュさんにそう言って頂けると、私も自信になります」
それはまさに大作であった。
百号という巨大なキャンバス。そのサイズだけでも、サロンに並べられた他の
作品を圧倒している。しかし人々の賞賛を受けているのは、キャンバスのサイズ
ではない。もちろん、そこに描かれた絵が評価をされているのだ。
見る者によっては、心を重くしただろう。寒気を感じる者もいるだろう。
巨大キャンバスに映し出されたものは、さながら地獄絵図の如き風景である。
夜間、寒色に身を包む兵士たち。彼らを照らすものは月明かりではない。大小の
火柱である。飛び交う銃弾は隣りにいた仲間の頭を撃ち抜く。親しい友であった
のだろう。突然倒れた彼に駆け寄ろうとした兵士も銃弾の犠牲となる。しかしそ
んな悲劇も、戦場に於いてはごくごく小さなエピソードに過ぎない。そこかしこ
で同じような光景が繰り返されている。それでも戦場は動き続ける。盟友の死を
嘆く者は、次の瞬間には自らも死者と変わる。生きるためには死者を踏みつけ、
前に進むしかない。前に進み、己に銃口を向ける敵を殺す他、生き残る道はない
のだ。数刻前までは豊かな麦畑であったはずの土地は、犠牲者の血を吸い、硝煙
に焼かれ、闇よりもなお暗色へと塗り替えられて行く。
「力作揃いではあるが、その中でもさすがにアルベルト君の作品は群を抜いてい
る。主催者である私がこんなことを言うのははばかられるが、ラインバルト・デ
トリック賞はほぼ決まったようなものだな」
画商の言葉は、アルベルトの虚栄心を満たすのに充分なものであった。だが、
つい口元が緩みそうになるのを堪えながら、アルベルトは心にもない謙遜をする。
「いえ、お言葉は大変光栄ですが、他の方々がどう審査されるか分かりません。
私の見たところ、展示されている作品の全てが甲乙つけがたいものであります。
私如き者の作品が、それにどこまで拮抗出来るか………」
「はははっ、もっと自信を持ちなさい。君は間違いなく、将来この国を代表する
画家となるのだから。それは数多くの絵と作者を見てきた私が保証する」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げ、その表情が画商の視界から隠れたとき、アルベルトはほくそ
笑んでいた。
『貴様に保証してもらうまでもない。しかし、これだけ評価されるのだったら、
デニスとかいうヤツを潰さなくても良かったかな。とんだ無駄金を使ったかも知
れん………まあ、いいか。少しでも俺の障害となる可能性がある芽は、早々に摘
み取っておくに限るしな』
「おお、ようこそおいで下さいました」
アルベルトが頭を上げると、画商の関心は別の方向へ移されていた。それを些
か不快に感じながら、アルベルトも画商の関心を追う。
「これは、伯爵さま」
アルベルトの腰が一段と低くなる。今朝方別れた老伯爵が、改めての来場をし
て来ていたのだ。
「これがアルベルト君の作品かね」
絵を指し示し、老伯爵が訊ねて来る。
「はい、まだまだ未熟な絵で………目の肥えられた伯爵さまに、とてもお見せ出
来たものではなく、恐縮しております」
「いや、ご謙遜なされるな………ポリッシュさんも褒められていたが、確かに絶
賛に値する作品ですよ」
老伯爵の言葉によって、いよいよアルベルトの自信は高まる。これでラインバ
ルト・デトリック賞は手中に収めたも同然だ。この国の誇りである画家の名を冠
した賞が設けられたのも、偏に老伯爵の力に所以したところが多い。その老伯爵
にさえ認められれば、もう怖いものなどない。
この賞の受賞者、ことさらその第一回に選出されることは、画家としてのメリ
ットが大きい。いまでも画商によって認められ、それなりに成功しているアルベ
ルトではあるが、まだ国内での知名度は決して高くない。だがこの賞を受けるこ
とで、一気に知名度が上がることは間違いない。そればかりか、その名は国の外
へも響くこととなる。そうなれば、アルベルトの絵の価値は、控え目に見ても一
桁は変わって来るのだ。
心中、高笑いをするアルベルトだったが、光り輝く未来を夢見、酔いしれる気
持ちに水を差す者の存在に気がついた。
「いかがですかな?」
それは老伯爵の横に立つ、若い女性であった。老伯爵に掛けられた声にもすぐ
に応えず、難しい顔でアルベルトの絵を見ている。しかしその難しい顔というの
が、他の者たちとは異なり、絵に圧倒されている表情ではない。むしろ突然に、
猥褻なものを見せつけられたかのような、表情に嫌悪が感じられる。そしてつい
には、耐えきれないとでも言うように視線を逸らしてしまった。
「よい絵だと思います」
口ではそう言ったが、本心でないと容易に知れる。ただ老伯爵の絶賛の後、そ
の名誉を傷つけまいとしての世辞であろう。
『誰だ? この女は………くそ、芸術も理解出来ないような、バカを連れて来る
んじゃない』
老伯爵と画商がいなければ、実際に声に出していただろう。それが出来ないい
ま、アルベルトは心の中で悪態をつく。
しかし考えようによっては、老伯爵がここにいたのはアルベルトにとっても幸
いである。老伯爵がエスコートして来たのだ。この女性は貴族、それも極めて高
い地位の家柄と思われる。それは彼女に接する、画商の様子からも窺えた。もし
女性が一人でいて、迂闊にもアルベルトが罵りでもしていたら、全てが水泡へと
帰するところだった。
「伯爵様、あの、こちらのご婦人は?」
正体を知っておいて損はない。知っておけば、それなりの対応も出来る。しか
しアルベルトの質問に、老伯爵は口を濁すばかりだった。
「いや、私の古い友人のご息女でな。訳あって、我が邸にご逗留頂いているのだ
よ」
「古いご友人と申されます、やはり貴族の………」
それでもなお、女性の正体を知ろうとするアルベルトだったが、その試みは中
座しなければならなくなった。
何やらサロンの玄関が騒がしくなり、皆の関心がそちらに移ってしまったのだ。
「何度も同じことを言わせるな。そんな汚らしい恰好では、中に入れることは出
来んのだ。さあ、帰れ帰れ」
画商の耳に飛び込んできたのは、語気の荒々しい警備員の声だった。
ここに務める者たちには、充分に接客の仕方を教育して来たはずだ。このよう
に乱暴な振る舞いをするよう、教えたつもりはない。騒動の原因を確認しにきた
画商の眉間には、知らず知らずにしわが刻まれる。
「何事だ、随分と騒々しいが………」
「あっ、ポリッシュさん」
振り返った警備員を見て、画商のしわはさらに深まる。ただしそれは、怒りの
ためではない。警備員がなにを騒いでいたのかと、訝しく思ったのだ。
広い玄関前に立つ警備員。しかし彼の前方には、雪の降りしきる白い通りがあ
るばかり。人影は見られない。
それでは一体、警備員は何を騒いでいたのだろうか。彼のすぐ近くまで寄って、
ようやく画商は訳を知った。
警備員は画商に負けず、大きな身体の持ち主であった。その影に隠れ、接近す
るまではまるで見えなかったが、警備員の前には小さな少女の姿があったのだ。
「君、どのようなお客様にも、等しく丁寧に接するよう言ってあるだろう」
「はあ、申し訳ありません。ですが………」
「言い訳はいい」
「はい」
警備員を叱りつけた画商だったが、彼の言い分も理解は出来た。仮に自分が警
備員の立場であっても、この少女が中へ入ろうとするのなら強引に止めていただ
ろうと思える。
雪の降る中、コートも着けずにいるだけで尋常ではないものを感じてしまう。
さらには薄い服もあちらこちらに汚れやしみ、無数の傷があり見窄らしいものだ
った。なぜか足には左だけ木靴を履いていた。最初から片方だけだったのか、こ
こに来るまでになくしてしまったのか、画商には分からない。
日頃、人を見掛けで判断しないよう心懸けてはいたが、それでもつい避けてし
まいたくなる。そんな恰好を、少女はしていた。
「お嬢さん、ここに何かご用があるのかい?」
画商は努めて自然に、少女へ話し掛けたつもりだった。だが無意識のうちに抱
いてしまった偏見は、態度へと現れる。画商は自分より遙かに低い位置に頭のあ
る少女に対して、視線の高さを合わせることをしない。膝を折ることなく、高い
ところから少女を見下ろしていた。
「……………」
それでも画商は、極めて優しく問い掛けているつもりだった。だが少女は何も
話そうとはせず、無言で手にした紙を突きだしてくる。
「さて、この子は何が希望なのか」
幼子を相手にすることへ慣れていない画商は、頑なにも見える少女の態度に苛
立ちを覚えていた。唇を真一文字に結んだ少女の表情が、貧しい者によく見られ
る意固地さに思えたのだ。
その画商に、警備員から説明がなされた。
「さっきから、ずっとそんな調子なのです。まるで言葉を話さないので、よくは
分からないのですが………どうやらここをサロンと知って、自分も絵を出そうと
しているようですが」
「絵、だと?」
説明を受け、画商は改めて少女が差し出した紙に目を落とす。なるほどよく見
れば、それは絵であるらしい。さすがに幼い子どもが持って来た絵だ。中身を見
るまでもなく、判断できるほどに汚れた紙に描かれている。
絵を見ることのプロである画商は、あまりにも汚い紙に描かれた子どもの作品
に、興味を持つことはなかった。適当にあしらって、何とか帰らすつもりでいた。
が、その絵をしっかりと目に留めるとそんな考えは消し飛んでしまった。
「これは!」
画商の膝が折られる。より近くに絵を見るためだ。
その手を伸ばし、画商は紙をつかむ。少女の手が離れるのも確認しないままに、
絵を自分の元へ引き寄せると、紙を回して自分の方にその上下を正す。
「ポリッシュさん………?」
警備員の声が掛けられても、絵に見入った画商は返事もしない。耳に届いては
いないのだ。
「デニス………ラングレイ」
しばらくしてようやく応えたかのように思えた画商の声も、絵のサインを読み
上げたものだった。
玄関で起きた騒ぎを見に、画商が向かってからだいぶ時間が経過している。老
伯爵はファルネッタをエスコートし、サロンに出品された作品を一通り見て回っ
たが、まだ解決していないのだろうか。画商の戻って来る気配もない。
何か画商一人では手にあまる問題が発生したのだろうか。だとしたら、サロン
の共同主催者である老伯爵にもそれは関わってくる。すぐにでも画商のところへ
行き、騒ぎの元を確認すべきだろうと思いながらも、老伯爵は逡巡していた。い
ま自分は、招待したファルネッタを案内する身である。画商から助けを求められ
たのならともかく、婦人一人をこの場に残す訳にもいかない。
「なにかあったのでしょうか。ずいぶんと、時間が掛かっているようですが」
老伯爵が気に懸けていたことを、代弁するかのようにファルネッタが言葉にし
た。
「行って差し上げなくて、よろしいのですか?」
「いえ、ですがファルネッタさまを、お一人にする訳には」
「ご心配なさらなくても、平気ですよ。私も子どもではありませんもの。それに、
もう少しゆっくりと絵を鑑賞したいと思っていたところです。どうぞ行ってあげ
て下さい」
「はあ、ではすぐ戻って参りますので」
一礼をし、老伯爵はファルネッタの言葉に甘えることにする。
そのまま玄関に近づいた老伯爵は、まず人だかりを目にすることになる。来場
していた客の三分の一、あるいはそれ以上が集まっていたかも知れない。会場内
には幾つものストーブが設置され、充分な暖かさが保たれてはいたが、さすがに
この辺りでは外気の冷たさが勝り寒い。それにも拘わらず、集まった人々は会場
の外に興味深げな視線を集中させていた。
「すみません、ちょっと失礼します」
老伯爵は人垣を分け、前に進み出た。そして開けた視線に飛び込んで来たのは、
何やら困惑した表情を見せる警備員と、雪が吹き込む玄関外、大理石の床に背を
丸めて座る男の後ろ姿だった。
その個性的な体格を持つ後ろ姿から、男が画商であることは見間違えようもな
い。内部とは寒暖差の激しい外気に一つ身を震わせ、老伯爵はその背後へと寄っ
た。
「ポリッシュさん、どうされました?」
声を掛け、しばらく待ってみるが返事はない。