#4726/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:33 (196)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【50】 悠歩
★内容
いまにも音を立てて砕けそうなほど、アルベルトは奥歯を噛みしめていた。も
し周囲に人がいなければ、瞬時に全身の血液を沸騰させかねない怒りに負け、怒
号とともに壁を殴っていただろう。
だがアルベルトの周囲にはたくさんの人がいた。アルベルトをこれほどまでに
怒らせた人々が。
先刻までアルベルトの作品に賞賛の声を浴びせていた人々の関心は、別のもの
に移されていた。その節操のなさが、アルベルトには忌々しい。
ただ醜いだけの肥満体を持つ画商。アルベルトにとって彼の存在価値は、自分
の作品を評価し、高い値をつけて売買することだけにある。それがなければ、息
をしていることすら腹立たしい男なのだ。ところがその画商が、こともあろうに
アルベルトに集まっていた人々の関心を奪ってしまった。
画商が新たに追加した、一枚の絵。急遽用意させた額に収めた、いかにも安っ
ぽい水彩画。しかもあからさまに画帳から切り取ったものと知れる紙。しわやに
じみの目立つ、汚らしい絵に、人々の関心が集中してしまった。
何もかもが気に入らない。
決められた受付期間を過ぎて出品をされた作品。それも油彩のみに限定されて
いたはずが、水彩画でだ。それを安易に認めてしまう画商も、老伯爵も許し難い。
さらにアルベルトを不愉快にさせたのは、その絵の作者がデニス・ラングレイで
あることだ。
大金を払ってまで、出品を阻止したはずの男の絵が、アルベルトの力作より人
々の関心を集めているのだ。こんな馬鹿な話はない。矮小な体格で滑稽な自信を
見せていながら、仕事を果たせなかったボルドも憎らしい。
もし視線に力があったとしたら、もう十指にあまる死者を作っていただろう。
怒号を上げることも出来ないアルベルトは、毒々しい目でその絵に群がる人々を
睨んでいた。
その絵を見た人々の反応は、アルベルトの作品の時とはまるで違う。ほとんど
声を出す者がいないのだ。お粗末な絵に、呆れているのかと思えばそうではない。
よく見れば、何人かの婦人は目にハンカチを充て涙を拭いている。身体を震わせ
ている者もいる。
いくらアルベルトが自分に都合良く解釈をしてくても、彼らがデニスの絵に惹
かれ感動を受けているのが分かってしまう。
『芸術のなんたるかも分からないクズめらが』
衆目の中、暴れる訳にもいかず、アルベルトは気づかれないように毒づくしか
ない。
そんなアルベルトを、なおも怒らせる行為をする者がいた。デニスの絵に集ま
った人垣が中央で二つに割れる。その中を進み出でた婦人。老伯爵の連れてきた
女性だ。
その女性が何者であるのか、アルベルトは知らない。おそらく老伯爵と画商以
外に、知る者はないのではないだろうか。だが老伯爵の同伴してきた婦人である
こと、また女性自身の持つ雰囲気が人々に前を譲らせたらしい。
絵の前へと進み出た婦人が気にくわない。彼女はアルベルトの絵には全く興味
を示していなかった。それがこの安っぽい絵には、尋常ではない様子で関心を見
せている。たとえ婦人がどれほど高貴な身分であったとしても、アルベルトには
許せることでない。
絵の前で膝をつき、わなわなと震える婦人。さすがにその様子をただならぬと
感じたか、老伯爵と画商が駆け寄って来た。
「いかがされましたか?」
老伯爵が問い掛けると、婦人の指が絵に向けて伸ばされる。しかしその指先は
震えて、なかなか目標が定まらない。
「この………この子………この女の子」
定まらぬ指先の代わりに、婦人は声を出した。けれどそれも指先に負けぬほど
に震えている。
「女の子? こちらの少女でしょうか」
老伯爵の指したのは、二人描かれているうちの、幼い方の少女だった。声もな
く、頷く婦人。
「この子は………この子は、いまどこに」
どうやら婦人は膝が立たなくなってしまったようだ。突然に上体を伸ばして、
老伯爵にすがりついたが、膝は床につかれたままだった。
「は、はあ。この少女はスラム………戦時中の市街地であった場所にいると思い
ますが。この子をご存じで?」
婦人の狼狽ぶりに困惑の色を浮かべ、老伯爵が訊ね返す。それに対し、婦人は
声を絞り出すようにして答えた。
「この子は………私の娘です」
「なんと! まことですか、ファルネッタ様!」
思わず叫んだ老伯爵の言葉に、周囲の人々がざわめいた」
「ファルネッタ………ファルネッタだって!」
アルベルトは自分の耳を疑った。
田舎貴族でしかなかったアルベルトは、中央に近い貴族たちとはほとんど面識
がない。それでも彼らの名前については、世間並み以上に記憶している。
その中からファルネッタの名前を探し出すのに、いくらも時間を必要とはしな
かった。いや、この国に生まれた者であれば、知らない方が不思議なほど有名な
名前である。
「ファルネッタって、まさか。ファルネッタ王女か………」
他に思い当たりはしない。あの婦人か王女であるなら、老伯爵の恭しい態度も
頷ける。間違いはなさそうだ。
しかもその王女は、あの忌々しい絵に描かれた少女を娘だと言った。アルベル
トは寒気を覚える。
アルベルトはボルドにお金を渡し、デニスが絵を出品させないように依頼した。
デニスの絵のモデルになった少女だ。当然デニスと知り合いであるはず。だとす
れば、当然ボルドから受けたであろう妨害も見ている。王女の娘がだ。
王女が娘と会えば、その話も耳に入る。もちろん国王にも伝わるだろう。デニ
スや王女の娘がアルベルトのことまでは知らなくても、国王の肝いりで命が下れ
ば、すぐにボルドの存在が明らかになる。彼を調べられれば、アルベルトの名前
も出てしまう。
しかもアルベルトは殺人まで依頼している。
もはやラインバルト・デトリック賞どころではない。全てが公になれば身の破
滅なのだ。いまのうちに逃亡するべきか、それとも早急にボルドのもとに行き、
対策を練るか。判断に迷う。
「いやあ、大した人気ですね。あの絵は。えっと、デニス・ラングレイって言い
ましたかね、作者は?」
これから執るべき行動を迷うアルベルトに、見知らぬ男が声を掛けてきた。し
かも不愉快なことに、デニスの絵を褒めるため。
「私も近くで見ましたが、いや、なにかこう、絵で感動したのは久しぶりです。
それこそ、デトリックの絵を見たとき以来かなあ」
見れば若い男であった。目を輝かせ、熱く語っている。
「それがどうした。私はいま、忙しいんだが」
つまらない話に、つき合っている暇はない。もっとも自分の絵の讃辞であって
も、いまは酔いしれている時ではないのだが。
「ああ、これは失礼。あなたは確か………アルベルト・ローダンさんでしたね。
あの戦場の絵を描かれた」
「そうだが」
余裕はないのだが、自分の話が出るとつい、耳を傾けてしまう。アルベルトは
己の虚栄心を満たす言葉には弱かったのだ。
「あれも迫力のある絵でしたが………何か嘘っぽいところがありますね。作者が
自分の目で見たものではない、という感じがします。アルベルトさん、あなた戦
場に行ったことはないでしょう? 病弱だとかなんとかと言って。だからですよ、
見たこともない戦場を、無理して描かれるから」
男の言葉は快活であったが、アルベルトの弱点を突いたものであった。まして
讃辞があるものと思っていただけに、アルベルトの不愉快さは一気に頂点に達す
る。
「いい加減にしろ、素人が知ったような口を! 私は忙しいと言ったはずだ。こ
れ以上くだらない話に、つき合っている暇はない」
吐き捨て、アルベルトはその場を去ろうとした。しかし後ろから腕をつかまれ、
止められてしまう。
「失礼、失礼。言い過ぎました、どうか勘弁して下さい。実はアルベルトさんに、
大事な用があるんです」
「私に用だと?」
「ええ。ボルド・バトゥをご存じてすよね?」
男の口から出た名前は、一瞬にしてアルベルトの鼓動を高めた。あるいはボル
ドの手下が接触してきたのかとも考えたが、にこやかに笑う男の顔は、とてもそ
れらしく見えない。
「いや、初めて聞く名だが………」
「駄目ですよ、嘘をついても。なんて言ったかな、あなたの使用人。全部話して
くれましたよ」
それを聞いたアルベルトの行動は早かった。男を突き飛ばすと、全力で駆け出
した。この男は警察の者だ。もはや逃げる以外に、残された手段はない。
だがアルベルトの逃亡は、わずか二歩で終了した。
アルベルトの前方が、屈強な体格を持つ二人の男に遮られてしまったのだ。
「詳しい話は、署で聞かせて下さいな」
転んで汚れた服を払いながら、最初の男が後ろからアルベルトの肩を叩く。ア
ルベルトはもうこれまでと観念した。
歩くより遅いかも知れない。
道に積もった雪は、そこを進む車輪を重くする。それでも他の馬車の往来があ
る街中はいい。所々除雪された場所もあれば、先に通った馬車の轍を頼りに出来
る。
それがスラムに近づくにつれ、一つ二つの足跡があるだけでもまだましで、ほ
とんど手つかずの雪が残されている。
まるで未開の地を進むかのうに錯覚される中、老伯爵の所有する二頭立て馬車
の速度は遅々たるものだった。
「ここに………あの子がいるのですね?」
馬車の窓から外の風景を見ていたファルネッタは、期待と不安の複雑に入り交
じった声で、誰にともなく呟いた。
無理もないだろう。窓から見える街並みは、先の戦いの傷を色濃く残すものば
かり。このような所に、自分の子どもがいると知った母親の心境は、察して余り
ある。
「私も以前、途中まで送っただけですから、詳しくは分かりません。ただこの街
のどこかにいることだけは確かです」
その時はまさか、少女が王家の血を引く者とは思いもしない。無理にでも御者
に命じ、それでも拒否されたなら自分が直に、あの少女を家の前まで送ってやれ
ば良かった。ファルネッタに答えながら、老伯爵は強く後悔をしていた。
「しかし、手分けをして探すには、ここは些か危険な場所です」
同乗していた画商の声は、それと分かるほどに緊張をしている。老伯爵よりは
まだ画商の方が、スラムの事情というものを多く耳にしている。それだけに、こ
の地に入ることにも躊躇いを感じているようだ。
その画商は馬車を出す前、まず警察に協力を依頼することを主張していた。絵
のモデルになった少女が、必ずしもファルネッタの娘と同一人物である保証もな
い。そんな状態で、ファルネッタ自身が危険なスラムに向かうことを強く反対し
たのだ。
しかしファルネッタも頑なだった。
「私がお腹を痛めた子です。たとえ絵であったも、見間違えることはありません。
我が子を迎えに行くのに、人を頼ることは出来ません。母親が行かなくて、どう
するのです」
とてもそれを引き止めるのは不可能なほど、ファルネッタは興奮していた。仕
方なくファルネッタに付き添う形で少女と面識のある老伯爵、そして画商が同行
することとなったのだ。
「よろしければ、事情をお聞かせ願えないでしょうか。何故、ファルネッタさま
のお嬢様がスラムにおられるのか」
訊ねるべきことではないのかも知れない。それでもデニスや少女たちと関わり
を持った老伯爵には、他人事とも思えず、訊ねてしまう。もちろんファルネッタ
が拒めば、それ以上追求するつもりもない。
「……………」
ファルネッタから答えは返らない。暗く沈んだ表情で外を見つめ、黙りこくっ
てしまった。
画商は元より、スラムに入った緊張から必要以上に喋ろうとはしない。車内は
重たい空気に包まれた。
外では御者が懸命に鞭を振るうが、雪を掻き分ける二頭の馬の足は、思うよう
に進まない。
「私が………」
ファルネッタがようやく口を開いたのは、老伯爵が返事を諦めてからかなり経
ってのことだった。
「人々に、陰でどう呼ばれているかご存じでしょう」
今度は老伯爵が、答えに困る番だった。同様に困惑の無表情を浮かべる画商と、
声もなく顔を見合わせる。
答えは分かっている。だが当人を目の前にして、それを口にすることはあまり
にもはばかられる。老伯爵は邸の使用人たちの噂話にも、語ることを禁じた言葉
だ。それを自らが口にすることなど出来はしない。
窮する老伯爵たちに代わり、ファルネッタが自らそれを語った。
「売国姫と呼ばれています」
「口さがない者たちの立てた、くだらない噂です」