#4716/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:28 (194)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【40】 悠歩
★内容
デニスの苦笑は、困惑へと変わった。
「なんだ、マリィ。本当に知らないんだ………じゃがいもの芽って、毒があるん
だぜ。食べると、中毒を起こすこともあるらしい。ほら、だから大抵店では袋に
入れて売ってるだろう。あれは光にあって芽を出さないようにしてるんだ」
「やだ………私、そんなこと知らなくて………」
恥ずかしくて、顔から火が出てしまいそうだ。
まだ村に住んでいた頃、マリィは料理をほとんど作ったことがなかった。マリ
ィは自分を生来の不器用と思いこんでいたため、畑仕事やその他の家事は手伝っ
ても、料理については母に任せきりだった。だからじゃがいもの芽に毒があるな
どとも、知る機会がなかったのだ。料理も手伝って、母から習っておけば良かっ
たと、いまになって後悔をしてしまう。
「あっ! やっ、だめ!」
後悔をしている場合ではなかった。
マリィは慌てて、隣りの少女が抱えるようにして啜るスープ皿を取り上げる。
「ルウ、おいもは食べた? 食べてない? ねぇ、まさか、食べちゃった?」
半ば狂乱状態になっていたかも知れない。そんなマリィを、幼い少女は怯えた
目をして見つめていた。
デニスの話では、発芽していなければそれほど気にすることもないだろうと言
うことだった。この季節なら、その心配も低い。
それでもマリィは少女と自分の皿からじゃがいもを選り出し、芽の部分をスプ
ーンでえぐり取ってから戻した。
そんな騒動もあって、スープは冷めてしまった。けれど少女もデニスも、それ
を美味しそうに食べてくれる。自分では精一杯美味しく作ったつもりだが、何し
ろまともな料理の経験などない。普段作るスープとは、わずかばかりの野菜屑を
湯で煮ただけのもの。手に入ればそこに、やはりわずかな塩が加えられる程度で、
そんなものは誰が作っても大差はない。
デニスも少女も、そして作ったマリィ自身も、口が肥えている訳ではない。む
しろ普段は最低の食生活を送っている。そればかりか、水以外口にしない日も珍
しくはなかった。だからこそ、料理の不得手なマリィが作ったものでも、ご馳走
に感じられたのだろう。
それでもいい。それで良かった。
スラムの外、街で暮らす人にとっては普通以下の食事。母と妹を失う前のマリ
ィにとっても、ご馳走とは呼べなかったご馳走。それを美味しそうに食べてくれ
る二人。きっとこれは、マリィが最後に感じる幸せなのだろう。デニスがここを
離れ、ボルドの元に行けば幸せなど感じることはなくなるかも知れない。
くい。
物思いに耽るマリィの袖が、ふいに引かれた。
「マリィねえちゃ、ごはん、たべないの? おなか、いたいの?」
視線を向けた先から、マリィを心配する妹の声がした。
いや、違う。
そこにいたのは妹でない。どこか面影は重なるが、妹はもうこの世にいない。
マリィの瞳が映していたのは、別の少女、別のルウ。
声などはしていない。そこにいる少女は、話すための言葉をどこかへとしまい
込んだまま、忘れてしまった。マリィの耳に聞こえた声は、きっと少女がしまい
込んだ心の中から届いた声。
心配そうにマリィを見つめる少女。
「マリィのつくったスープ、おいしいよ」
そんなことを言いたいのだろう。
マリィの方に顔を向け、スープを一口啜ってみせる。それから小さな身体には
少し大きな頭を傾げて微笑んだ。そして手を伸ばすと、マリィの前に置いてあっ
たスプーンをつかむ。
「?」
何をするつもりなのだろう。黙って見ていると、次に幼い少女はマリィの手を
つかんだ。そして掌にスプーンを載せる。どうやらマリィにも食べるよう、促し
ているらしい。
「………うん」
様々な想いのために胸がいっぱいで、空腹のはずなのにあまり食欲はない。け
れど自分を心配してくれる少女へ頷き、マリィはそのスプーンで皿の中の液体を
掬う。マリィを真似て、少女もスプーンを動かす。二人は同時に、スプーンの上
の液体を啜った。
マリィが微笑むと、少女も笑った。顔中をくしゃくしゃにして。
「仲がいいよなあ………マリィとルウって」
感心したように、少し羨むようにデニスが言った。
「そうよ、私たち、仲良しだもの。ねえっ、ルウ」
マリィはルウへと頬を寄せる。デニスに見せつけるために。少女も嬉しそうに
応じてきた。
『ほら、お食事中に、お行儀の悪い』
母の言葉が思い出される。食事中、マリィに妹が甘えてきたときのことだ。
物心つく前にはもう、父のいなかった妹。父の思い出を持つことがそんな妹へ
の引け目になっていたのだろうか。マリィはことさら妹に甘い姉だった。もっと
もそれは、自分の機嫌が良い時に限られていたのだが。
あの時は、何で甘えてきたのか。
好き嫌いを言って母に叱られた妹を庇ったのか。太り気味を気にしたマリィが、
大好きなおかずを妹に分けてやったときだったか。
マリィの頬に寄せられた、妹の頬。
マシュマロのような、と表現されることがあるが少し違う。もっと確かな存在
感、自分を慕って来る温もり。どこか安らぐ、幼子の香り。
叱っていたはずの母が笑う。
失われた時間、失われた声、失われた感覚。
もう二度と感じることなど適わないと思われていた。そんな存在が、いまここ
にあの時とは別の形でマリィに触れている。
マリィは思う。
たとえデニスがいなくなっても、まだ自分にはルウがいる。希望まで失っては
いけない。ボルドの元、これまでより辛い日々が待っていようとも強く生きなけ
ればと。あの日、永遠に失われてしまった命を、心を、再びマリィに感じさせて
くれた少女のために。
マリィにとってこの幼い少女は、他人ではなくなっている。妹の代用でもない。
実の妹、いやそれ以上の存在、自分の全てを掛けても守るべきものとなっていた。
もしあと少し時間が経過したなら、それは母が子に抱く感情とマリィも知った
だろう。だが身体を売って日々の糧を得る暮らしはしていても、いまのマリィは
まだ13の少女だった。それを知るにはまだ早い。
「なあ、なんかあったのか。それともまだ、けがが痛いのか?」
マリィを気遣うデニスの声で知る。
自分で気がつかないうちに、マリィは涙を流していたことを。
「なんでもない………ちょっと昔のことを思い出しちゃって」
笑ったはずだった。
少なくともマリィはそのつもりだった。
けれどそれが、デニスの目にどのように映ったかは分からない。
マリィは願う。
二年間、信じることを忘れていた神だったが、もし本当に在るのなら。この時
間がとわに続くようにと。
マリィは震えていた。
身体もだが、その心が。
少女は絶句していた。
言葉を持たない少女に、この表現は適切でない。それでも目と口を開き、石化
したかのように固まり、それに見入る姿は絶句と言ってもいいだろう。
絵を見せたいと言い出したのはデニスだった。
「だって、完成までは誰にも見せないんじゃなかったの?」
「ああ、だけどもう、ほとんど完成に近いし、さ」
絵の描かれた側を裏に、壁へと立て掛けられたキャンバスに片手を伸ばし、も
う一方の手は頭を掻きながらデニスは言う。
「明日の朝には、速攻で持って行かなくちゃなんねぇだう? そうするとさあ、
そのコンクールの会場って言うのが立派な建物だから………マリィやルウが、絵
を見に行くのに気後れするかも知れないし。今晩のご馳走でお金もなくなって、
明日からはまた仕事に励まなくちゃならねぇから、時間もないだろうしな」
「だけど………無理にデニスの信念を変えなくたって」
デニスの絵を見ておきたい。
強い想いがマリィにはあった。
今夜見ておかなければ、一日中全ての時間をボルドの監視下に置かれる生活で
は、その機会もないだろう。何より、建築中の会場はマリィも幾度か目にしてい
るが、貧しい身なりの者が入れそうな雰囲気ではない。
これからのことをどれだけ考えているのかは不明だが、絵を見たいという想い
はルウもまた同じだった。キャンバスに手が触れた時点で期待に満ちた瞳を輝か
せ、より近い場所から絵を見ようと、デニスのそばまで寄って行った。
「別に、信念なんてものはないよ………それより、やっぱ、ルウと………そのマ
リィには一番最初に見てもらいたいんだ。ほ、ほら、なんたって絵のモデルだし、
いろいろと協力してもらってるし、その、なんだ………俺にとって一番大切なひ
と………ああっ、いや、大切な仲間だから、さ。は、ははっ」
ぎこちない笑い。
デニスは見せたいと願い、マリィと少女は見たいと望む。断る理由は何もない。
「うん、見せて………私も見たい。デニスの絵」
マリィが頷くのを待っていたように、キャンバスに掛けられていた手が返され
る。描いたデニスにとっても、見るマリィたちにとっても初めて経験する大きな
絵が、その姿を現した。
感動という言葉では物足りない。
美しいという言葉では表しきれない。
親に見捨てられ、工場では奴隷のように扱われ、どん底のスラム生活を送って
来たデニス。なのに、デニスの心は汚れることを知らない。深い山の奥で、人知
れず滾々と湧き出る泉のようにどこまでも澄んでいた。
絵の中にはマリィがいる。ルウがいる。絵を描いたデニスの姿もあった。
それだけではない。
アネットやフランシス、リリアにベネッタ、ネスら男の子たち。そしていまは
もう、遠い世界へと旅立ってしまったレナの姿まであった。
赤い色は夕焼けの色だろう。それはきっと、夏の日の夕暮れ。
日中の暑さが、ようやく涼しい風に代わり始めたころ。
柔らかな草の上、それぞれが思い思いの恰好でくつろいでいる。服の濡れた子
は、昼間水遊びをしていたのだろう。疲れて寝転がった子もいる。
楽しかった一日が、終わろうとしている。まだ遊び足りない。もっとみんなで
一緒にいたい。そう思った子たちがいる。
それは絵の真ん中にいた、三人の女の子。ルウとマリィ、そしてレナだった。
三人は談笑しているかのようでもあったが。けれど違う。
膝を折り、あるいは足を伸ばして草の上に座り、互いの顔を見ながら笑みを浮
かべてはいるが、おしゃべりを楽しんでいるのではない。
歌っているのだ。
周りの子たちが耳を傾ける中、一緒に口ずさんでいる子もいるだろう。ルウを
中心にした三人は歌っていた。
楽しそうに歌う幼い少女の姿は、マリィの知るものとは違っていた。マリィが
知っているルウは、楽しげな歌は歌わない。自分が歌いたくて、歌いたくて仕方
がない。そんな少女の姿は、マリィが初めて見るものだった。
絵の中のルウは、きっと言葉を取り戻しているのだろう。いや、初めから失っ
てはいないのかも知れない。歌い出す直前まで、マリィやレナと楽しくはしゃい
でいたのだ。
いつもいつも何かに堪えていた、悲しげな顔のレナ。でも、この絵のレナは違
う。とうとうマリィには見ることの出来なかったレナの笑顔が、ここにはあった。
そんな二人が嬉しくて、みんながそばにいることが嬉しくて、マリィも笑って
いる。どこかマリィの生まれた村に似た、その草原で。
一番近くで聴いている、ほとんど後ろ姿の男の子。わずかに横顔だけが窺える。
それがデニス。
「どう………かな?」
絵に魅入られていたマリィに掛けられた、遠慮がちな声。デニスの声。
いつになく真剣な面持ちのデニス。
明日の夢に向かって歩み出すため描いた絵。デニスにしてもそれがどう評価さ
れるかは、不安なのであろう。
「私、絶対に忘れないと思う………」
「えっ?」
「ラインバルト・デトリックの名前は忘れてしまうことがあっても、デニス・ラ
ングレイという画家の名前は一生忘れない………ううん、私だけじゃないと思う。
この絵を見た人は、みんな同じことを言うと思うわ」
「いくらなんでも、ちょっと大げさだけど」
「違うの。デニスが仲間だからって、言ってるんじゃないのよ。本当にそう思う
んだもの」
マリィは過大に評価したつもりなどない。自分や自分の知った仲間たち描かれ
ているため、思い入れも強くあるだろう。けれどマリィがこの絵に感じたものは、
きっと全ての人に伝わる。そう信じていた。
「ん?」
マリィを見ていたデニスの視線が、突然自分の足下へ落ちた。マリィもデニス
の視線を追う。そこには、デニスを見上げる少女の姿があった。出せない声の代
わりに、少女は大きな身振り手振りで、何かをデニスへ伝えようとしている。そ
の様子から、ルウもデニスの絵に感動し、それを懸命に伝えようとしていること
が窺える。
「そうか、ルウもこの絵、気に入ってくれたか」
少女からの評価に、デニスの表情も緩む。