AWC Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【35】 悠歩


        
#4711/5495 長編
★タイトル (RAD     )  98/12/24   0:26  (196)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【35】 悠歩
★内容
 夢であるなら、それで構わない。一時の喜びであってもいい、とさえ思えてし
まう。
 けれどすぐにそうしなかったのは、デニスがこれを悪夢であるかも知れないと
考えたからだ。
 デニスの前には幼い少女、ルウがいる。
 その奥には店の外から、ただ眺めるだけだった油絵の道具。
 そしてその奥には、微笑むマリィ。痛々しい姿のマリィ。それがデニスに悪夢
を思わせる。ただ素直に、望んでいた道具が目の前にあることを喜べない。
「マリィ………いったい、これは………」
 どうにか口を開いたデニスだったが、その先の言葉を言い淀んでしまった。マ
リィから返る答えを恐れて。
 並んだ油彩の道具一式が、どれほど高価なものであるのか、デニスにはよく分
かっていた。油絵を描くことに憧れ、時間がある度に店の外から眺めていたもの
だから。デニスの、いやそれ以上を稼ぐマリィの収入でも、それを買うには数日
の労働を要する。飲まず食わずで働いてだ。
 それがいまデニスの前に並んでいるのである。喜ぶより先に、どのようにして
手に入れたかが気に懸かってしまう。マリィがデニスには内緒のうちにお金を残
してくれたのか。確かにマリィはここしばらく帰りが遅かったのにも拘わらず、
収入がないと言っていたが、それはこのためだったのかも知れない。
 しかしデニスがコンクールの話をしてから、まだ幾日も経っていない。いくら
マリィが夜遅くまで仕事に励んだとしても、充分なお金を残すには短すぎる。
 そしてマリィの姿。顔や手足、服に隠されない全ての場所に大小のあざと傷が
見えている。その様子から察するに、服に隠された部分も同様の傷があるものと
思われる。
 このことからデニスは、マリィが何か危険なことをしてお金を得たのではない
かと不安になった。その代償が身体に残された、多数の傷ではないかと考えたの
だ。
 一体何を? まさか犯罪行為ではないだろうか。いや、誰よりもそうした行為
を嫌っていたマリィに限って、あり得ない。だがそうでなければ、得られる金額
でもないはず。あるいはデニスがコンクールの話をしてしまったことで、マリィ
を追いつめ、己の禁を犯させてしまったのではないだろうか。
「変なこと考えてるでしょう? 言っておきますけど、これはちゃんとしたお金
で買ったんですからね」
 デニスの考えを、まるで見透かしたかのようにマリィは言った。笑いながら。
「これはね、ちょっとしたトラブル。お客さんとの、お金のやり取りでね」
 自分の顔を指さし、マリィはそう説明をした。
 けれどもしマリィの言うとおりに、それが客との金銭トラブルによる傷ならば
尋常ではない。確かにマリィの商売に、客とのトラブルはつきものだ。大人の娼
婦と格差をつけるため、料金を低く設定しているがため、危険な客も寄りつきや
すい。だがマリィはそうしたトラブルを回避する術を身につけていたはず。
「まさか、ボルドか!」
 考えられるのはそれしかない。
 思い浮かべるのさえ忌まわしい男の名を口にしたことで、デニスの不安は瞬時
に怒りと入れ代わった。
「もう、さっきからデニス、一人で話を進めていない? ボルドは関係ないの。
ホントにこれは私のドジ。それにね、このけが、見た目ほどには酷くないんだよ」
 デニスはマリィの言葉を背中越しに聞いていた。
 マリィの傷がボルドの仕業だと思いついた瞬間、もうデニスの身体は動き出し
ていたのだ。ボルドを殴り倒しに行くため、ドアノブに手を掛ける寸前だった。
「まったくデニスったら、血の気が多すぎるんだから」
 マリィはさもおかしそうに笑っている。それにつられるようにルウも笑う。
 とても芝居には見えなかった。
「………信じていいんだな?」
「しつこいよ、デニス。私がうそを言ったことがあったかしら」
「わかった………ごめん」
 屈託のない二つの笑顔。それを疑うことは、天の使いに唾することにも等しく
思えた。デニスは信じることにする。
「だけどこんな高いもん………いいのかよ」
「いいのかよもなにも。もう買っちゃったんだから。それにね、こんなもの使え
るのはデニスだけでしょ。だからデニスが使うしかないじゃない」
 こともなげにマリィは言う。
 けれどそれを手に入れるため、マリィのして来たであろう苦労を思うと安易に
手を伸ばすことが躊躇われてしまう。
「実はね、私だけじゃないの」
「えっ」
「その道具ね、買うためにお金を出したの、私だけじゃないの。ううん、私が出
したお金なんて、ほんのちょっと。お手柄はルウなの」
「ルウ………? お前がか」
 デニスは少女を見る。
 誇らしげな笑顔を見せる少女を。
 初めの頃、あんなにぎこちなかった笑顔を、少しだけ様に出来るようになった
少女を。
「デニスも聴いたでしょ、ルウの歌。ルウね、街で歌ったのよ。そうしたら人が
集まって来てね、お金をくれたの。みんなルウの歌に感動して。中にはすごくた
くさんくれた人もいたんだよね」
 こくり。
 誇らしげに少女は頷いた。
「すごいな、ルウ………ありがとな」
 身体を屈め、デニスは少女の頭を撫でた。手にしたことはないが、羽毛のよう
な肌触りの髪と温もりが、撫でるデニスにも心地よかった。
 少女は気持ちよさそうに、そして照れくさそうに目を細める。
「それだけじゃないんだよ」
「えっ、まだなにかあるのか」
「今日、ネスがここを訪ねてきたの。お金を持って。ネスたち………アネットや
フランシス、ベネッタがボルドに見つからないよう出し合って、集めたお金。み
んなね、コンクールの話を聞いたんだって。それで自分たちも、デニスを応援し
たいからって」
「みんなが………ばかやろう、ボルドに知れたら、ただじゃ済まないって言うの
に」
 マリィたちに背を向け、デニスはそんな言葉を口にしてしまう。
 マリィやルウばかりでなく、多くの仲間たちが自分のために苦労してくれた。
乱暴な言葉を吐かなければ、柄にもなく涙してしまいそうだったから。
「コンクール、間に合わせなきゃね」
 背中から聞こえてくる言葉に、デニスは「ああ」と短く答えるのが精一杯だっ
た。



 いつ以来であろう。
 たぶん初めてのことだ。
 この部屋の暖炉が、赤々と炎が燃えているのは。
 あの戦争によって、崩壊しない程度にまで傷めつけられたアパート。すきま風
が闊歩して行くような部屋では充分に暖まりきらないが、それでも惜しみなく薪
をくべる。
 薪ばかりではない。必要なものは何も惜しまない。
 デニスの手元が暗くなってはならない。だからろうそくも灯す。
 体力だって必要だろう。だから充分な食事も摂った。
 幸い老紳士から道具をもらったことで、マリィたちの蓄えていたお金が残され
た。ネスたちのお金もある。デニスの絵が完成するまで保てばいいのだ。その間
は何も惜しまず、贅沢に使おう。
 そこまでしなくてもと言うデニスを圧して、マリィがそう決めたのだ。
 デニスの部屋では早速今日から、絵の制作が始まった。
 造りもマリィの部屋とさほど代わりない。以前はアネットとベネッタが使用し
ていた部屋をデニスが使っている。
 やはり自分の使っているものと同様に粗末なベッドの上に、マリィは腰を下ろ
していた。肩には汗や埃の匂いが染みついた、デニスのコートを羽織って。コー
トをなくしてしまったと言うマリィに、男物だけれど我慢してくれとデニスが渡
したもの。マリィは断ったが、贅沢の強要を受け入れる交換条件とされてしまっ
た。だがマリィも、それを嫌だとは思わない。むしろ芳しいとは言いがたい、コ
ートからのデニスの匂いが心落ち着かせる。
 そしてマリィの膝には、毛布にくるまれた少女。一時間ほど前までは、澄まし
た顔でポーズを作っていたルウも、久々に空腹を癒されたこともあってか、ぐっ
すりと寝入ってしまっていた。
 マリィとルウは、絵のモデルを勤めていた。水彩画のときと同じように。
 デニスからそれを求められ、初めマリィは拒んだ。趣味で描いた水彩画とは訳
が違う。もしかするとデニスの将来を決めかねない、大事な絵なのだ。もっと描
くべきものがあるのではないかと、マリィには思えた。
「画家にとって、その時描きたいと閃いたものを描くのが一番なんだ」
 そんなマリィに、いつか聞いた聞いた台詞をくり返してデニスは笑う。
「だけど………私やルウだけじゃないのよ」
 デニスの言葉を聞いてもなお、マリィにはまだ躊躇われた。すでにモデルにな
ることに乗り気な少女を横目に、マリィは闇の一色に埋め尽くされた窓の外を見
る。
 ネスにアネット、フランシス、リリア、ベネッタ。そしてデニスには秘密にし
ている老紳士、いやアウストラック伯爵。仲間たちの協力があってこそ、こうし
てデニスに夢を叶えるチャンスに挑戦させてやることが出来る。マリィやルウば
かりが絵のモデルになることに、罪悪感に近いものを感じたのだ。
「描くさ………みんな。でも実際に見ながら描けるのは、マリィとルウの二人だ
ろ?」
「えっ?」
「なっ、モデルになってくれよ。俺にとって、最初で最後のチャンスかも知れな
いんだ。だからこそ、マリィたちを描きたい」
「私、こんな顔なのよ?」
 昨日の暴行の痕である顔のあざも、まだ消えてはいない。むしろ昨夜よりも目
立つようになっている。それもマリィにモデルになることを躊躇わせる理由の一
つであった。
「平気さ。そんなあざくらいじゃ、マリィの綺麗………可愛らしさは変わらない
から。それに俺、マリィの一番いい顔を知ってるし」
 冗談とも本気ともつかない笑いを浮かべてデニスは言う。
 断りきれず、結局マリィはモデルを受けることになった。ベッドに腰掛けてい
るのは、デニスがマリィの身体を気遣ってのこと。
 じっとしていることに疲れてか幼い少女は眠ってしまい、モデルとしては不都
合と思われる状態になっても、デニスの手は止まらない。マリィも身体のきつさ
に堪えながらも、絵に熱中するデニスに見とれていた。
 コンクールに出品する、他の画家たちがどれほどの絵を描くのかは分からない。
けれどマリィは思う。ひいき目で見ていることも否定は出来ない。それでも思う。
デニスには絵描きとして天賦の才能があるのだろうと。
 水彩のときもそうだったが、初めて手にする油彩の道具。教えてくれる者もな
く、さすがにデニスも困惑を見せていた。ところがほんの少し、画帳の上で練習
しただけでおおよその感覚をつかんだらしい。下絵もそこそこに、早速本番へと
取り掛かってしまった。
 キャンバスを椅子の背に立てかけ、それでもぐらつくときには手で押さえ、デ
ニスは初めての大きなチャンスに筆を走らせる。
 絵に取り組むデニスは疲れを知らない。休むことなく絵を描き続ける。そんな
デニスの足を引っ張るような真似は出来ない。だからマリィも身体の痛みや疲れ
を隠し、笑みを浮かべ続ける。
 ごほん、ごほん。
 咳が二つ。マリィの喉からこぼれてしまった。
 自分の咳で、マリィは部屋の温度が下がっていることに気づく。見ると暖炉の
炎が消えかかっていた。
「デニス、暖炉………薪をくべないと」
 絵を中断させることは躊躇われたが、放っておけばデニスやルウが風邪をひい
てしまう。デニスの動く音しか聞こえなかった部屋に、マリィの言葉はやけに響
いて感じられた。
「ん、ああ………ごめん、気がつかなかった」
 手を休ませ、デニスは暖炉へと目をやった。
「ちょっと待ってね。すぐに薪をくべるから」
 そう言って、マリィは膝で眠る少女をベッドへ下ろそうとした。
「あ、いいよ。ずいぶん、夜も更けたみたいだし。今日はこのくらいにしておこ
う」
 デニスは一つ、大きなあくびをしながら言った。キャンバスから筆が離れると、
それまでの真剣さが嘘のように普段のデニスに戻ってしまう。
「うん、じゃあ私、部屋に帰るね」
「それだけどさ。なんか俺の部屋だけ火をおこして、気が退けてたんだ。しばら
く部屋を交換して、マリィたちがこっちで寝たらどうだ?」
 デニスらしい気遣いだと、マリィは思った。
「ふふっ、遠慮おくわ。だってこの部屋、絵の具の匂いがすごいんだもの。こん
な匂いの中で寝られるのは、デニスくらいでしょ」
「じゃあ、マリィの部屋にも、少し薪を持っていこうか?」
「いいわよ、どうせデニスだって寝てる間は火を消すんでしょ」
「それはそうだけど………あ、ルウは俺が抱いていくよ」
「ありがとう」
 マリィの膝から、少女の身体が浮き上がった。デニスの腕に抱かれたのだ。
 体重の少ない少女ではあるが、それでもマリィは自分が軽くなったような気が
する。けれど感じられる少女の体温がなくなり、それによって強まる寒さの方が
厳しい。




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