#4712/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:27 (192)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【36】 悠歩
★内容
少女を抱え、マリィに先行していたデニスだったが、ドアの数歩手前で立ち止
まったかと思うと、ふいに不自然な形で横に身体を移動させた。
「マリィ、先に行って」
促され、少女を抱えたままではノブを回せないからだろうと思いながら、マリ
ィは先に進みドアを開ける。そして廊下へと出るが、一向にデニスは着いて来よ
うとしない。
「どうしたの?」
怪訝に感じてきびすを返すと、なんでもないよとデニスは答える。キャンバス
を背に隠すような位置に立ちながら。
「ああっ! ひょっとして絵を私に見せたくないわけね。ひどい、モデルに見ら
れたらまずいような絵を描いてたんだ」
「そうじゃないけど………とにかく」
身体を傾けて絵を覗き込もうとするマリィは、突進するかのような勢いで前進
してきたデニスによって部屋の外に押し出されてしまった。それから手のふさが
ったデニスは、足でドアを閉めてしまう。ドアの隙間から、わずかにろうそくの
明かりが漏れているものの、廊下は暗くなってしまう。
「さあ、早くルウをベッドに寝かせてやろうぜ」
「もう」
拗ねた真似をしてはみるが、デニスの言葉に従いマリィは先行して自分の部屋
に戻る。今度はちゃんと着いて来たデニスが、そっと少女をベッドへ寝かせた。
「ありがとうデニス」
「ん」
少女をベッドに置いたあと、振り返ったデニスとマリィの目が合う。そのまま
デニスは動きを止め、じっとマリィの顔に視線を釘づけた。
また顔の腫れが酷くなってしまったのだろうか。デニスの視線が怖くなり、マ
リィは頬を手で隠そうとした。が、それよりも早くデニスの口が開かれる。
「変わったよな………」
マリィへ、と言うよりは思わず呟いてしまった。そんな感じの言葉だった。
「マリィ、お前、自分で気がついてるか? 自分が変わってきたのを」
ごく最近聞いたばかりのような言葉と反応。
「昼間、ネスも同じようなことを言ってたけど………」
「ああ、あいつはここを出てしまったからな。時間をおいて会ったぶん、強く感
じるんだろうな。マリィって男勝りで、言葉遣いもどっちかって言うと乱暴だっ
たろう? まあ俺はそんなマリィも嫌いじゃないけどな」
ははっ、と短い笑いを着け添えて、デニスは自分の鼻を掻く。
「最近急に、女らしく………なんか雰囲気が優しくなったんだよなあ」
「そんな、私は変わってなんかない………前もいまも、私は………」
マリィは何かとても恥ずかしくなり、見つめるデニスから逃げるように目を逸
らせてしまった。そうしながら、マリィは思う。確かに自分は変わったかも知れ
ないと。
かつての自分であれば、こんな話は馬鹿を言うなと笑い飛ばしていただろうに。
いまはそれが出来ない。ただ恥ずかしいばかりである。
「こいつのせいかな」
デニスの視線は、逃げるマリィを追いはしなかった。代わりに二人の会話に聞
き耳を立てることなく、ぐっすりと眠る少女に向けられた。
「こいつと暮らすようになってからだぜ。マリィが変わったの」
どれほど暖炉に薪をくべようと、一度火を落としてしまえば風の往来が自由な
アパートのこと。冷え込むのは驚くほどに早い。
それを考えればデニスよりも自分の方が恵まれていると、マリィは思う。
マリィのベッドには朝まで変わらない温もりを保つ、少女がいるからだ。デニ
スの言う、マリィを優しくした少女が。
デニスが自分の部屋へと戻ってしまうと、静けさと寒さだけが残される。
風が一陣、マリィの身体を嘗めて行った。ベッドとそこに眠る少女の体温に恋
しさが募り、マリィも身を滑らそうとする。
少女を起こさぬよう、充分に注意を払ったつもりだったが、ベッドに潜り込む
一瞬ミスを冒してしまったらしい。頼りない毛布がめくられ、わずかに蓄えられ
た少女の温もりを持つ空気が寒い室内に逃げてしまった。
静けさを破るくしゃみ。
自分のくしゃみに驚かされたか、寒さのためか少女が目を覚ましてしまった。
「ああっ、ごめんなさい。起こしちゃったわね」
少女の頭を胸に抱き、マリィは謝った。が、それが失敗だった。マリィは少女
を抱いたまま、続けざまに三つ四つと咳き込んでしまう。マリィが咳をすること
で、胸の中の少女の頭は激しく撹拌されてしまうこととなる。初めはぼうっとし
ていた少女の目も、はっきりと目覚めてしまった。
「ごめんなさい………ほんとうにごめんなさい」
深く反省してしまうマリィだったが、少女の方はさほど気にした様子はない。
初めこそは何事が起きたのかと、戸惑った表情を見せていたが、隣りで横になっ
たマリィの姿に安心したのだろう。甘えてマリィの胸に、柔らかな頬をすり寄せ
てきた。
「ん、私は平気よ。ちょっと寒かったから」
マリィがそう言ったのは、小さな手が胸をさすって来たから。咳き込んだマリ
ィを心配して、介抱しているつもりなのだろう。
一度妨げられた眠りは、なかなか戻って来てはくれない。それが早く訪れるよ
う、マリィは少女の頭を撫でるが、効果は現れない。マリィの胸に頬を押しつけ
たままおとなしくしているので、眠ったのだろうと思えば突然顔を上げ、嬉しそ
うに見つめる。そんなことがしばらく続く。
「あのね、ルウ」
いまは胸の中でおとなしくしている少女に、そっと声を掛けてみる。眠ってし
まったのか確かめる意味もあったのだが、少女はまだ起きていた。マリィは少女
へ、ずっと考えていた相談を打ち明けることに決めた。
「大切なお話があるの。デニスには秘密のね」
潜めた声で、極めて真剣にマリィは話した。相手が幼い少女であっても、自分
と対等以上の者と話すときと同じように。
マリィの言葉の真剣さを、少女も敏感に感じ取る。母親に甘える幼子の表情が、
緊張を帯びて強ばった。
「ボルドって男の人、覚えているかしら?」
マリィがその名を口にしたとたん、少女の強ばった顔が引きつるようにも見え
た。少女にとっても、あの男の記憶は何一つ良いものではない。ただ恐れる対象
でしかないのだろう。
マリィは自分の考えの全てを、少女へと語った。辛い話を。
それは少女にとっても辛い選択であるはず。マリィを見つめる瞳が、何よりも
雄弁に少女の気持ちを表していた。
「それしかないの………分かってルウ」
なんとか説得をしようと試みるマリィ。けれどいまにも泣き出してしまいそう
な瞳は、凍てついたまま動きもしない。
「だけどね、そうしなければ、私とルウ、お別れになっちゃうんだよ。ルウはそ
れでもいいの?」
ずるいとは思ったが、マリィは切り札の言葉を口にした。マリィの想像通り、
少女の目は丸くなり、ついには涙がこぼれてしまう。そして、半身をベッドから
起こすと、ゼンマイを巻ききった後に放たれたおもちゃのように、ふるふると激
しく首を横に振った。
「じゃあ、分かってくれるね」
しばしの空白の時間が流れたのち、少女はただ悲しげに頷いた。
「ほほう、君の方から私を訪ねて来るとは、どういう風の吹き回しだろう」
吐き気を催させる笑顔が、マリィを見つめていた。愉快そうに、嘗め回すよう
に。
「それにしても酷いなりだね。一体誰が………まったく許し難いヤツがいたもの
だ。同情しているよ」
厚顔無恥とは、この男のためにあるような言葉だ。だが男の本質を知るマリィ
は、彼の言葉の裏に隠された意味に恐怖もしていた。従わなければ、同じことは
何度でもあるのだぞと脅迫するボルドに。
それでもマリィは恐怖感を押し殺し、男と対峙していた。決して暴行の一件で
自分が怯んでいることを見せてはならない。悟られてはいくらでも足下を見られ
てしまう。あくまでも、凛として臨まなければならない。
けれどルウは違う。幼い少女には矮小な男の持つ、威圧感、残忍さは堪えられ
るものでない。マリィの背に隠れ、男の視界内に入ろうとはしなかった。裾をつ
かむ拳の震えが、マリィにも届いてくる。少女の怯えを知ればこそ、マリィは自
分が毅然としなければと、強く思う。
「あなたの元で………働きます………」
血を吐くにも等しい屈辱的な言葉。非道なやり方に反撥し、屈することを拒み
続けてマリィにとって、それは敗北を宣言するようなものだった。
「ほう! ほうほう」
反り返って腰掛けていた椅子から、ボルドは身を乗り出して来た。両サイドに
立つ男たちが厭らしい笑いを浮かべる。
「そうか、ミス・マリィ。やはり君は利口だよ。やっと分かってくれたか」
言葉の内容とは裏腹に、ボルドの目は己の勝利を誇り、マリィを蔑んでいた。
それがマリィの敗北感をさらに強める。
「だけど条件があります」
「条件? 何だね、言ってくれたまえ」
「一つは二十五日まで待って下さい。それまでの間は、私たち………デニスにも、
この子にも手を出さないと約束して下さい」
「おい、自分からボルドさんのところで働きたいと言ってきて、厚かましい条件
なんかつけるんじゃねぇぞ」
口をはさんで来たのは、ボルドの横に控える手下の男であった。ボルドとは違
い、謀りごとには向かない男は、己の凶暴さを隠そうともしない。
「よさないか。若いお嬢さん相手に、凄むものじゃない」
根本的なところでは手下と何も変わらないボルドが、物わかりの良さを繕いそ
れを制す。
「それから………」
つまらないなれ合いの芝居を無視し、マリィは話を続けた。
「おやおや、まだあるのかね」
「あなたの元で働くようになっても、この子の面倒は私が見ます。それについて
あなた方には、一切構わないで欲しいんです。もし、この条件をのんでいただけ
ないのなら、私は殺されてもあなたには従いません」
そこまで言い放つと、マリィはボルドを見据えて返事を待った。
「なるほどね………しかし君は何か勘違いをしてるよ。君たちに手を出すなと言
うが、いままでだって、私は何もしていない」
「私が訊きたいのは、条件をのんでいただけるかどうかです。わざとらしい言い
合いをするつもりはありません」
相変わらず笑みを浮かべてはいたが、それが決して本質ではないボルドの眉が
わずかに痙攣をした。しかし勝利を確信した余裕か、いつものように容易く本性
を剥き出し、荒れはじめることもない。
「いいだろう。私は本心から、このスラムの復興発展を望んでいる。君がそれを
理解し、手を貸してくれることに歓迎するよ。分かった、条件をのもう。約束す
るよ」
「ボルドさん!」
不満げな手下の発言はマリィにも、彼のボスである男にも無視される。
「本当ですね?」
「ああ、誓う。私は二十五日まで、決して君たちには手を出さないと」
この男の誓いなど、どこまで信用していいものか。あてにはならない。
それでもマリィが屈したことで、ボルドの目的は達成されたはず。これでデニ
スの絵が完成するまで、ある程度の安全は信じてもいいだろう。デニスの絵さえ
描き上げられればそれでいい。
「それでは、約束の日にまた挨拶に伺います」
マリィは心中余りあるほど憎む男に一礼し、その場を退室した。
「あれでいいんですかい?」
荒事にはそれなりに役立つが、頭を使う仕事は任せられない男はどこか不満げ
であった。マリィの立ち去った後をいつまでも、つまらなさそうに見つめている。
「あれで、とはなんだね」
ボルドは香りが好みという訳でもないが、虚栄心だけで愛用している高級葉巻
に火をつけ、燻らせる。
「マリィのヤツは折れて来ましたが、デニスの野郎まで落ちた訳じゃないですぜ」
「ふん、そんなことはお前に言われるまでもなく分かっている。構わんよ、マリ
ィさえ手に入れば充分稼げる。デニスにしたって、一人になっちまえば、俺に逆
らい続けはせんさ」
「ですが、野郎、絵のコンクールとかに出るんですぜ。マリィが二十五日までと
条件しやがったのは、その期日のことでしょう」
「ふうっ………本当にお前らは頭が回らないな」
葉巻の煙とともに、ボルドはため息を吐き出した。
「コンクールだかサロンだか知らないが、本物だぞ? 主催者はあのアウストラ
ック伯とポリッシュ画商だ。ガキのお絵かき大会なんかじゃねぇ。街どころか、
国中から絵の上手い連中が集まってくるんだ。デニスごときに、どうにかなるよ
うなモンか」
そう言って、ボルドは高らかに笑った。