AWC Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【23】 悠歩


        
#4699/5495 長編
★タイトル (RAD     )  98/12/24   0:21  (199)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【23】 悠歩
★内容
 そんな呟きがしばらく続いた後、ぱたりと音を立てて画帳が閉じられた。
「いかがかな、ポリッシュさん? 私の目には、なかなかのものとして映ったが」
 満足そうな老伯爵の言葉。その様子から、デニス自身よりもデニスの絵を高く
評価してくれていることが感じられる。ありがたいことではあるが、デニスには
それが些か楽観的過ぎるようにも思えた。所詮は、挫折を知らない裕福な者の気
楽さか。
「はい、確かに伯爵さまの仰られた通り、街の似顔絵描きとしては相当のもので
すな」
 この答えに、いち早く反応したのもデニスではなく、老伯爵だった。
 会心の笑顔で、大きく頷いている。
 もちろんデニスにとっても、画商の言葉は嬉しいものであった。しかし幾度と
なく痛い目に遭って来たデニスは、すぐに喜ぶことはない。相手の言葉が完全に
終わるまでは。
 そしてデニスが予想していた通り、画商の言葉はさらに続いた。
「ですが」と。
「ですが、とはどういうことですかな?」
「あくまでも似顔絵描きとしては、上手い方だと言うことです。まあこの画帳に
は似顔絵として描かれたものはなく、風景画や身近な者の人物画らしきものがほ
とんどですが」
「………」
 そして厳しい目が、デニスを見据えた。
 喧嘩における睨み合いでなら、デニスは相手に負けた記憶はない。それどころ
か、実力行使になる前の睨み合いで、相手を圧倒してしまう場合が多い。
 けれど画商の睨みに、デニスはいままでに経験のない迫力を感じてしまった。
これがその世界で成功を収めている者の力なのだろうか。
 画商がデニスの絵に否定的な言葉を述べると、老伯爵は何も言わなくなった。
まるでこの場の空気全てを、画商一人が支配しているかのようになる。
「しかしそれもまた、モチーフの雰囲気を捉える力に長けているだけに過ぎない。
それ以上の技術というものが、まるで感じられないのだ。
 いま見せてもらったものはラフデッサンばかりだったが、この力のままに描か
れた絵が市場に出たとしても、私には値をつけかねる」
 それでもう、充分だった。難しく言葉を装飾しなくても、画商の目から見たデ
ニスの絵には、とても才能を感じることなど出来ない。そう言っているのが分か
る。
「………ありがとうございます」
 平静を装い、デニスは画帳を返してもらう。本当は激しい失望感が胸の中に広
がっていたが、それを他人に見せたくはない。見せてしまったら、自分は完全に
負けてしまう。これも、長いスラムでの生活で身についた習慣だった。
「値をつけかねるが、かと言って無視してしまうには気になり過ぎる」
 デニスの絵に対する、画商ポリッシュの評価はまだ終わっていなかった。これ
以上の否定的な評価を聞き続けるのは、決して愉快なことではない。デニスはす
ぐにでも耳を塞ぐか、駆け足でその場を立ち去りたかった。
 けれどデニスはそうしなかった。
 否定的であろうとも、最後まで評価を聞き届けようと言う積極的な姿勢なのか、
単に未練か、デニス自身にも分からない。
「いや、さすがに伯爵さまが見い出されただけのことはあります。もし私が最初
にデニス君と会っていたら、絵を一瞥した程度で興味を失っていたでしょう」
 ポリッシュが老伯爵に向けた言葉は、聞きようでは嫌味ともとれるものだった。
 画商と初めて会ったのが、ほんの数十分前であるデニスに二人の関係は分から
ない。ただ老伯爵に対しては畏まった態度を見せる画商が、その言葉に嫌味を含
ませられるとは思えなかった。
 ならば?
 いったい、ポリッシュはデニスの絵にどんな評価を下したのだ。
 混乱するデニスへ、画商は再び言葉を続けた。
「正体は分からないが、君の絵にはなにかこう、不思議な力を感じる………一見
しただけでは見落としてしまうが、じっと見つめていると心を惹きよせられるよ
うな………こんな言い方は専門家として歯痒いのだが、デニス君にはテクニック
とは違う、それを超えたなにかがある」
 そして画商は太い体の中に埋もれ掛けている顎を、人差し指と親指で挟みこん
だ。その体格もあって滑稽に見えるが、本人は真剣な面持ちで考えているらしい。
「是非にでももう一度、君が全力を注いだ絵を見てみたい。どうだろう、デニス
君。いまからでは時間的に少々きついが、君も絵画展に出品してみないか?」
「え? あ………ああ?」
 ポリッシュの不格好さを、笑ってばかりもいられない。その突然の提案に、訳
も分からずデニスは阿呆のような反応をとることしか出来なかった。
「うん、それはいい!」
 一旦はデニスの絵を否定され、静かになっていた老伯爵が、嬉々とした声を上
げた。
「実はね、私とこのポリッシュさん共同でサロンを造ったのだよ。知っているか
な? 町の南側に新しく建った建物を」
「はい………見たことはありますが、てっきりどなたかのお屋敷かと………」
 戦争が終わり、国の経済は徐々に復興しつつある。街には新たに近代的な建築
物が造られていく。ただしそれは富める者たちの間でのこと。富める者たちが新
たに財を増やしていく裏で、貧しき者たちは戦時中と変わらぬ、いやそれ以下の
暮らしを強いられていた。
 広く街中を商売の場所として徘徊していたデニスは、老伯爵の言う南の建物に
も早くから気がついていた。たが日々の食費を得るのに懸命だったデニスが、そ
れが何を目的とした建物なのか気にすることはなかった。
 もっともたったいま、サロンだと老伯爵から聞かされても、デニスにはその意
味が分かってはいなかった。
 それでもサロンがどういったものであるのか、デニスには関心がない。それよ
りも、いまデニスの興味はサロンのことよりも先に、画商が口にした言葉であっ
た。
「ポリッシュ………さん、あの、絵画展って?」
「うむ」
 ふいに画商の視線がデニスから逸れた。そして空を仰ぎ見る。
 画商につられるように、その視線の先をデニスも追った。が、そこに何かある
訳でもない。ただ冬の澄んだ青空に、白い雲が二つ三つ浮かんでいるだけだった。
鳩だろうか、それとも別の鳥だろうか。空を二つに分かつように、デニスの視界
を横切って行った。
「デニス君は、ラインバルト・デトリックという人物を知っているかね?」
「知っているもなにも!」
 再びデニスに返された視線。その主の口から出た名前に、デニスは興奮してし
まう。瞳に強い輝きを宿して。
「この国の生んだ、最高の画家です。そして俺のもっとも尊敬する画家です」
 興奮のあまり、自分の口から唾が飛んでいることにすら、デニスは気づかない。
「それなら話は早い」
 いくらかの飛沫を浴びてさえ、画商はそれを気にする素振りは見せなかった。
彼もまた、自分の尊敬する画家の名に興奮するデニスを見て、興奮させられてい
たのだ。
「そう、デトリックはわずか三十一年という短い生涯に、数多の傑作を生みだし
我が国の、いや世界の絵画界に多大の衝撃と影響を与えた。デトリックの残した
絵は、どれも国宝に価するものであったが、彼の功績はそれに止まらない。後に
続く者たちへ、絵画の新たなる道標を示したことにもある」
 太った身体に、長いとは言い難い手足を大袈裟に振り回して画商は熱弁を振る
った。やはり興奮した口からは多量の唾が飛沫となって舞うが、デニスもまた、
それを浴びていることを気にしない。共通の話題で互いに興奮をし、熱く語る者
と、聞き入る者。事情を知らずに、その姿を見る者があれば、大道芸の練習をし
ているのだと思われる光景であった。
「しかし悲しむべきことに、デトリックの死後勃発した戦争により、彼の示した
道は途切れてしまった。それは絵画のみに限らず、我が国の文化の多くが、戦争
によってその歴史に空白の時期を刻まれてしまった。
 そこで私は、失われかけた文化の復興しようと考えた。幸い伯爵さまが賛同下
さり、そのご協力のもと、サロンを築くことが出来た。そしてそのサロンでデト
リックに続く、あるいは彼をも凌ぐ若い才能を見い出し、それを育てることを目
的とした絵画展を開催することにしたのだ。デトリックの名を冠した賞を」



 激しい興奮の後だけに、冷静になったときの反動も大きかった。
 ラインバルト・デトリック賞。
 その名を呟くだけで、身震いしそうなほどの魅力がある。そしてその賞へ自分
の絵を出品するように薦められたと思うだけで、退いたはずの興奮がまた甦って
来るようだった。
『参加したい………ぜひ、出品させて下さい』
 デニスは画商と老伯爵に、そう熱望した。
 正式に絵を勉強した訳でもなく、技術もないと言われた自分がその栄誉ある賞
に手が届くとは思っていない。だが、それを求められる場所へ、足を踏み入れる
ことを許されたのだ。これを逃したら、もう二度とこんな機会は望めないだろう。
 だが。
 家路についていた足を止めて空を見上げる。
「無理………だよなあ」
 弱気な言葉がこぼれた。
 自信のなさが言わせたのではない。
 元より降って湧いたような機会、駄目でもともとである。デニスに失うものは
ない。
 デニスを悩ませたのはその期日だった。
 出品作の受付締め切りは十二月二十五日、クリスマスの朝まで。あと二週間ほ
どしか、時間が残されてはいない。
 けれど制作時間の短さは、それほど問題ではない。正式な絵を描いたことがな
いため、甘く見ていることろもある。が、不眠不休で作業すれば、期日に間に合
わせられる自信がデニスにはある。
 問題は、期日内に出品作品を仕上げるために必要な道具一式を、とても揃えら
れないことにあった。
 絵画展の出品規定は、油絵であること。絵の内容は問わないが、10号以上の
キャンバスを使用すること。
 これをクリアすることが、デニスには困難だったのだ。
 まだ日々の暮らしに追われる人々の方が多い時世、本格的な油絵など贅沢な趣
味であった。勉強をしたことのないデニスが我流で始めるにしても、その道具は
驚くほどに高価である。絵の具一本を買うのにも、デニスが順調に仕事にありつ
いて、一週間は掛かる。それも飲まず食わずでだ。
 所詮絵を描くなどということは、富める者、地位のある者にしか許されない趣
味などだ。デニスのように貧しい者が画家を目指すのは、あまりにもおこがまし
いことなのかも知れない。
 彼らは、老伯爵と画商はそれを分かっていて、デニスに絵画展への出品を勧め
たのだろうか。知っていながら、参加出来ないデニスを笑おうと、勧めたのでは
ないだろうか。
 どうにもならないというもどかしさで、ついデニスは人を疑ってしまう。
『だから君の将来に投資したいと思うのだ』
 銀貨とともにデニスに与えられた、老伯爵の言葉が思い出される。
 初めて自分の絵を認め、買ってくれた人物。その言葉が嘘だったとは思いたく
ない。
 彼らは気がつかなかったのだ。自分たちが豊かであるため、デニスにとって絵
を描くための道具が、どれほど高価であるのかを。
 上位に入賞すれば、美術アカデミーへの入学を許される。しかも老伯爵と画商
がスポンサーとなって、入学金と学費の一切をも出してくれると言う。
 夢のような話に挑戦出来る、生涯に二度とない機会であったが、デニスがその
スタート・ラインに立つことはとても困難である。
 絵の具一本を買うお金があれば、何度マリィとルウのお腹を満たしてやれるだ
ろう。
「ばかばかしい………一度も描いたことのない油絵で、いきなり上位入賞なんて
出来るかよ。なあに甘いこと、考えてるんだよ、俺は。それより、今夜のパンの
ことを考えろよ」
 自虐的な笑いを浮かべ、デニスは叶うはずのない夢を忘れようとした。



「いい? 私の口をよく見るのよ。ル・ウ。分かった? ル・ウよ、ル・ウ」
 ゆっくりと大きく唇を動かし、マリィは音を区切って「ルウ」の名前を幾度も
繰り返した。それをテーブルの反対側で、両腕に顔を載せた少女が、じっと見つ
めている。
「さあ、分かったらやってみて」
 少女はこくんと頷き、姿勢を正す。それからマリィを真似て、唇をゆっくり大
きくと動かす。
 けれどそこからは、マリィと同じような音は生まれない。声を出すことのない
小さな口が、ただ虚しく動くばかりであった。
 少女の顔が曇る。そして先ほどよりも早く、先ほどより大きく唇を動かす。し
かし言葉は生まれない。やがて少女の唇は、その動きを停止させてしまう。そし
て代わりに、瞳が潤み始める。潤んだ瞳はすぐに許容量を超えた涙をあふれさす。
「だいじょうぶよ、だいじょうぶだから、ルウ」
 マリィは駆け寄り、少女を抱きしめる。
 少女は涙に濡れた顔を、ルウの胸に埋める。
「焦らなくてもだいじょうぶだから、ね。ゆっくりやりましょうよ」
 白い指が、そっと少女の髪を撫で上げる。少女の抱き心地は、仔猫のそれにも
似ている。その温もりさえ。
 マリィに抱かれたことで、落ち着きを取り戻したか。ようやく涙の氾濫を止め
た瞳が、マリィを見上げた。
「焦らないで、でもがんばろうよ。ね」
 その呼びかけに、少女は少し気恥ずかしそうな笑顔を見せる。




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