#4698/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:20 (197)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【22】 悠歩
★内容
デニスがセントラル・パークに来ていたのは、約束を憶えていたからではない。
静かな公園の風景でも見ていれば、少しは落ち着くだろうと考えてのことだった。
しかしそれはかえって逆効果だった。
『ばかなことは考えないで』
真っ直ぐにデニスを見つめる瞳。息の温もりを感じるほどの距離で。
もしマリィに釘を刺されていなければ、レナを弔ったその足でデニスはボルド
の元に殴り込んでいただろう。
多少、腕に覚えがあるとは言ってもボルドの事務所には、常時二十人以上の手
下が詰めている。しかも各々が刃物や拳銃で武装をしているはずだ。そこにデニ
スが一人、徒手空拳で殴り込みを掛けたところで結果は見えている。おそらく憎
らしいボルドには、指一本触れることは適わないだろう。
それでもじっと堪えていることは、デニスにとって非常に困難であった。家畜
同然、いやそれ以下の扱いを受け、哀しみの果てに命を落としたレナ。荒んでい
たデニスの心に明かりを灯してくれた少女を死にまで追い詰めた男へ、せめて拳
の一つもくれてやらなければ気が晴れない。どうせマリィやレナと出逢っていな
ければ、人間らしい感情を失ったままでいた自分だ。それどころか今日という日
を迎える前に、とうにどこかで野良犬のような死に方をしていたに違いない。レ
ナの仇を討つため、命を落としたとしても惜しくはない。そう思っていた。
『だけど………だけどボルドのクソ野郎は、レナの死を悼む言葉一つ、口にしな
かったんだぜ! あいつのせいでレナが死んだって言うのに………マリィは悔し
くないのか?』
『………悔しいよ………私だってさ』
俯くマリィ。小さく、激しく、肩が震えていた。
『だけどデニスがばかなことをしたって、レナは帰って来ないんだよ』
再びデニスに向けられた瞳は、涙に満ちていた。もう一滴残らず流し尽くした
と言っていた涙が。目に溜めきれなくなった涙は、滝となる。
『レナだって、そんなこと、望んでないはずだよ』
苦しげに言ったマリィが、その顔をデニスの胸の中に埋めて来た。
『マ………マリィ』
柔らかく、熱く、そして小さな身体。
デニスは胸の中に飛び込んで来た身体の、その小ささに改めて驚き、戸惑う。
そして改めて思い出す。レナの死に辛い想いをしているのは、デニスだけでな
いのだと。アネットもフランシスもリリアもネスも。レナを知らなかったルウも。
そしてマリィも。
ましてマリィはデニスと出会う以前から、レナとは実の家族のように助け合う
日々を過ごしてきたのだ。悲しみや怒りはデニスよりも大きいものであろう。
けれどその感情を拳に乗せ、無謀な行動に移そうとしないのは、マリィが力の
ない少女だからではない。死を以て挑んだところで、ボルドには何もダメージを
残せはしないと分かっているのだ。それより生きてボルドに抗ってこそ、レナの
死を無駄なものとしないと知っているのだ。それは形こそ違えど、フランシスた
ちも気持ちは同じなのだろう。
そしてなにより、マリィには守るべきものがある。マリィが死んでしまえば、
幼いルウがこの街で一人生きて行くことは出来ない。
見知らぬ者にその身を抱かれて糧を得ることが、どれほど辛いものなのかデニ
スには理解出来ない。ただ漠然と想像するだけである。たが安易に犯罪に走って
生きてきたデニスに対し、自分の身を汚し泥をすするような想いをしてでも、正
直に生きてきたマリィは強い。その心が。
しかしその肉体はか弱い13歳の少女なのだ。その少女とルウを守ることこそ
が、自己満足でしかない仇討ちよりもデニスには優先される。優先させなければ
ならないのだ。
『分かったよ、マリィ。約束する、ばかな真似はしないって』
レナの眠る十字架の前で、そうマリィと約束をした。
しかし何を優先させるべきかは承知しても、一週間足らずを過ごしただけでは
レナの死によってかき立てられた怒りが静まるものではなかった。
既に稼ぎの見込めない似顔絵描きをしている余裕はない。結局は無駄になって
しまったが、レナの薬代に使ったため、初めての似顔絵での収入はもう残されて
いない。レナを弔った翌日から、マリィも少しずつだが仕事に出ている。デニス
も最低限、自分の食い扶持(ぶち)は何とかしなければならない。それこそ、マ
リィやルウを守ってやる以前の問題だ。
普段でもありつけるものならば、どんなに過酷な仕事でも選り好みはしない。
しかし特にいまは、肉体的に辛い仕事がしたい。くたくたになるまで働けば、ボ
ルドに対する憎しみも少しは忘れられるかも知れない。
だが街に出たところでレナの死が起きる前と同様、デニスへまわってくる仕事
はほとんどなかった。いつ舞い込んで来るか分からない仕事を求め、街を彷徨っ
ていても心は晴れない。だから公園に来た。
残り少なくなった画帳の白いページを開き、公園の風景を描こうと試みる。が、
まるで手が動かない。心を落ちつけようとすればするほど、抑えていたはずの怒
りや憎しみ、守ってやるなどと思いながら、実際は自分のパン代さえ稼げないこ
とへの情けなさがこみ上げてくる。
「あいつがいけないんだ。この風景が!」
やり場のない怒りを、寂しげな冬の公園の風景のせいにしてしまう。
公園に植えられた木の殆どが広葉樹。それらの木々はとうに全ての葉を落とし、
野ざらしになった白骨のような枝ばかりが目に映る。
気分の乗っていたときには、それがまた創作意欲を煽っていた風景が、憎々し
くさえ感じられてしまう。
「どうした? 今日は気分が乗らんのかな」
背中からそんな声が聞こえて、デニスはゆっくりと振り返る。後方から近づく
者に対し俊敏に反応し、身構える習慣のついていたデニスがゆっくりと動いたの
は、声がやや離れた場所から聞こえたためだ。おかげで先週、同じ様なことがあ
ったのを思い出し、声の主が誰であるか姿を認める前に予想出来た。
「あ、伯爵………さま」
そこにはデニスの予想通り、好々爺然とした笑顔を見せる老人、アウストラッ
ク伯爵がいた。やや距離を置いて声を掛けてきたのは、前回のようにデニスを驚
かさないためであろう。さすがに今日はお付きの者を同行して来たらしい。老伯
爵の横には、見知らぬ男が立っていた。
「うむ、約束通り来てくれたのだな。デニス君」
「約束………あっ」
満足そうな笑顔を湛えて近づいてくる老伯爵に、デニスは小さく声を上げた。
『水曜日、今日と同じ時間、ここに居てはくれないだろうか』
『は、はい。約束します』
すっかり忘れていたが、確かにそう約束していた。その水曜日が今日だったの
だ。
「先刻より君の絵を描く姿を見ていたが、まるで手が動かんようだな。何かあっ
たのかね?」
「いえ………別になにも………ただ気が乗らないだけです」
伯爵にレナのことを話しても仕方ない。デニスはそう答えた。
「あの、ところで今日は………お約束通りここに来てはみましたが、まさか同じ
方が二回も似顔絵を求められるとも思えませんし」
本当は約束のことなど忘れていたのだが、訊ねた疑問は嘘ではない。
「実はな、君に紹介したい人物が居るのだよ。ポリッシュさん」
老伯爵が呼び掛けに応じ、先ほどの場所で待っていた同行者がこちらへ歩んで
来る。呼び掛けに敬称が付けられたところをみると、どうやら男は老伯爵の使用
人ではないようだ。
「初めまして、私はポリッシュと言う者だ。君がデニス君だね。伯爵さまから伺
っているよ。なんでも大層絵が上手いそうじゃないか」
老伯爵に負けぬ、満面の笑みを浮かべて男は言った。
「そんな………大袈裟なものでもないですが………」
ポリッシュと名乗った男に、デニスは警戒心を強めながら応える。伯爵の手前、
意識してそれは抑えたが、そうでなければ露骨に訝しげな表情を見せていたとこ
ろだろう。
男の笑顔は伯爵のものと比べ、不自然に感じられるのだ。何か腹中に善からぬ
考えを隠しながら、巧く相手を騙して利用しようと接近して来る者。デニスには、
ポリッシュの浮かべた笑みが、そんな手合いのものと同じに見えてしまったのだ。
体型こそ違うが、あのボルドのように。
それは偏に、男が太っていたからかも知れない。
近くに寄って、デニスはポリッシュの恰幅の良さに驚かされた。スラムに暮ら
すデニスの周囲にいる者は皆貧しく、「太る」という言葉とはおよそ無縁であっ
た。デニスたちにとって太っていることは、即ち裕福であることの象徴だった。
しかも貧しい者の妬みか、悪どいことをしなければ太るほどに儲けることは出来
ない、そんなイメージがあった。
「あの………この方を俺に紹介するために?」
まともに向き合っていては、隠している感情がいつ顔に出てしまうか分からな
い。デニスは助けを求めて、視線を老伯爵へ動かした。もっともこのような怪し
げな人物を自分に紹介しようという、老伯爵の意図が計り知れなかったことは事
実である。
「彼は………このポリッシュさんは画商を営まれておるのだよ」
「はあ?」
老伯爵からの返答にも、デニスはただ首を傾げるばかりだった。
絵が好きで、それを描くことに歓びを見つけたデニスではあった。だが貧しい
家に生まれ、工場に売られ、糧を得るため盗人を行って、そんな生活をして来た
デニスである。絵について、まともな勉強をする機会などあるはずもない。当然、
その技法は我流だ。いや、技法ばかりか実は絵に関わる事柄のうち、知っている
ものの方が少ないのだ。デニスには「画商」がどんな者なのか、理解出来なかっ
たのだ。
「まあ手っ取り早く言ってしまえば、絵の売り買いを商売にしているんだよ」
デニスが「画商」の意味を知らないと察したのだろう。ポリッシュが説明をし
た。
「私は既成の画家以外に、まだ埋もれている新たな才能を発掘することにも、力
を注いでいる。いや、そちらの方により力を入れている、と言っていいだろう。
今日ここに足を運んだのは伯爵さまより、セントラル・パークに興味深い似顔
絵描きがいると伺ってのことなのだよ」
説明を受けてもなお、デニスには彼の目的がよく分からない。それが画家を志
す自分にとって、チャンスになるかも知れないのだとは考えが及ばない。
デニスのような反応は、ポリッシュにとっても初めてのものだったらしい。少
し困惑の面持ちの後、老伯爵へ苦笑して見せた。
「デニス君の作品………君の描いた絵を、ポリッシュさんに見せてやってくれな
いかね。彼はね、絵のプロとして君にその才能があるか、見たいのだよ」
老伯爵の言葉で、すっかり動きを止めていたデニスの思考が、ようやく回転を
始めた。そして絵のプロに自分の絵を見せるということが、どんなことであるの
か朧気ながら理解し、にわかに緊張をする。
「あ……あの………でも俺、ちゃんとした絵なんて、か、描いたことなくて……
…」
どんな凶悪な面構えをした相手の前でも、決して憶したことのないデニスがし
どろもどろとなり、思うように呂律が回らなくなってしまった。
「その画帳があるだろう。それで大丈夫ですな、ポリッシュさん?」
「はい、曲がりなりにも私は『画商』ですから。ラフやデッサンからでも、その
作者のおおよその実力を見ることが出来ます」
老伯爵に応えながら、ポリッシュの手がデニスの前へと差し出された。画帳を
渡せというのだ。
しばらくデニスは逡巡をしてしまう。いままで専門家に自分の絵を見せような
どとは、考えたこともない。ただ漠然とデトリックに憧れ、彼のような画家にな
りたいと考えていた。そしてその夢をマリィたち語ることで、ささやかな満足を
得ていた。けれどいま専門家と称するポリッシュに画帳を見せ、彼の首が横に振
られたら。「残念だが、君には絵の才能は全く感じられない」とでも宣言されて
しまったら。デニスにとって大切な、心の支えを一つ、失ってしまうことになる。
ごくり。
唾を飲み込んだデニスは、助けを求めて老伯爵へ視線を送る。しかしこの画商
は、他ならぬその老伯爵が連れて来たのだ。笑顔の老伯爵は、「早くしなさい」
と促すように頷いた。
拒否することは簡単だ。
デニスにしてみれば、画商に絵を見せなければならない義務はない。それは紹
介者である老伯爵の面目を潰しかねないが、デニスがそれを保ってやる理由もな
い。確かに老伯爵からは高すぎる絵の代金を貰っているが、それでもデニスとの
関係は似顔絵描きとその客の範疇を越えるものでもない。
『何を迷ってるんだよ………俺は』
ふと、デニスの口元から笑みがこぼれた。と、同時に大切な画帳がポリッシュ
へ渡される。
もしデニスが本気で画家を目指そうとするのなら、いつかはその実力を専門家
に判断されるときが来る。それを避けて夢を見続けることは出来ない。いやむし
ろ正式に絵の勉強をした経験もなく、これからもそれが望めないであろう貧しい
デニスの絵が、専門家の目に触れる機会など、この先そうそうあるものではない。
もしかすると、これが最初で最後の機会になるかも知れないのだ。
画商がデニスの実力を認めてくれればそれで良し。デニスに絵を志すほどの実
力はないと判断されたのなら、それはそれでいいではないか。そのときは未練が
ましく、お金にならない似顔絵描きなどやめて、マリィとルウのために稼げる仕
事に集中しよう。
画帳を受け取ってポリッシュは、何も言わずに最初の方からページをめくる。
その横に老伯爵が並び、興味深げに覗き込む。
「全て木炭画か………ほとんどが風景。この公園だな………これは春、これは夏
の風景か。ふむ、人物画も結構描いているのか………」