#4700/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:21 (198)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【24】 悠歩
★内容
レナを弔ったあの日。マリィたちは確かに聞いた。
力強く、暖かく、そして優しい歌声を。
高い空の、どこまでも響き渡るような歌声を。
それはそよ風にさえ、その身をよろけさせられてしまうほど、小さな身体から
生まれた歌声。幼き少女、ルウの唇が刻んだ歌声だった。
その場に居合わせた者は皆、幼い歌姫の声に耳を傾ける。
悲しい歌声は、レナの死に悲愁を呼ぶ。
優しい歌声は、旅立ったレナとそれを見送る者たちを包み込む。
どんなに修練を重ねた歌い手であっても、それほどまでにマリィたちの心に染
み渡る歌を歌うことは出来なかっただろう。それは何も、ルウの歌声が卓越した
技巧を持ち合わせていたからではない。真に哀しみを知り、優しさを持つ者だけ
が成し得ることだった。
「あの歌も、あなただったのね………」
歌を終えた小さな天使の肩に、マリィは手を掛けた。
霧はすでに消え、その瞬間を待ちかまえていたかのように、ルウを照らしてい
た陽光のスポットライトはスラムの街全てへと注がれる。
神託を告げ憑きものの去った巫(かんなぎ)ように、天使は人の子へ返る。不
思議そうに小首を傾げてマリィを見上げる顔は、いつものルウだった。何か言い
たげに、冬の冷気に曝されて朱に染まった唇が微かに動く。けれどやはり、そこ
から言葉は生まれない。
つい先刻、皆の心を捕らえた歌い手は、自らの意思を示す言葉を持たない。し
かしマリィには一つ、理解出来たことがある。
昨日の夜、レナの旅立ちを穏やかなものとしてくれた歌声。それもまた、ルウ
によるものだと。
理由は分からない。
けれど普段全く話せないルウが、驚くほどの声量で歌うことが出来た。
つまりルウが話せないのは、その機能が失われた訳ではないのだ。本人さえそ
の気になってなってくれれば、言葉を取り戻してくれるに違いない。そう考えた
マリィは、ルウとあの日から訓練を始めていた。
けれど今日まで、その成果はまるで見られない。
ルウの唇からはうなり声一つ、うめき声一つも生まれないのだ。
ルウが自らの意思で、言葉を禁じているのでもなさそうだ。マリィの手本に合
わせ、懸命に唇を動かして復唱しようと努めている。そして声の出ないことに苛
立ち、言葉にならない感情を必死な仕草で、マリィに伝えようとしていた。
歌うときにだけ、ルウは声を出せるのではないだろうか。
そう考えたマリィは、ルウと一緒に歌を歌おうとも試みた。けれどこれも上手
くは行かなかった。
二度に渡り、ルウが歌ったことは間違いない。他ならぬマリィ自身がその姿を
目撃し、その歌声を聞いている。
もしかすると、ルウはある感情が昂ぶったときにのみ、声を出せるのかも知れ
ない。そんな考えが、マリィの頭に浮かんだ。もちろん医学的な説明など、マリ
ィには出来ない。ただ、マリィたちと出逢う前に体験した何かが、ルウにそんな
枷を掛けてしまったのではないだろうか。マリィやデニス、そして他の子たちの
心に消えることのない傷跡を残した戦争。それは幼いルウにも、決して容赦はし
なかったはずだ。
「焦らないで、ゆっくり練習していけば、きっとお話し出来るようになるから」
ルウへと励ましの言葉を掛けるマリィ。だが、とうのルウの耳には届かなかっ
たかも知れない。マリィの胸の温もりが心地よかったのだろう。赤ん坊のような、
邪気のない寝顔がそこにあった。
ふと窓の外に目をやれば、黄色の陽光も遂に最後の力を失い、薄暮へと変わり
つつあった。もとより活気に乏しいスラムの中でも、この周辺に住む者は少ない。
マリィとルウを中心に、静けさが辺りを支配する。
日中は幾ばくかの暖かさを感じたが、陽が暮れるとともにその空気は冬という
季節に相応しいものへと戻った。窓から吹き込む風が肌寒い。
「窓を閉めないと、ルウが風邪をひいちゃう………」
羽毛のように軽い身体を抱いたまま、マリィは立ち上がり窓に向かった。ルウ
の身体がずり落ちぬよう片手で支え、空いたもう片方の手を窓伸ばす。些か窮屈
な恰好だったため、たてつけの悪い窓に苦戦を強いられたが、どうにかルウを起
こさず閉めることが出来た。
ガラスの大半はあの工場を中心にした戦いで失われたため、紙や板でそれが補
われている。従って、その窓を閉めると部屋の中が一段と暗くなってしまった。
明かりがないと、手元すら良く見えない。
『先にルウをベッドに寝かせてからね』
それからろうそくに火を灯そう。いや、こんな時間からろうそくを使うのはも
ったいない。外が暗くなるまでは、デニスの部屋で過ごそうか?
そんなことを考えながら、マリィはしばらくその場に佇んでいた。そして暗さ
に目が慣れてから、ルウを横にするためベッドへ向かう。
「ただいま! いま帰った………」
最初は勢い良く、語尾は消え入るような声が、ドアを開けて飛び込んできた。
デニスが帰って来たのだ。
ルウをベッドに寝かせたマリィは、振り返ると自分の唇に人差し指を充てる。
その仕草に応えてデニスも声は出さず、唇の動きだけで「ごめん」と告げた。
結局、ろうそくに火が灯されることになった。
デニスの部屋に移って話をすればいいのだが、マリィは一時でもルウから離れ
ることを躊躇ったのだ。
壁一枚を隔てただけの隣りではあったが、声を出せないルウになにかあっては
いけない。暗い中で目を覚ましたルウが、誰も部屋にいないことを寂しがっても、
隣りからでは気がつかないかも知れない。そう思うと、デニスの部屋に移ること
が出来なかったのだ。
「ルウのやつ、何か喋ったか?」
そんなデニスの質問を、マリィは背中越しに聞いた。
言葉は返さず、背を向けたままマリィは首を横に振る。
「そっか………不思議なちびすけだよなあ、ルウのやつ」
デニスの元に戻ったマリィは、手にしていたあちこちの欠けている皿を、テー
ブルに置く。皿の上には小さなパンの欠片。この部屋の、最後の食糧。あとはル
ウの分が、残されているのみだ。
「俺は、いいよ」
「いまさら、何を遠慮してるんだい。もうここには三人しかいないんだからさあ、
二人の稼ぎ手で、みんなの口を養うつもりでいいじゃない」
気まずそうにするデニスへと、マリィは微笑んで見せた。
「だけどよ、『働かざる者食うべからず』って言うだろ………実は俺、今日も稼
ぎがなかったんだ」
「稼ぎがなかっただけでしょう? 遊んでいた訳じゃなく、稼ごうとはしていた
んだから、『働かざる者』じゃないよ」
「わ、悪いな」
まだ少し、躊躇いがちな様子ではあったが、マリィの言葉に納得したのか、よ
うやくデニスの手がパンに伸びる。一口で済んでしまいそうな小さな欠片を、デ
ニスは数回に分けて口に運んだ。そしてゆっくりと、ゆっくりと、味わうように
噛みしめた。
「これで本当に、お金も食べ物もなくなっちゃったね。私もそろそろ明日から、
本格的に仕事に精を出さないと」
「マリィ………」
何かを言いかけたデニスだったが、途中で口を噤んでしまう。
マリィや他の少女たちが身体を売ることに、いまだデニスは抵抗を感じている
らしい。そして自分にもっと稼ぎがあれば、それを止めさせられるのにと心を痛
めているのも、マリィは知っていた。そしてそう思いながらも、それを口に出来
ないもどかしさが、デニスを苛んでいるのだろう。デニスの気持ちが分かってい
ていても、マリィは何も言わない。お互い、どうしようもないことと知っていた
から。
戦後、復興しつつある街。けれどその恩恵は、スラムに住む者には与えられな
い。デニスが朝から晩まで、まっさらな手に血豆を作りそれが潰れるまで働いて
も、一日を凌げるどうかのお金しか得られない。
マリィとて、見知らぬ男に抱かれることに嫌悪感をなくした訳ではない。それ
でも、それをしなければ生きては行けない。他に人様に迷惑を掛けずに、生きて
行く手だてを知らない。
「平気だよ。そりゃあ、レナのことを忘れた訳じゃないけど、私はまだ生きてい
るんだもの。食べるために働かなきゃね。他の子たちは、あの日だって仕事を休
んでなんかないんだもの」
マリィは笑う。平然を装って。
「そうだな………俺ももっとがんばって働かなきゃな。よおし、ばりばり働いて
やる! 働いて働いて、たんと稼いでやるぞ!」
何かデニスは、過剰に興奮しているようだ。拳を握りしめ、立ち上がりながら
の台詞は、思わずマリィがたじろいでしまうほど大きなものだった。
「デニス、あんた今日、なにかあったでしょう?」
デニスの態度への違和感から、マリィはそんなことを訊ねてみた。だがもちろ
ん、デニスはそれを否定した。
「えっ、なにもないぜ。どうしたんだよ、突然ヘンなこと言い出して」
そう答えてデニスは笑う。
「気がついてないでしょう? デニスは昔から、自分が嘘だけは下手くそだって
ことに」
「あん?」
眉間にしわを寄せ、デニスは困ったような顔をする。
「なんのことを言ってるか知らないけどよ、おまえ、絶対ヘンな勘違いしてるっ
て………」
「ねえ、デニス、お願い」
マリィはテーブルの上に置かれた、デニスの両手に自分の手を添えた。
「な、な、な、なんだよ」
少し興奮気味だったデニスの声から、その勢いが消える。
「私たち、仲間でしょう? ううん、一緒に励まし合い、助け合って来た家族じ
ゃない」
そこまで言って、マリィは言葉を途切れさせた。
『私たち、仲間でしょう? 家族でしょう? レナが帰ってきてくれて、私、本
当に嬉しいんだよ』
まだレナの命のあった最後の日、マリィの言った言葉。その言葉が、改めてレ
ナがもうこの世の人でないことを思い起こさせてしまったのだ。
「………だからさ、なにかあったのなら話して欲しい………」
「だから、なんでもないって………」
「お願いよ………デニス」
気がついたときにはもう、マリィの頬には熱い滴が流れの道を刻んでいた。
自らの言葉で思い起こされたレナの死と、デニスの姿が重なってしまったのだ。
「………今日また、伯爵さまと会ったんだよ。ほら、この前初めて俺の絵を買っ
てくれて、銀貨をくれた」
椅子に腰掛けながら、デニスが話を初めてくれた。さりげないデニスの仕草で、
マリィの手は静かに解かれた。
「うん、憶えてるよ、もちろん。デニスの絵を認めて下さった方でしょう」
「その伯爵が、画商………絵の専門家を連れて、俺に会いに来たんだ」
「すご、凄いじゃない!」
今度はマリィの興奮する番だった。いや先刻の、話をごまかそうとするデニス
と比べれば、いまのマリィの興奮の方がその度合いは遥かに上だった。
父を、そして母と妹を戦争で失い、住む家さえなくこの街に流れ着いて来たマ
リィ。ここで自分と同じような、あるいはもっと不幸な仲間たちと知り合い、互
いに身を寄せあうようにように生きてきた。その二年あまりの年月の中、希望に
満ちてスラムを離れて行った者はない。この間にマリィの前から去ったのは、ネ
スやフランシスのようにボルドの脅しに屈してしまったか、レナのように帰るこ
とのない旅路についてしまった者かのどちらかだった。
伯爵という、高い地位にある人物が専門家を伴い、再度訪ねて来たのだ。それ
は先日伯爵がデニスの絵を評価したのは、決して世辞ではない証ではないか。マ
リィのような、何の知識も持たない者とは違い、本物の芸術に触れる機会も多く、
知識と経験も豊富な伯爵が認めてくれたのだ。しかもわざわざ専門家を同行させ
るほどに。それはデニスが画家になるため、スラムの街を出る可能性も少なから
ずあるということではないか。
デニスが初めて希望を抱いて、スラムを離れる仲間になるかも知れない。
そんな思いをマリィは我がことのように喜び、興奮した。
「凄くなんかないさ。その画商が俺の絵を見てくれたんだけど、技術的にまるで
なってなて、そう言われたんだからよ」
「それで?」
「それでって、それで終わりだよ」
「嘘は言わないでって、言ったでしょう」
「だからさあ………専門家に見てもらって、自分に絵の才能がないって知っても、
ちょっと落ち込んでたんだよ。それでさっきは、カラ元気を出してたんだ」
「だめよ。さっきも言ったとおり、私にはデニスの嘘が分かるんだから」
マリィはデニスの言葉に、どこまでも食い下がろうとする。それには初めて見
えてきた、希望の光を見失いたくないという想いもあった。しかしただ感情的な
ものだけで、デニスの言うことを嘘と決めつけていた訳ではない。
どれほど人に罵られようと、どれほど夢をあざ笑われようと、それに挫けるよ
うなデニスではない。ともに苦しいスラムでの暮らしを助け合って来たマリィに
は、よく分かっていた。
そんなデニスが、たとえ相手が専門家であろうと、一度や二度否定されたくら
いで、こちらに何かを感じとれるほどに落ち込んだりはしないはず。マリィには、
そんな確信があった。
だからマリィは見つめる。
デニスの目を。
デニスが本当のことを語ってくれると信じて。
「マリィには適わないよなあ」
やがて、デニスはそう言って笑った。どこか悲しげに。