#4694/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:18 (196)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【18】 悠歩
★内容
月もなく 瞬く星もない 暗い夜空
窓の外は 黒い黒い 真っ黒な闇
誰? 誰? あなたは誰? そんな声が聞こえて来る
私は恐くて とっても恐くて ベッドの中で泣いてしまう
そんな私の頭を 暖かいママの手が そっと撫でてくれる
何を泣いているの? ママが笑うの
眠れないのなら ママがお話してあげる
何がいいかしら
悪い魔法使いから お姫さまを助け出す 王子さま
宝の地図を手に入れた少年と 恐い海賊たち
それとも 寒い冬の夜の 暖かいお話
ううん いいの
私が眠るまで ずっと 一緒にいてくれれば
ママの胸に抱かれて
ママの手に髪を撫でてもらって
ママの暖かさ ママのいい匂い
感じていれば
私は安心して眠れるの
そして きっと 素敵な夢をみるの
(「誰?」はフクロウの鳴き声、Whoを表す)
歌声は郷愁を誘う。
すっかり忘れていた、遠い日の記憶を甦らせる。
幼い日、寝付けずにいつまでもぐずっていたマリィに母親が歌ってくれた歌。
それはマリィの村の子どもたちなら、誰でも知っている子守歌だった。
いや他の街や村で生まれた子どもでも、一度は聞いたことがあるだろう。デニ
スもネスも、リリアもベネッタも、そしてレナも。
この国に生まれた者であれば、幼い頃、あたりまえのように母親から歌って聴
かされる歌だった。ただ母親を失ったマリィたちは、永く聴く機会を失い、すっ
かり忘れていた歌。
誰が歌っているのだろう。
子どもの頃によく水遊びをした清流よりさらに清く、明け方の山の空気よりさ
らに澄み、青空に舞う鳥よりさらに美しい声。
マリィとレナの他に、いまこの部屋にいる者はただ一人。本当なら歌声の主が
誰であるのか、考える必要はない。けれど限られた人数の中、マリィとレナがこ
うして耳を傾けている中、それでもすぐに歌声の主を特定しきれない。
そのただ一人の少女は、これほどまでの卓越した歌声を出すのには、あまりに
も幼すぎる。大人であっても、ここまで美しい声で歌う者を、マリィはまだ知ら
ない。
そして何より、ルウは言葉を持たない。
その愛らしい唇は、言葉を紡ぐために動かされたことはない。
だがそれでも、ルウ以外にその歌声の主を考えることの出来ない状況でもあっ
た。
しかしマリィは、すぐにそれを確認することはしない。それよりもいまは、マ
リィの胸の中で、マリィと同じ歌に聴き入っているレナことが心配だった。
「ちっちゃい頃、よくママが歌ってくれた」
歌が終わって、レナが最初に口にした言葉。
やはり弱々しい声ではあったが、先ほどまでの苦しげな息づかいは収まってい
た。その表情は穏やかで、あの恐慌が嘘のようであった。瞳はしっかりと、マリ
ィを見つめている。マリィの姿を捉えている。
「ほら、見て」
そう言って、小さく首を動かして壁の絵を指し示す。
「すてきな絵でしょ?」
「?」
歌のおかげで落ち着いてはいたが、まだ記憶は混乱しているのだろうか。訝し
く思うマリィだったが、それをレナに問おうとはせず、素直に絵を見る。そして
「ええ、すてきな絵だわ」
と答えた。
「デニス、って男の子が描いたんだよ。デニスはね、とっても絵が上手なの。将
来、きっとすごい絵描きさんになるよ」
嬉しそうに細めた目の端から、涙がこぼれる。
マリィは知っていた。
初めて逢ったあの日から、レナがデニスへと秘かな想いを寄せていたいたこと
を。
デニスが語る夢を聞くとき、他のどんなときよりレナの瞳が輝いていたことを。
『デニスったら、なにをしてるのよ………早く帰って来て』
心の中で、マリィは強く願う。
見つめていなければ、その存在を忘れてしまうほどに軽い、腕の中のレナを感
じながら。決して認めたくはないと思う反面、レナに残された時間の少なさを、
マリィは痛烈に予感していた。
「私、いま、とっても嬉しいの」
「………」
レナの笑顔。
弱々しい笑顔。
涙に濡れた笑顔。
「ここに、戻ってきて良かった………私、ずっと留守にしていたから。もし、そ
の間にママが帰ってきていたら、もう私はいないんだと、思ってたものね」
初め、レナが何を言っているのか、マリィには分からなかった。けれどすぐに
思い出す。レナが家族と住んでいたのも、このアパートであったことを。
「ありがとう、ママ。帰って来てくれて」
レナはマリィを母親だと思い込んでいるらしい。
いままで言葉に出すことはなかったが、レナはずっとここで母親を待っていた
のだ。ボルドからの圧力が掛かったときも、レナはマリィたちに次いで最後まで
粘っていた。それも、いつか母親がここに戻って来るかも知れないと信じていた
からなのだ。
「ごめんね………レナ。寂しい想いをさせてしまって。でも、こ……これからは、
ずっと一緒にいるからね」
そう言って、マリィはレナの頭を撫でた。幼い日に、自分が母親にされたよう
に。
レナに残された時間がわずかなのであれば、彼女が思い込むまま、母親になり
きってやろう。そう誓ったレナは、流れ出そうな涙を必死に堪える。
けれどそれも長くは堪えられそうにない。
「うん………大好きだよ、ママ」
本当は帰って来なかった母親に、レナを捨てたまま一度として連絡すらよこさ
ない母親に、少女は無垢な笑顔を見せる。嬉しそうに。
そして力の入らなくなった手を、懸命に伸ばす。
マリィ、いや母親の顔に触れようとして。
「レ、レナ………」
その指先が、マリィの頬へ微かに触れた。
「ママ………大好き」
それが最後の言葉だった。
母親を求めていた手が力を失い、ベッドへと落ちて行く。
マリィの腕の中の、軽い身体が、さらに重量を失ったように思えた。
「う、そ………だよ、ね? レナ………レナ………レナ!」
マリィは腕の中の少女の名を呼ぶ。けれど返事が返ることはない。
どれほどの時間、そうしていたのかは分からない。腕の中のレナには、まだ温
もりが残されていたので、それほど長い時間ではなかったと思う。
レナの死に際し、不思議と感情が昂ぶることはなかった。それどころか逆に、
全ての感情が消失してしまった。極寒の地の凍りついた湖面のように、滑らかで
小波一つ立つことがない。
マリィはただ、何ら感じることもなく、もう目覚めることのないレナの寝顔を
見つめていた。
そんなマリィの、止まってしまった感情を再び動かしたのは、最期まで不幸だ
った少女の死を冒涜するけたたましさだった。
住人に対して許しを求めることもなく、乱暴にドアが開かれた。その勢いでド
アは壁にノブを叩きつけ、大きな音を立てる。
病人がこの部屋で寝ていることを知っているデニスが、そんな乱暴な真似をす
る訳がない。それに無遠慮な足音は一つではなかった。
来客の正体を察したマリィは、永久の眠りに着いたレナを、そっとベッドへ降
ろし、振り返る。
「………静かにして。たったいま、レナが眠ったばかりなの」
「これは失礼したね」
全身の毛が、逆立つほどに不快な声。それは開け放たれたドアの前に立つ、四
人の男たちの、さらに後方から聞こえて来る。
「はやりここに来ていたか。いや、うちのレナが突然姿を消したものでね。心配
して探していたんだよ」
贔屓目に見ても、強盗団か人さらいの類以外の何者でもでもない男たちが、左
右に割れる。しかしその中央には何もない。開かれたドアの向こうに、廊下の壁
が見えるだけだった。だが別に男たちは、無意味な行動を執った訳ではない。男
たちの顔の高さへと置いていた視線では、その姿が捉えられなかっただけである。
マリィは大きく視線を落とす。すると無意味に見えた空間に、矮小な男が出現
した。先刻の声の主、ボルド・バトゥである。
「聞こえなかったの? レナは疲れて眠ったばかりなのよ………今日は、このま
ま帰って下さい」
努めて静かに、マリィは言った。もう目覚めることがないと理解しながらも、
レナの眠りを妨げてはいけないと思ったからだ。けれどボルドの顔を見た途端、
沸き上がって来た憎悪までは抑えきれない。意識せぬまま、マリィはその激しい
感情を瞳に宿していたに違いない。人を殺すことさえ、笑いながらやってのける
と噂される凶悪な面構えの男たちが、気圧されたようにわずかに身を退いた。
が、その中央の、もっとも凶悪な男は微塵も怯んだ様子はない。それどころか、
マリィの方へ平然と歩を進めて来た。
「そうはいかないな。レナは私の身内なんでね。他人さまに迷惑を掛けては、私
が恥をかくんだよ」
笑みを浮かべてはいるが、そこに誠意などはまるでない。むしろ見る者に寒気
さえ覚えさせる。この男をレナに触れさせてはいなけない。触れさせたくはない。
力ずくでも。
マリィはボルドを阻止しようと立ち上がった。が………
立ち上がったマリィより手間で、ボルドの歩みが止まる。小さな障害に、行く
手を遮られて。
「やめなさい、ルウ!」
マリィは、ボルドを遮る者へ声を掛けた。
ボルドの行く手を阻もうとする者、それはルウだった。
今日までレナとは全く面識のなかったルウも、マリィと同じ想いだったのか。
小さな身体で、両手を一杯に広げ、ボルドを行かせまいとしていた。
「お嬢ちゃん、そこを退いてくれないかなあ。おじさんは、レナに大事なご用が
あるんだよ」
紳士を自称するボルドは、言葉でルウを退かそうとした。けれどボルドの言う
『紳士』が虚飾でしかないことを知るマリィは、彼の次なる行動が予測出来た。
すぐにでもルウに止めさせなければならない。そう思い、身体を動かし掛けた。
だが遅かった。
紛い物の『紳士』の寛容さは、マリィの想像以上に脆いものだったのだ。ルウ
にそこを退くように頼んだ言葉から、ものの五秒とは経っていない。
「退けって言ってんだよ、クソガキが!」
その怒声がボルドの口から発せられときには、もう暴力行為が行われた後だっ
た。ボルドの悪声より先に、マリィの耳は、がすっ、と鈍く響く嫌な音を捉えて
いた。
ようやく五つになったかどうかという年齢の幼子を、ボルドは足蹴にしたのだ。
いくら際立って矮小な身体つきをしているボルドではあっても、そこは三十歳を
越えた男の力である。それがとても加減をしたとは思えない勢いで、蹴りつけた
のだ。栄養不良の気のある幼児の身体など、容易く飛ばされてしまう。
「ルッ……」
ルウ、とその名を呼ぶ間すらなかった。目の前の床に、頭から叩きつけられそ
うになったルウの身体を、マリィは身を呈して抱きとめる。
「ル………ルウ! ルウ!」
マリィの呼びかけに声を持たぬ少女は、けん、けん、と苦しげな咳をはっきり
二つして答える。怯えきって涙に濡れた瞳が振り返り、マリィを見つめる。
ルウの意識がしていることを確認すると、マリィは服の中に手を入れ少女のお
腹から胸の辺りを掌で探る。マリィの掌が右胸の辺りに触れると、ルウは痛そう
に顔をしかめた。後で蹴られたところが腫れるかも知れないが、触った限りでは
骨に異常はない。
それでもまだ蹴られたルウの状態が心配でならない。しかし人の部屋に無断で
押し込み、狼藉の限りをつくす男たちは、マリィがルウの身を案じる暇さえ与え
てはくれない。
「ボルドさん、このガキ………くたばってますぜ」
その身を呈したルウの行動も、わずかな時間ボルド一人を足止めしたに過ぎな
い。騒ぎの間にも他の男たちが、レナの眠るベッドへと達していた。
そして静かな眠りについたレナから、乱暴に毛布をはぎ取ったのだ。