#4695/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:19 (199)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【19】 悠歩
★内容
「なに?」
ボルドがマリィの横を通り過ぎていく。自分の数センチ脇を横切るボルドの姿
に、限界を超えたマリィの怒りが爆発してしまいそうになる。たとえ力では適わ
なくても、レナやルウの受けた苦痛の何百分の一でも返してやりたい。ボルドの
足に噛みつき、その肉を千切ってやりたい。もしまだ腕の中で苦しそうにしてい
るルウが居なければ、その考えは即、行動に移されていたことだろう。
「汚い手で、レナに触るな」
そう怒鳴るのが精一杯だった。
けれどそんなことでボルドの狼藉を止められはしない。
その身を死に追いやった男の手で、頬を叩かれ、瞼をこじ開けられ、口と鼻を
塞がれ、それでもレナに変化は起きない。起きるはずもない。
「ちっ、ダメだこいつは。本当に死んじまってる」
レナの死を悼む言葉もなく、ボルドの口から真っ先に出たのは舌打ちだった。
「ったく………たいして稼ぎもしないうちに。とんでもない役立たずだったな、
このガキは」
さらにはレナを冒涜さえする。
マリィ自身は人としての扱いをされないことに慣れていた。親もなく、スラム
に住まい、身体を売って糧を得る。誰かに迷惑を掛けた訳ではないが、そうして
生きるマリィたちを蔑んで見る人々も少なくはない。悔しくはあったが、いちい
ち腹を立てていてもきりがない。だから自分がどれほど人に侮辱されたとしても、
我慢することが出来た。
けれど自分の仲間が、友だちが侮辱を受けてもなお、じっと堪え忍んでいるほ
ど弱くはない。ましてレナの死は、ボルドによってもたらされたと言ってもいい。
そのボルドがレナの死を悼むより先に、役立たずと罵ったのだ。それを聞き捨て
ておくことなど、出来はしない。
もしもの場合を考え、マリィは自分の身体で包み込むようにして、少女を抱き
しめる。ボルドたちに暴行を受けることになっても、ルウだけは守るつもりで。
少女の身を案じるならば、ここは黙っているべきだろう。けれどレナの名誉を守
るため、マリィは口を開く。
「貴様ら、なにをしてる」
怒気、いや殺気に満ちた声。
マリィのものではない。
その声に先んじられ、マリィは言葉を放つことが出来なかった。
ボルドが、男たちが振り返る。彼らの視線はマリィを越え、その後方に注がれ
ている。にわかに緊張感が室内に充満する。
マリィは振り返らずに待つ。その後ろから近づく足音を。
やがて足音は、マリィのすぐ後ろで止まる。氷のように冷えた手が、そっとマ
リィの肩に置かれた。
「ごめん………遅くなって。あっちこっち回ってみたけど………誰も来てくれな
かった………ごめん」
「ううん、デニスは一生懸命にやってくれたんでしょ? レナもちゃんと分かっ
てくれてるわ………天国で」
「そうか………ルーベンを叩き起こして、薬だけ買って来たけど………要らなく
なっちまったか………で、レナは静かに眠ったのか?」
「うん、静かに眠った」
互いに顔を見合わせることはなかったが、肩に載せられた手の震えが、彼の気
持ちをマリィへと伝えていた。
「それでこいつらは、そのレナの眠りを邪魔しに来た、って訳か」
再び声に殺気を含ませながら、彼はマリィの前に進み出る。ボルドたちから、
ルウとマリィを庇うために。
「おっと、そんなに恐い顔をしないでくれよ、デニス。家出した身内を心配して
迎えに来るのは、親として当然だろう?」
デニスが現れたときには一瞬、怯んだ様子を見せたボルドだったが、すぐ元の
ふてぶてしさを取り戻す。言葉とは裏腹に、嘲笑を顕にした表情を浮かべていた。
「貴様が『親』なんて言葉を使うんじゃねぇ。ただ搾取するだけの、ゲス野郎が」
「ガキィ、あんまり調子こくんじゃねぇぞ!」
いきり立った手下の一人が、拳を振り上げる仕草を見せた。が、デニスが一瞥
をくれただけでその動きが止まる。デニスの背に守られたマリィに、その表情を
窺うことは出来ないが、きっと激しい感情を眼光に宿らせているのだろう。ある
いはそれを見せたくなくて、マリィを後ろに回らせたのかも知れない。
「まあいい。せっかくの機会だから、いろいろ君たちと話し合いをしたいところ
だが………レナの不幸もあったことだし、またこの次ということにしよう」
軽いボルドの目配せを合図に、男たちはドアへ向かう。乱されたレナの亡骸を
そのままに、ボルドを中心にして。万一、デニスが飛び掛かって来ることを恐れ
ているのだ。ギャングのボスの如く振る舞うボルドだが、彼自らが相手と拳を交
えることはない。自分より、明らかに力の弱い者を除いては。
デニスもマリィもそれを黙って見送る。
レナの敵を討ちたいという気持ちは強かったが、必死に堪えながら。反撃が恐
いからではない。これ以上、レナの眠りを汚したくなかったからだ。
「ああ、そうそう」
ドアを出たところで、ボルドが立ち止まった。余裕のつもりか、背中を向けた
まま。
「レナは君たちに任せるよ。本人もそれを希望していたようだしね」
もう稼ぐことのなくなったレナは不要になった。それだけのことである。
「ほら、弔いにはこれだけあれば充分だろう」
ボルドが後ろ手に、何かを投げた。金属音を響かせ、室内の弱々しい光の中で
も強く輝くそれが床に落ちる。金貨だ。
「言っておくがね。そいつはレナがいままで稼いだ額より、遥かに高額なんだよ」
恩着せがましい、と表現するだけでは足りない。あまりにも高慢な、ボルドの
言いぐさ。
「いるかよ、こんな汚いお金!」
考えるより先に身体が反応していた。
マリィは叫びと共に、拾い上げた金貨を、ボルドへと投げ返していた。
ボルドの顔を掠めた金貨は廊下の壁に当たり、二度目の金属音を立てた。
「次の機会には、じっくりと話をさせてもらうよ」
それがボルドの捨て台詞だった。
昨夜の雨の名残だろう。白いもやが、汚れたスラムの街を薄いベールで包む。
戦争の爪痕を隠そうとしない道には、無数の穴があり、そこに溜まった雨水は
氷へと姿を変えている。
かつて工場の近くの教会跡。
労働者たちのために建てられた教会だったが、あの戦いの後、礼拝が行われた
ことはない。いまではスラムを抜け出すことなく死んでいった者たちの眠る墓地
となっていた。
そこに今朝、新しい十字架が立った。新しいとは言っても、瓦礫の中から拾っ
てきた木材を組んだだけの質素な十字架。レナが永久(とわ)なる眠りについた
場所の目印である。
泥にまみれた手を合わせ、マリィは祈りを捧げる。
もう涙はない。
横たわるレナに別れの言葉を告げ、土を掛けたとき初めてその死を実感し、泣
いた。そこで全ての涙を流し尽くした。
澄んだ空気の中で、微かに鐘の音が聞こえて来る。この教会のものではない。
ここにあった鐘は、とうの昔に誰かが持ち去ってしまった。聞こえて来る鐘は、
遠い街のもの。
くいっ。
祈りに夢中になっていたマリィの裾を、誰かが引いた。見ればそこには、幼い
ルウの顔があった。その手に、紙で作られた花を大事そうに持って。
ボルドから乱暴を受けたルウは、あの後発熱をした。一時はレナに続いてルウ
の命まで失われてしまうのでは、と心配したマリィだったがそれは懸念終わった。
デニスがレナのためにと手に入れて来た薬が利いて、明け方にはすっかり熱も退
いた。多少、蹴られたところにあざが残っていたが、それ以外には異常も見られ
ない。もしかすると、レナが守ってくれたのかも知れないと、マリィには思えた。
それでも念のため、このささやかな葬儀にルウを参列させるつもりはなかった。
それなのにルウは熱が退くのと同時に起き出し、マリィとデニスの造花作りを手
伝った。画帳のまだ何も描かれていない紙を使って。そして自分もレナの葬儀に
参列すると、頑なに主張した。
「そうだね、もういいよ。レナにお花をあげましょう」
マリィが言うと、ルウは小さく頷く。それからおぼつかない足どりで前に進み
出ると、十字架の下に白い造花を捧げた。
出来ることなら、せめて最期ぐらいは本物の花を手向けてやりたかった。けれ
どあまりにも高価なそれは、とてもマリィたちに用意出来るものではない。摘ん
でくるにもこの季節、そしてスラムに咲く花などない。
ルウに倣い、マリィ、そしてデニスが作りものの花を捧げる。
立ちこめていたもやも次第に消え、陽光が辺りに射し始める。冬の弱々しい光
であったが、とても眩しく感じられた。
無心に祈るルウ。
粗末な十字架。
佇むマリィとデニス。
陽光はそれらの影を大地に刻む。
その光景が、涙も涸れ果てたマリィの心に悲しみと悔しさを甦らせる。
「………ねぇ、デニス」
「ん?」
「誰が言ったんだろうね。人は、流した涙の数だけ幸せになれるって」
「さあ………分からないな」
「レナは………レナはさあ、いっぱい泣いたんだよ。お父さんが死んで、お母さ
んに捨てられて、ボルドにいじめられて………数え切れないくらい、酷い目に合
って………数え切れないくらい、たくさんの涙を流したんだよ」
「………」
「なのに………それなのにさあ………最期の最期まで、いいことなんて一つもな
いまま………誰なんだよ………あんな嘘を言ったのは………」
まるで言いがかりだ。
それは言っているマリィ自身が分かっていた。
デニスに当たってみても、デニスに訴えてみても仕方ないことだと承知してい
た。
けれど言わずにはいられない。
マリィはデニスの両肩をつかみ、その胸に顔を埋めた。すでに尽きたものと思
われていた涙が、まだ残っていたらしい。自分でも驚くほどの量が溢れ出す。
デニスは答えない。
マリィを抱きしめることもしない。
己に向けられた理不尽な愚痴を、黙って聞いている。ただどう対応していいの
か、分からなかっただけなのかも知れない。
それでも良かった。
理不尽な怒りの言葉を聞いてくれるだけで良かった。
最期まで幸せというものに見放され、寂しく逝ってしまったレナ。そんなレナ
に代わり、マリィは悔しさを吐露する。いや、レナに代わりというのは方便だろ
う。レナの死をきっかけにして、それまで抑えていた自分の感情が噴き出してし
まった。それが正しいのだろう。
それはデニスにも分かっていたはずだ。
けれどデニスは何も言わなかった。
マリィの言葉を黙って聞いていた。
「………マリィ」
やっと涙の収まったマリィへ、遠慮がちに声が掛けられる。女性の声。
マリィとデニスと、そして言葉を待たないルウとの三人だけのささやかな葬儀。
そこで聞けるはずのない声に、マリィは慌ててデニスの胸から離れ、顔を上げた。
「アネット………」
彼女もまた、泣き続けていたのだろうと分かる。赤く目を腫らした少女の名が、
呟くようにマリィの口からこぼれる。
レナ同様、以前はマリィたちとともにあのアパートで過ごした仲間。いまはボ
ルドの元にいる、マリィと同じ若過ぎる娼婦アネットが立っていた。
アネットだけではなかった。
フランシス、リリア、ベネッタ、他にも数人の少女たちがいる。皆一様に赤い
目をしていた。中にはまだ、すんすんと鼻を鳴らしながら泣いている者もあった。
さらにその後ろには少年たちの姿も見られる。いまではその脅しに屈して、ボ
ルドの元にはいるが、このスラムで寝起きをともにし、助け合って来た仲間たち。
「私たちも、レナにお別れをしてもいい?」
躊躇い気味にアネットが言う。
「うん………ぜひ、してあげて。きっとレナも喜ぶと思うから」
「ありがとう………」
「でも………いいのか? お前ら」
心配そうな言葉を発したのはデニスだった。
「まさか、ボルドがここに来ることを許したのか?」
「いや」
少女たちの後ろから進み出た少年、ネスが答える。
「ボルドは俺たちにレナのことは、何も話していない」
久しぶりに顔を合わせる二人の少年。互いの表情はどこか重々しい。
「ゆうべレナが逃げ出したのは、アネットに聞いて知っていた………レナのやつ、
初めて客を取らされたことが、相当ショックだったらしくて、精神的にも参って
いたし………身体の方も悪くしてて、心配していたんだけど。
レナが逃げ出した、って聞いて、みんなすぐにでも探しに行きたかった。レナ
一人で、ボルドたちから逃げ切れっこないし………ヤツらに捕まったら、酷い目
に遭わされるに決まってる。
………けど、ボルドの手下にいつも見張られてる俺たちは、自由に外には出ら
れなかった。だから………情けないけど、ただレナが無事でいることを願うしか
なかった」
ネスは、まるで身体が石にでもなってしまったのかと思われるほど、重たい動
きでレナの眠る十字架へ頭を振った。