AWC Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【17】 悠歩


        
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★タイトル (RAD     )  98/12/24   0:18  (188)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【17】 悠歩
★内容
「レナ、もういいから。お話しは、明日しましょう」
 一言発するたび、苦しげに呼吸するレナの姿は見ていて痛々しい。それでなく
とも、元々身体が弱かったのに、冷たい雨に打たれながら夜道を歩いてきたのだ。
回復を望むためにも、マリィは早くレナを寝かせつけようと試みる。
 しかし素直だったはずのレナが、今夜はマリィに従おうとはしない。切れ切れ
の言葉で、さらに話し続ける。どうしてもいま、話しておかなければならないと、
何かにせき立てられるように。
「それに………私は、ずるい、の」
「レナ、いい加減にしなさい!」
 レナが話しを続けようとするのを、マリィは強い口調で叱りつけた。このまま
話しをさせ続けてはいけない。マリィの中に、そんな不安が広がったのだ。それ
でもレナは話すことを止めない。
「みんなが、つらい………お仕事をして……お金を………もらっているのに。私
は……何もしないで………マリィたちに面倒を………見てもらってた」
「レナは身体が弱いんだもの。仕方ないじゃない。その代わり、食事の用意やお
洗濯、お掃除だって、ほとんどレナがやってくれてたじゃない」
「だから………ボルドさん……のところで………みんなと同じお仕事を……しろ
……言われても………イヤじゃなかった………」
 マリィはぐっと奥歯を噛んだ。
 レナは自らの意思で娼婦になったのだと、ボルドは言った。が、やはりそれを
命じたのはボルドだったのだ。レナの身体が弱いことを、知っていながら。
「うそ………ほんとうは………イヤだった、の。知らない男の……人が、私の上
に乗って……う……ううっ」
 もうレナの涙は、マリィの指くらいではとても拭いきれるものではなくなって
いた。
 激しい息づかい。切れ切れの嗚咽。
 他に手段がなかったとはいえ、マリィも初めての客をとったときには、そのま
ま舌を噛みきりたくなるほどの苦痛と嫌悪を感じた。まして身体の弱いレナは…
……レナにだけは客をとらせてはいけなかった。マリィや他の少女たちがずっと
守って来たものを、わずかばかりのお金のためにボルドは壊してしまったのだ。
「お願いレナ、もう止めて」
 レナの顔が歪み、目鼻立ちすら定かではなくなる。マリィの視界を己が流した
涙によって遮られてしまったのだ。
「み……な、みん……な、こんなつらい……こと、してきたんだよね。だから…
…私も、がまん……しようと、思った。でも……もうだめ………一日に……ご、
にんも……十人も……出来ない………だから、逃げて来た」
「分かった………分かったわ、レナ………もういいの。もうだいじょうぶだから」
 毛布に入れたはずのレナの手が、弱々しく空へ伸ばされる。何かを求めるよう
に。その手をマリィは強く、胸へと抱き込んだ。レナの手の骨が、胸に当たって
痛い。それでもマリィは強く抱き込んだ力を緩めることはなかった。
 マリィは改めて気づく。
 レナの腕の細さを。
 スラムに住む者が、食べ物に恵まれるはずはない。一部を除いては。
 マリィもデニスも、そしてこのアパートに住んでいた他の仲間たちも、ボルド
のような『一部』の人間ではなかった。見知らぬ男に身体を売り、掌の皮が破け
て出血するまで労働しても、お腹いっぱいに食べることは出来ない。互いの身を
寄せ合い、何日もの間空腹を堪えたこともあった。それでもこのアパートに住ん
でいた頃のレナは、ここまで痩せていなかった。
 レナが倒れたのは、何も弱い身体を長時間冷たい雨に曝したせいだけではない
のだろう。ボルドの元で強いられた過酷な労働、そしてそれに耐えるには充分で
ない食事しか与えられなかった結果に違いない。
 それを思い、マリィは悔やんだ。
 ボルドの脅しに屈して、アパートを出ていこうとしたレナたちを止められなか
ったことを。
 娼婦として街角に立とうとしていたレナを見掛けながら、何も出来なかった自
分を。
「すてきな………絵、ね。これ………マリィと、あの………おちびちゃんだね」
 ふと、レナの声が安らいだように聞こえた。苦しげであることには変わりない
が、どこかうっとりとした感じがする。
 ベッドの横に貼られた、水彩画に気がついたらしい。レナの瞳が、魅入られる
ようにして絵に向けられていた。
「あ、そう、だよ。ルウ、って言うんだ………デニスが描いてくれたんだよ」
 そうレナに答えると、マリィはちらりと後ろを振り返った。レナのことで忘れ
かけてしまっていたが、急遽ベッドを譲ることになってしまった、もう一人の絵
のモデルの少女の姿を求めて。
 椅子の上、薄い毛布に身を包んだルウがいた。
 毛布は隣の部屋から、デニスが持って来たもの。
 ベッドを譲らせたあと、マリィはルウに隣の部屋で眠るよう、言った。けれど
ルウは、頑としてこれを拒んだ。マリィと離れることを嫌がったのか、レナのこ
とを心配してなのかは分からない。それを確かめている余裕もなかった。仕方な
く、ルウには椅子で寝てもらうことになった。
 ルウはまだ起きていた。
 小さな子どもが目を開けているには、もう随分と辛い時間のはずだが、それで
もルウは起きていた。緊張したような、怒っているような、泣いているような表
情でこちらを見ている。
 たぶん、幼い少女ではマリィとレナの話を完全には理解出来ていないだろう。
マリィの知らないところで、もしかするとマリィ以上に辛い想いをしてきたかも
知れないルウ。それでもまだ『娼婦』の意味を理解するには幼すぎる。
「本当に………すてきな………絵、だわ」
 その声で、マリィの意識と視線はレナへ戻される。ルウのことも気にはなった
が、それはデニスが帰って来たら彼に任せよう。
 デニスはいま、レナのために医者を呼びに行っている。ありったけのお金をか
き集めて。ただたぶん、帰ってくるときもデニス一人だろう。老伯爵からもらっ
たお金の残りがあっても、医者を呼ぶにはまだ足りない。何より、この夜更けに
スラムまで足を運んでくれる医者がいるとも思えない。
「マリィの………笑顔……とっても優しい………親子みたい」
「やだ、せめて姉妹って言ってよ」
 首をもたげ掛けた不安を打ち消そうと、マリィは務めて冗談ぽく答えた。
「ママ………」
 マリィの言葉が聞こえなかったのだろうか。レナはマリィの答えに反応するわ
けでなく、そう呟いた。
 途端に打ち消しきれない不安が、マリィの中で急速な成長を始める。
 ママ。
 それはこのアパートに住んでいたスラムの子どもたちが、禁句にしていた言葉。
誰かが言い出した訳ではない。親兄弟とあまりにも凄惨な死に別れを経験した者。
実の親によって捨てられ、あるいは売られた者たちが多い中、暗黙の取り決めと
して語られなくなった言葉であった。また、どの子どもたちにももう存在してい
ないがため、語られる必要もなかった。
 マリィがレナの口から『ママ』と発せられるのを聞いたのは、過去に一度きり。
 彼女がこのスラムに一人きりで、取り残されることになった話を聞いて以来だ
った。

 レナの父親も工場の労働者であった。デニスとは違い、工場と正式に契約を交
わして給料を受けてはいたが、微々たるものであったらしい。それでも仕事があ
るだけましと言える。一度は戦場へと赴いたレナの父親はそこで負傷し、兵士と
してどころかそれまでの仕事にも復帰出来ない身体になっていたのだから。
 貧しい暮らしの中でも、レナは家族がともにあることで幸せだったと言う。そ
れはマリィにも充分に理解出来た。だがあの工場への襲撃で、レナの父親は犠牲
になってしまった。レナと母親は工場から離れた場所にいたため難を逃れたが、
一家の主を失い、それを幸いとは言えなかった。元々蓄えなどない。ところが、
焼け残った街では極端に食糧や生活物資が不足し、その値段は天井知らずに上が
っていった。働こうにも、女子どもを雇うような職場もない。何しろ襲撃から逃
れた健康な男たちですら、他に働き口を見つけられず、そのほとんどが無頼者と
して彷徨っていたのだから。
 それでもレナは母親を助け、懸命に生きようとした。父の死は、胸が張り裂け
るほどに悲しかったが、嘆いているゆとりもなかった。職と食べ物を求め、レナ
はレナなりに頑張ったらしい。家のことも全てやった。
 そんなある日、母親は見知らぬ男を家に連れ込んだ。一目でまともな人物では
ないと分かる男だった。獣のような目に、傷だらけの腕。男はさも楽しげに、人
を襲い、お金を奪ったと自慢話をした。
 レナは悲しんだ。母親は生きるため、そんな男の情婦となったのだ。けれどそ
の時のレナは、母親に抗議することは出来なかった。そうすることでしか、無力
な母娘がこの街で生き抜く手段がないと、幼いレナにも分かっていたのだ。まし
て身体の弱いレナのため、母親が他の人以上に苦労していることも知っていてた。
「きっとばちが当たったんだわ」
 それはレナがマリィに語った言葉。
 悪いことをして得たものと知りながら、それに頼って生きることを拒まなかっ
た自分への天罰だと、悲しげに笑いながら。
 ある朝レナが目覚めると、母親の姿はなかった。あの男とともに。
 初めは用足しに出掛けたのだろうと思った。もしかすると母もあの男に頼るこ
とを嫌い、何か仕事を探しに行ったのではないだろうか。そんな淡い期待もした。
 とにかくレナは母親が帰って来るのを待った。
 昼になり、夕方になり、そして夜になり。次の朝が訪れるまでレナは待ったが、
ついに母親は帰って来なかった。
 母親が生きるのに重荷にしかならない病弱な娘を捨てて、男と出て行ってしま
ったのだとレナが悟ったのは、それからさらに二回目の朝を迎えてからだった。

 一度だけマリィが聞いた、レナの身の上話。
 一度だけで充分だった。
 二度とマリィから訊ねることも、レナから話すこともなかった。
 そしてそれを最後に、レナが『ママ』と口にすることもなくなった。

「ママ………ママ」
 壁の絵に、繰り返し投げ掛けられるレナの言葉。
 宣言した訳ではないが、今日まで彼女が封印していたはずの言葉。
「ママ………ママ………私を………捨て……ないで」
 まるで壁に貼られた絵に、縋ろうかとでもしているのだろうか。マリィが抱い
ているのとは反対の右腕を、弱々しく伸ばしている。
 けれどその手は、絵に届かない。
 絵はさほど高い位置に貼られているのでもないのに。
 自分の手の、わずかばかりの重みさえ、もういまのレナには支えきれないのだ。
伸ばした手は、その意思に反してすぐにベッドの上へ落ちてしまう。
 もどかしそうにまた手を伸ばそうとする。だが今度は、先ほどよりもさらに絵
から遠い位置で落ちる。
「いや………ママ………レナ……なんでも………するから……レナ、ね、お仕事
……したんだよ……ボルドさんの……ところで。イヤなお仕事、だけど……ママ
のため、が……まんするから………だから……だから」
「レナ、レナ、レナっ!」
 絵に懇願するレナの頭を、マリィは強く抱きしめた。しかしそれでもレナは絵
を見つめ、泣きながら語りかける。まるでマリィに抱かれていることにも、気づ
いていないかのようだった。
 いや、実際に気づいていないのだろう。
 レナは絵の中のマリィに母親の姿を、絵の中のルウに自分の姿を映し、それだ
けを見ていた。それ以外のものは、レナの意識から切り離されてしまったのだ。
 母親に捨てられた記憶。
 ボルドによって強制的に娼婦の仕事に就かされた記憶。
 衰弱しきった身体が、記憶の混乱を起こさせているのだ。しかも辛い記憶だけ
がいまの彼女を支配している。
「レナ、しっかりなさい! レナ!」
 呼び掛けるマリィの声は、悲鳴と化していた。腕の中にあるレナの恐慌に、影
響されたかのように。感じていた不安が、現実のものと成りつつあることを否定
するため、懸命にレナの名を叫ぶ。レナが行こうとしている世界から、呼び戻す
ために。
「レナ、レナ、レナ、レナ、レナ」
 けれどそんなマリィの呼びかけに、レナはまるで反応を見せない。マリィがそ
の頭を胸の中に抱き入れても、虚ろな視線は絵に向けられたままであった。
「ひとりは………イヤなの………ママ………ママぁ」
「だめよレナ………お願い………しっかりして!」
 哀願を続けるレナ。
 懸命に叫び続けるマリィ。
 そんな姿が、どれほどの時間続いただろうか。
「ママ………マ………」
 震えていたレナの唇が止まる。瞳は絵に向けられたままだったが、その中に正
気の色が戻ったようにも見えた。
「あ………」
 短く声を発した後、マリィも叫びを止める。
 二人は突然聞こえて来た音に、その恐慌を鎮めさせられたのだ。
 音、いやそれは声。歌声だった。




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