AWC Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【11】 悠歩


        
#4687/5495 長編
★タイトル (RAD     )  98/12/24   0:13  (199)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【11】 悠歩
★内容
 老人が言うほどに、立派な品物ではなかった。持ち主が中身を使いきって捨て
たのであろうそれは、ただのゴミでしかない。しかしその新品は、食べることを
優先させなければならないデニスが欲しても、簡単に買えるものでもなかった。
 水彩の絵の具。
 それが老人の差し出した箱の正体だった。本来なら十二本入りのはずなのだが、
老人が手にした箱には十一本しかない。一本は持ち主が別に処分したのか、なく
したのだろう。
 使い切った後のゴミではあるが、絞り出せば小さな絵に色を塗るぐらいの量は
残っているかも知れない。炭や鉛筆といった画材しか使ったことのないデニスに
とって、色の着いた絵を描くことは憧れだった。
 老伯爵から銀貨を受け取ったデニスは、パンを買う前に画材店へ立ち寄ってい
た。いつもはただ外からウインドウの中を覗くだけであったが、このお金があれ
ば油絵の道具が買えるかも知れない。そう思ったのだ。
 小さなキャンバス、大小の筆、そして最低限必要な油絵の具。
 だが油絵は、食べることにも汲々としている者が単なるの趣味として行えるも
のではない。その道具はいずれもが、デニスの一日の食費を大きく上回る値段で
あった。
 しかし全ては無理でも、いくつかは老伯爵から受け取った銀貨があれば買うこ
とも出来た。だがデニスはそれを諦めた。確かに油絵を描くことは憧れであり、
夢である。もし自分一人のことだけを考えていたのなら、飢えることも覚悟で買
っていただろう。デニスには自分の夢より優先させなければならい、優先させた
いものがある。だから諦めた。
「悩むこともないじゃろ。ほれ、ついでにこれもおまけしてやる」
 これも水彩絵の具と一緒に捨てられていたのだろうか。三本の筆が箱の上に添
えられた。どれもが軸がひび割れたり、折れたりしており、筆先も毛羽立ってい
たり、抜けたりしている。
「そうだな………もらうよ、将軍」
 デニスは微笑んで、水彩絵の具の購入を決めた。デニスの趣味のためのもので
しかないが、油絵の道具に比べれば遥かに安価だ。たとえ油絵のフルセットを買
ったとしてもマリィは怒りはしないが、デニスの気持ちは許さない。けれどこれ
くらいなら、老人の助けにもなって、デニスの心に言い訳が立つ。
 デニスの手から老人にパンが渡り、代わりにうす汚れた水彩絵の具の箱と筆が
老人の手からデニスの元へやって来た。



 小さなパンでも、ルウがかじりついていると、それがとてつもなく大きなもの
のように見えてしまう。噛みちぎったパンを収めた頬が、風船のように膨らんで
いる。柔らかなパンは、少女の小さな口にも相当な量を詰め込むことが可能であ
った。だが収めたのはいいものの、一度で喉を通すにその量はさすがに多すぎる。
咳込み、喉を通りきらなかったパンを吐き出すルウ。
 食べる。それだけのことが、何にもまして難しい暮らし。少女もまたこの幼さ
で、それを身に染み着くほどに経験してきたのだろう。幾度マリィが教えても、
与えられた食べ物を慌てて食べる癖がなおらない。
「もう、仕方ない子ね。慌てなくても、パンは逃げたりしないって言ってるのに」
 マリィはおかしそうに笑いながら、温めたミルクをルウに飲ませてやる。
 カップのミルクを一気に飲み干すと、ルウはたったいまの経験も生かさず、ま
たパンにかじりつく。口の周りを汚しながら。
 マリィは自分が食事をすることも忘れ、そんな少女の口を拭いてやる。とても
楽しそうに。
 テーブルに並んでいるパンとミルクとバター。たった二つのオレンジ。
 ろうそくの炎に照らされた食卓は、あまりにも質素な内容ではあったが、嬉し
そうに食べてくれるルウとマリィの顔を見るデニスの心は満ち足りていた。
『せめてあと、安い肉と野菜を買って、スープでも作ればよかったな』
 そんなことを思う。
 普段貧しい暮らしをしているデニスには、多少のお金が入ったところで、『ご
馳走』と呼べるものが思いつかなかったのだ。
「………よ、デニスは」
 眼差しはルウを見守ったまま、マリィが何か呟いた。強い雨音も手伝って、デ
ニスにはそれが良く聞き取れなかった。
 外では夕刻より降り始めた激しい雨が、いまもまだ続いていた。いつもならマ
リィの商売に障害としかならない雨ではあったが、今日は平和な一時の功労者に
なってくれた。最近はボルドの件で客が取れなかったこともあり、マリィはこの
雨で仕事を中止にしたのだった。
「凄いよ、デニスは」
 少女に言ったものと思い聞き流していると、マリィはもう一度、同じ言葉を繰
り返した。今度はデニスに瞳を向けて。
「えっ、凄いって?」
 いつになく、潤んだ瞳にデニスは戸惑いつつ聞き返す。男勝りだったマリィも、
ルウが現れてからはより女らしくなったように思えた。特に今夜は、それを強く
感じる。
「凄いよ………だって伯爵さまに認められたんだもん」
 それがまるで、自分のことであるかのようにマリィは嬉々としている。たぶん
片手の指には余るほど、繰り返された台詞を紡ぐ。
「認められたって言うか………分かんないよ。金持ちの、ただの気まぐれかも知
れないし。いや、俺があんまり惨めなナリをしてたんで、同情したのかも」
 それは謙遜だけで出た言葉ではない。
 希望はそれが叶わないと知ったとき、絶望へと変わる。希望が大きければ大き
いほどに、やがて来る絶望も大きい。いままでは全ての希望が、絶望としか変わ
らなかった。だからデニスは、老伯爵の言葉に過度な期待を持っていなかったの
だ。
 金持ちが気紛れに、たまたま出逢った似顔絵描きに世辞を述べたのだと。それ
でも良かった。老伯爵の気紛れと世辞のおかけで、デニスは自分のプライドに言
い訳をして、お金を受け取ることが出来たのだから。それでマリィとルウに、さ
さやかな振る舞いが出来たのだから。
「ううん、きっとその伯爵さまも、本当にデニスの絵が気に入ったんだと思う。
だって、デニスの絵は、本当にすてきなんだもん………」
「けど、俺、ちゃんと勉強したわけじゃないから………ちゃんとした絵を知って
いる貴族には、子どもの落描きにしか見えないかも知れない」
 降りしきる雨は、冬の冷たい空気の温度をさらに低くする。火を起こしてはい
るものの、かつての戦争で激しく傷んでいるアパートの室温はさして上がらない。
なのに応えるデニスの身体は暑さを感じていた。
 老伯爵の真意がとうであれ、デニスにはマリィがそう言ってくれることの方が
嬉しかった。たとえ他の誰にも認められなくても、マリィが喜んでくれるのなら、
デニスは絵を描き続けたいと思った。
「美味しいね、このパン。ルーベンさんの店のより」
 ルウの世話を焼くばかりだったマリィが、初めてパンを口にした。その唇の動
きを見ていると、デニスの体感温度はさらに増した。
「なれるといいね………」
「えっ? なるって、何に」
「デニス、言ってたじゃない………ラインバルト・デトリックみたいな画家にな
りたい、って」
「あ、ああ、そうだっけ」
「なんか、今日のデニス、少し変だよ。どこか悪いの?」
「別に………そんなんじゃないけど………」
 デニスの前にはあの時と変わらない、澄んだ瞳があった。



 目的などなにもない。あるとしたら今日を生きる、ただそれだけだった。
 強制労働に従事させられた工場は焼け、デニスは奴隷のような生活から解放さ
れた。それから程なくして訪れた終戦。しかし希望が開けた訳ではない。
 家畜同然にデニスを鞭打つ者はいなくなったが、同時に毎日の食事を宛ってく
れる者もいなくなった。故郷の村に帰ることも出来ない、帰る気もない。そんな
デニスには、この街で生きていくしかなかった。
 けれど戦後の混乱の中、12歳の少年が一人で生きていくのは決して容易なこ
とではなかった。幸い、廃墟となった建物は多く、すきま風さえ気にしなければ
雨露を凌ぐ場所には困らない。だが仕事など何もない。燃え盛る工場から、着の
身着のままで逃げ出したデニスに、お金もあるはずがない。もとより、奴隷同然
だったデニスに、給与など支給されてはいないのだが。
 自然、生きるためにデニスは悪い道に足を踏み入れることとなる。
 置き引き、窃盗、スリ、強盗。なんでもやった。最初のうちは失敗も多く、逆
に半殺しの目に遭ったことも数え切れない。が、回数を重ねる毎に技術や要領を
憶えたデニスは、スラムでも名の知れた悪党になっていた。
 しかしスラムで悪事をどれほど重ねても、一日を生き抜くに充分な稼ぎは得ら
れない。家や家族を失った者、仕事にあぶれた者。そんな貧しい人間ばかりが流
れ着いたスラムにはお金や品物も、ごくわずかしかない。少ないものを多くの貧
しき者たちが奪い合うだけで、豊かさは決して生まれない。
 やがて、かつては市街地であった場所がスラムに代わり街の中心として発展し
始めた。デニスはそれまでに磨いた腕を、街で存分に奮った。稼ぎも増え、デニ
スの所業もエスカレートして行く。まだ殺人こそ犯してはいなかったが、それも
時間の問題だっただろう。
 そんなある冬の日のことだった。
 その日、デニスには珍しく夕方まで全くの稼ぎがなかった。目をつけていた商
人ふうの男、いかにもお金を持っていますよと、宣言しているようなよく太った
懐を狙い、失敗してしまった。そればかりかスリを働こうとしていたことがばれ
しまい、警官に追われる羽目になってしまったのだ。また今日に限って、いつも
は諦めのいい警官がしつこく追って来る。警官をまき、スラムに逃げ込むまでに
丸一日を費やしてしまった。
 スラムにさえ入ってしまえば、警官は追って来ない。彼らはスラムを恐れてい
る。
 念のためしばらくは物陰に身を潜め、完全に警官が追って来ていないことを確
認すると、デニスは大きく安堵の息を吐いた。が、しばらく経つと安堵の気持ち
は怒りへと変化する。
 貴族や金持ちの味方である警官に邪魔され、貴重な一日を逃亡という、お金に
もならない行為に費やしてしまったのだ。おかげで今日は無一文のまま、陽が沈
んでしまったではないか。これでは空腹を堪えながら、明日の朝を迎えなければ
ならない。
「くそがっ!」
 他にあたるものがなく、デニスは怒りをビルの壁に向けて蹴りつけた。だがそ
れは、踵も爪先もすっかりすり減った靴を通し、デニス自身の足に痛みを伝える
ことになってしまう。誰のせいでもないはずなのに、さらに凶悪な怒りがデニス
を支配する。
 その時、デニスの視界に不幸な犠牲者の姿が飛び込んできた。デニスの潜むビ
ルの面した通りを上機嫌で歩いている中年男性。身なりからして、さほど裕福に
は見えないが、スラムの住人でもなさそうだ。スラムの住人であれば、陽が落ち
てからの時刻に酒に酔い、機嫌良くこの辺りを歩くなどという無謀な真似はしな
い。
 男は一人ではなかった。その横に、小さな影が寄り添っている。女、と呼ぶに
はまだ些か幼い少女。15にはなっていないだろう。デニスより歳上ということ
はなさそうだ。十代の前半、2か3くらいか。明かりの灯った外灯などほとんど
なく、薄暗いスラムの通りの中にあってもその黒髪は、輝いているような艶やか
さがあった。黒い髪に黒い衣装を纏った姿は、一見してなめまかしも感じられる。
が、全体的に華奢な作りの身体は、やはり子どものそれであった。
 二人が親子ということは、どう見てもなさそうだ。少女の肩を借りる、という
より足下のおぼつかない男は完全に体重を預けてしまっている。そしてその手は
頻繁に、衣装の上から少女の胸へ伸ばされているのだ。
「娼婦と客、ってところか………」
 別段驚く訳でもない。スラムでは生きるために、年端も行かない少女がその身
を売って糧を得るということは珍しくもないのだ。
 二人はこの先にある、名前ばかりの宿に行こうというのだろう。もとは普通の
宿であったが、戦争の後その周辺がスラムとなったため、まともな客は寄りつか
なくなってしまった。そこで売春婦たちに、商売の場所として幾らかの料金で提
供されている。もっとも大人の女たちはもっと治安のいい場所で商売しているた
め、宿を利用するのは歳若い者ばかりである。
 デニスに正義感などはない。けれど大義名分があるに越したことはない。本当
は自分の失敗に対する怒りの矛先を、たまたま通りがかった男に向けただけの話
だ。けれどデニスには、自分の行為を正当化する言い訳があった。
「おい、おっさん」
 目一杯、声に凄みを利かせてデニスは物陰から出た。今日までを、それで生き
延びてきただけあって迫力には自信がある。
「な、なんだお前は!」
 吹き出してしまいそうなほどに、男は滑稽な表情で怯んでいた。が、少女の手
前ということもあるのだろう、デニスを激しく睨み返して来た。ただあからさま
に震えている声は、それが強がりでしかないことを告げていた。
 改めて男の顔を間近に見ると、デニスの口元には自然と笑みが浮かんでしまう。
長くゆすり・恐喝の真似をしていると、相手の顔を見ただけでその強さが知れる
ようになるのだ。この男なら、まず殴り合いになったとしても、デニスが後れを
とることはないだろう。ましてや相手は酔いのため、一人では真っ直ぐに立つこ
ともままならぬ有様だ。圧倒的に自分が優位であることが分かると、デニスには
さらなる余裕さえ生まれる。
「おっさん、歳はいくつだ? 四十の前後ってところだろう………いい歳こいて、
こんなガキを買おうとは、とんでもねえ野郎だな」
 ちらりと横の少女を見遣ると、やはりデニスを激しく睨んでいた。だが男とは
違って、こちらには怯えの色など全く感じられない。よほど気丈なのか、単に恐
いもの知らずなだけなのか。けれど男を立ててか、口をはさむ様子はない。デニ
スも女を脅したり、暴力を振るうつもりはないので、こちらは無視をした。
「べ、べ、べつに俺は………こっ、ここ、こいつが誘って来たから、少し、つ、
つき合ってやろうとしてるだけだ」




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