AWC Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【10】 悠歩


        
#4686/5495 長編
★タイトル (RAD     )  98/12/24   0:12  (197)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【10】 悠歩
★内容
 デニスの手に乗っていたのは、安っぽいデザインの1セルドコインではなかっ
たのだ。大きさはほぼ同じで、色合いも似てはいたがセルドコインより遥かにシ
ャープな輝きを放つ、銀貨だったのだ。銀貨としては最低額のものではあったが、
デニスが手に触れたのは初めてだった。それどころか、これまでに実物を目にし
た覚えすらない。
「困ると言われても、それしかないのだよ。どうか許してくれないか」
 申し訳なさそうに、老紳士が頭を下げる。それがデニスを一層困惑させた。
「けど、こんなには頂けません………他にないのと言われるなら、似顔絵の料金
は要りませんから、これはお納め下さい」
 本当はこのまま、その銀貨を自分のポケットへ入れてしまいたかった。それだ
けの金額があれば、数日間、マリィたち三人と食べて行ける。マリィの収入がほ
とんどないいま、それは喉から手が出るほどに欲しいお金だった。けれどそれで
は、自分の仕事の正当な報酬にはならない。デニス自身のプライドもそうだが、
マリィが喜ばない。デニスなど比べものにならない、辛い思いをしているマリィ
でもこんな金額を一度に稼ぐなど出来はしない。それを考えれば、デニスは銀貨
をポケットへとしまい込めなかった。
 けれど銀貨を返そうとしたデニスの手は、老紳士の掌にそっと押し戻された。
「いや、それこそいかん。君は仕事をしたのだ。当然、その報酬を受け取る権利
があるし、私には支払う義務がある。それを蔑ろにすることは出来んよ」
「ですがこれでは、あんまりにも多すぎです。これを頂いてしまったら、それは
正当な報酬ってやつじゃありません。施しになってしまいます。俺には、施しを
受ける理由がありません」
「君のプライドを傷つけてしまったなら、謝ろう。しかし私は君に仕事を頼み、
君はその仕事をやり遂げた。私にはその代金を支払う義務があるのだ。君が報酬
を諦めるなどとは、それこそ筋違いというもの………」
 人の良さそうな老紳士ではあるが、根はかなり頑固者のようでもあった。まし
てこういう話となると、人の良さが頑固さに拍車を掛けているのだろう。デニス
と老紳士の話は堂々巡りとなり、銀貨は二人の間を幾度となく行き来し続けた。
「それじゃあ俺、どこかでこのお金を両替して来ますから。しばらくここで待っ
ていて下さい」
 これ以上話を続けていても埒があかない、そう判断したデニスはようやく銀貨
を崩せばいいのだと思い立った。大金を手にしたことのないデニスが、その発想
に辿りつくまで時間が掛かったのは、仕方ないことである。
「待ってくれ」
 走り出そうとしたデニスだったが、すぐに老紳士によって呼び止められてしま
った。両替してデニスが代金分だけを差し引き、その残りを返すことさえ老紳士
は気に入らないというのだろうか?
 せっかくの両替案まで拒否されてまったら、もうデニスには打つ手などない。
それならばもう有無を言わさず老紳士に銀貨を渡し、逃げてしまおう。そう思っ
た。
「この辺りは、小商いの店がほとんどだっただろう。銀貨を持っていって、両替
だけではいい顔をされまい。どうだろう………こうはしてもらえまいか?」
「はあ、なんですか?」
「この似顔絵一枚では、確かにその金額は多すぎるかも知れん。そこでだ、私の
来る前に君の書いていた絵があっただろう。それも譲ってはもらえまいか?」
「見て、らし………たのですか!」
 使い馴れない敬語に、デニスは舌を噛み掛ける。
「それは構いませんけれど………でも」
 先ほど描いていた絵は、もともと人に見せることを考えてはいなかった。趣味
として描いた絵を見せたことがあるのはマリィと一部の仲間だけ。それ以外の他
人に対して見せたことはなかったし、見せる機会もなかった。それをおそらくは
マリィたちより、いやデニスよりも遥かに目の肥えているであろう老紳士に見ら
れたことが、少し気恥ずかしい。
「でも、なんだね」
「似顔絵と、この絵をつけたところで、まだこの金額に見合うものではありませ
ん」
「君は分かっていないな」
 老紳士は笑った。
「こうして似顔絵を商売にしているのだから、君も画家を志しているのだろう」
「え、ええ………一応は」
 老紳士の問いに頷いてはみたが、デニスは心苦しく感じていた。貧しい家に生
まれ、工場に売られたデニスは物心ついてから働き詰めの日々を過ごしてきた。
正式な絵の勉強など、したことはない。それどころか普通の学校に通ったことす
らないのだから。そんな自分が画家を目指しているなどと、身分不相応もいいと
ころだろう。そんな夢を笑わず、真剣に応援してくれるのはマリィだけだ。デニ
スはそう思っていた。だから老紳士に答えたとき、自分が酷く惨めにも感じられ
た。
「芸術には、それに相応しい値段がつくものなのだよ」
 しかし老紳士には、デニスを嘲る様子は見られない。それが当たり前のことで
あるかのように言ってのけた。
「芸術なんて! 俺の絵なんて、とてもそんなもんじゃないですよ」
 老紳士の言葉に、デニスはかえって戸惑いを覚えてしまう。ぶるぶると首を振
って否定した。
「専門家ではないが、これでも私はそれなりに芸術を知っているつもりだ。だか
ら君の絵を買いたいと言うのだ。それでも納得が行かないと言うのなら、これは
投資だと思ってくれ」
「とうし、ですか?」
「そうだ。私はその絵を見て、君は将来伸びると睨んだ。だから君の将来に投資
したいと思うのだ。優れた資質を持った若い芸術家に、豊かな者が投資するのは
珍しいことではない。いいかい、これは施しとは違うのだよ。投資する側にも、
栄誉あることなのだ」
「でも………」
「頼むよ。仮にも君はこうして商売として絵を描いているのだから、客の願いを
聞き入れるのも務めではないかね」
「は、はい………分かりました。じゃあ、お言葉に甘えます」
 デニスにしてみれば、まだ老紳士の言い分を完全に納得した訳ではない。ただ
これほどまで他人に高く評価されたことは、いままでになかった。それがデニス
には嬉しかった。
 手にした銀貨をポケットへと収めると、老紳士が買い取るという、もう一枚の
絵を画帳から切り離した。こんなことだったら、この絵も鉛筆で描いておけばよ
かったと思いながら。
「それではお受け取り下さい、旦那さま」
 それが大金になったかと思うと、デニスの手は小さく震えてしまう。
「旦那さまは止めてくれ。そうか、まだお互いに名前を知らなかったな………私
はアウストラックだ」
「アウスト………えっ、ま、まさか、ひょっとして!」
 突然、デニスの全身が硬直してしまう。アウストラック………デニスのように
スラムに住む貧しい者でも、その名前だけは知っていた。
「じゃ、じゃあ、旦那さまは伯爵さまだったんですか」
「そんなに畏(かしこ)まらないでくれ。伯爵と言っても、ほれ、見ての通りた
だの老人だよ」
 決して嫌味ではなく、気さくに老伯爵は話すが、デニスの緊張が容易に解ける
ものでもない。虐げられた暮らしをしてきてはいても、貴族に対する人々の畏怖
の念は強く、デニスもその例外ではないのだ。
「お、俺………いえ、ぼくはデニス、デニス・ラングレイです」
「デニス・ラングレイか、良い名ではないか。きっといい絵描きになる」
 二枚の絵を手に老伯爵は大きく頷くと、デニスに背を向けて公園を立ち去ろう
とした。が、途中何かを思い出したように踵を返し、デニスに言った。
「そうだ、一つ約束をしてはくれないだろうか」
「なんでしょう?」
「来週、そうだなデニス君の都合さえよければ、水曜日、今日と同じ時間、ここ
に居てはくれないだろうか」
「は、はい。約束します」
「そうか、ありがとう」
 そして老伯爵は、今度こそ本当に公園を後にした。



 まだ陽は高い。いつもならまだ商売を続けている時間であったが、デニスの足
は真っ直ぐにアパートへと向って進められていた。まともに働くように初めて、
手に一杯の荷物を抱えて。
 どちらにしろ他に似顔絵を頼む客など、来るはずもない。趣味として描いてい
た絵も売ってしまい、もう一度初めから描き直すには些か時間が遅い。何より自
分の絵がお金になったことを、マリィに早く伝えたかった。三人分の空腹を満た
してまだ余りある食糧とともに。買ったのは、ルーベンの店ではない。もっと街
の中心にある、ルーベンのところよりもずっと綺麗な店だ。
 決して綺麗とは言えない格好のデニスが入ると、店中の視線が集まった。もち
ろん好意的なものではない。もう馴れてしまったとはいえ、気分の良いものでも
なかった。が、老伯爵から受け取った銀貨をポケットから出した途端、店の者の
態度は豹変した。汚い格好のデニスに対して、小綺麗な服を着た店員が平身低頭
に接して来るのだ。にこやかに笑いかけ、親切な態度で、丁寧な言葉遣いで、し
つこいほどに要らないものまで薦めてくれた。人から丁重に扱われることなど、
生まれてこの方経験のないデニスである。自分がいきなり偉くなってしまったか
のように錯覚を覚えるほどだった。金の力はここまでに偉大なものなのかと、改
めて知らされた。
 石畳を蹴る足音。すり減った靴底ではリズミカルな音とは行かない。けれどそ
んな不細工な靴音でさえ、今日のデニスには快い響きに聞こえていた。
 ルーベンの店のパンでもデニスにとっては、月に何度も口に出来るものではな
いご馳走だった。けれどさすがに街の中心で営業をしている店だ。ルーベンのと
ころの黒っぽいパンとは、材料が違うのだろう。見た目にも、舌の上で溶けてし
まいそうな白いパンから漂う香りは、デニスがいま空腹であったことを強烈に認
識させた。
「デニス? デニスじゃねえか」
 ふいに名前を呼ばれて、デニスは足を止めた。アパートのあるスラムまでは、
まだ距離があるが、ボルドやその手下がいても不思議ではない。
「なんだ、将軍のじいさんか」
 声を掛けて来た相手を認め、デニスは安堵の笑みを返す。ビルとビルとの間か
ら顔を出し、ほとんどが欠けてなくなった歯を覗かせて笑っている老人がそこに
いた。
 将軍。
 デニスたちがそう呼んでいる老人である。本当の名前は知らない。自らはかつ
ての戦争で将軍だったのだと言っている。だから通称「将軍」である。もっとも
誰も信じてはいないのだが。
「しばらく見掛けなかったけど、どうしてたんだい?」
「ふん、スラムもどこぞのバカどもが大手を振って闊歩するようになってから、
とんと住み難くなったんでなあ………あちこちとねぐらを変えてたんじゃよ」
 本人の言うには、戦場での名誉の負傷である左足を引きずりながら、将軍はデ
ニスの方へと近づいて来た。その後ろ、老人が顔を出していたビルの間にはぼろ
ぼろになった荷車と、そこに積まれた正体不明のガラクタの山が見えた。ここを
今夜のねぐらにするつもりだったのだろう。
 荷車とガラクタは老人の家財道具であり、商売道具でもあった。老人は荷車を
引いて街中を歩き回り、捨てられていたガラクタを拾い集める。そして、そのガ
ラクタの中から使えそうなものをスラムの住人へと売って、生計を立てているの
だった。収入はたかが知れている。しかしそんな将軍老人からも、ボルドは『安
全料』と称してお金を取ろうとしたのだ。
「いい匂いがすると思ったら、ずいぶんなご馳走を抱えてるじゃねぇか」
 紙袋から覗く白いパンを見つめながら、老人は唾を飲み込んだ。もともとが痩
せこけた老人であったが、久しぶりに見たその姿は以前にも増して血色のいいも
のではなかった。老人が商うガラクタは、貧しいスラムの者だからこそ欲しもす
るが、豊かな街の者であればお金を出そうなどとは思いもしない代物ばかりであ
る。もとは彼らの捨てたゴミなのだから。スラムから離れては、老人の商売が成
立するはずもない。同じ貧しき者としてデニスにも、老人が数日間まともに食事
をとっていないことは、想像するのに容易かった。
「なにか出物はあるかい?」
 安易な同情は、時として相手を傷つける。
 マリィと出逢って真面目に働くようになったデニスは、彼女の信念に影響を受
けて、人に施されることを嫌っていた。だから自分同様にボルドに対立する老人
を助けてやりたいとは思っても、単に施す真似はしない。相手のプライドが立つ
よう、心がける。
「お前が喜ぶんじゃないかと思ってな、とっておきのものがあるんじゃよ」
 デニスの言葉を待っていたかのように、老人はしわだらけの笑顔を見せ、荷車
へと戻って行った。そしてガラクタの山から、なにかを探し始めた。
「さて、どこへやったか………」
 ひび割れた壷、ねじ曲がったスプーン、ドアノブ、一辺のない窓枠、何の役に
も立ちそうにないものが次々と荷車から路上へと投げ出されて行く。
「おお、あった、あった」
 ようやく目的のものを見つけたらしい。嬉しそうな声を上げると、老人は平た
く細長い箱をデニスへとかざして見せた。
「なんだい、それは?」
 足の悪い老人がこちらへ戻って来るの待たず、デニスは自ら歩み寄って行った。
「驚くなよ、ほれ」
 デニスがそばへ寄ると、老人は自慢げな表情を浮かべ、手にした箱の赤色に染
められた蓋を開いた。中には十一本の鉛のチューブ。どのチューブも中身はしっ
かりと使用された後であった。本当なら整然と並んでいるはずなのだろう。箱の
中には厚紙で作られた仕切りがあったが、潰れたチューブは雑然としていた。
「どうだ、滅多に手に入る品物じゃないが、お前さんにならそのパン一つと交換
してやってもいいぞ」




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