AWC Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【09】 悠歩


        
#4685/5495 長編
★タイトル (RAD     )  98/12/24   0:11  (198)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【09】 悠歩
★内容
「えっ?」
「ほら、やっぱり気がついてなかったか………小さすぎて、とても盾にはならな
いけどな。ボルドの野郎も、気がついてなかったらしいけど、でも確かにルウは
マリィの前で、両手を広げて庇おうとしてたんだぜ」
「この子が、私を?」
 マリィは驚き、デニスの腕の中で眠る少女を見つめる。
 無垢な寝顔。
 小さく弱々しい存在。
 そよ風にさえ、吹き飛ばされてしまいそうな身体。
 それがマリィでさえ怯えてしまうような男の前に立ち、自分を守ろうとしてく
れたのか。あの時、ルウがマリィの前にいたのは、デニスの姿を見つけたからで
はなかったのか。
「ごめんね………ルウ。それに、ありがとう」
 マリィは震える指で、ルウの頬をそっとなぞる。冷たい空気の中、自分の目か
ら頬にかけて熱いものが走るのを感じながら。

「いいんですか、ボルドさん。あいつらをこのままにしてて」
 マリィたちの背中を見送りながら、手下の一人が面白くなさそうにボルドへ耳
打ちをした。ボスを守ることを役目とした、と言うより暴れる以外に知恵のない
男にしてみれば、せっかくの機会をみすみす逃したことが不服で仕方ない。
「ふん、マリィの器量とデニスの腕は金になる。失うには少々惜しいんでな」
 説明したところで、男は目の前のエサをおあずけされた犬のように、ボルドを
見つめるだけだった。荒事ではそれなりに使える男だが、頭を必要とする企みに
置いてはその価値は皆無であった。そんな部下に対し苛立ちを覚えながらも、ボ
ルドは飴を与えることは忘れない。それが自身は然したる力もなく、ここまで成
り上がって来たボルドの才覚なのだから。
「だが俺も、甘やかし過ぎたかも知れんな。ヤツ等も少々図に乗ってきたようだ
し………ここらで少々、世間の恐さと言うものを教えてやらんと」
 そう言ってボルドは手下たちへ笑って見せる。つられるよに、手下たちも凶悪
な下卑た笑顔でそれに応えた。



 十二月も目前に迫り、ここ数日は寒い日が続いていた。けれど今日は風もなく、
久しぶりに太陽も元気さを取り戻したようだ。陽の当たる場所にいれば、つい、
うとうとと居眠りしたくなる。春が来たのかと思わせる日和だった。
 ただそれは日向での話だった。
 いったん日陰に入れば、やはり冬。夏に着ていたものと同じシャツの上に、擦
り切れ、穴の目立つコートを羽織っただけでは肌寒い。
 デニスはセントラル・パークの一番北の端にいた。公園の外の建物、公園内の
立木の影の中。公園内で一番寒く湿ったここが、デニスの場所だった。
 けれどいま、デニスは寒さを感じてはいない。それを忘れさせるほどに、絵を
描くことに熱中していたのだ。
 大切な画帳を開き、南に向かって立ちながら、公園の様子を炭で描き込んでい
た。使っている炭は、画材としての木炭ではない。暖を取るために起こした火、
そこにくべられた木の燃えかす。それを使いやすい大きさに削ったものだった。
 デニスは週に一度、あるいは二週に一度、似顔絵を描くためにここに来るのが
習慣となっていた。もっとも、いまだ客に似顔絵を頼まれたことはない。デニス
自身も客が来るとは思っていない。ただ一日、こうして公園や周囲の風景を描く
のが好きだった。
 ボルドたちと諍いのあったあの夜以降、マリィの稼ぎはめっきりと減ってしま
った。直接的にボルドや手下たちが搦んで来る訳ではなかったが、遠巻きにマリ
ィが商売に立つのを見張るようになったのだ。ボルドたちのことはスラムばかり
で
なくその外、街の人々にも知られている。その影を警戒した客は、近寄って来よ
うとはせず、マリィが誘ったところで相手にはしてくれない。
 一方デニスも、決して順調に稼いでいる訳ではない。さらにルウという、新し
い家族が増え生活は苦しくなっていた。本当なら、こんなところでのんびりと絵
を描いている余裕などないのだ。
 それでもしばらく絵を我慢していたデニスの足は、自然と身体をこの公園に運
んでしまった。来てしまえば、考えるより先に画帳が開かれ、そこに絵が描き込
まれていく。一度動き出してしまった手は、簡単に止まることはない。また、デ
ニスの心に生まれていた安らぎが、その潤滑油となっていたのかも知れない。
 今日食べるものにさえ困った生活ではあったが、デニスの心は晴れていた。マ
リィがここ数日間、客を取っていないことが嬉しかったのた。
 普段強がって見せてはいるが、マリィはまだ13歳の少女なのだ。その幼い身
体が、男たちにお金で買われる。決して口に出すことはないが、とても辛いこと
だろう。そしてマリィ本人の辛さには及ばないであろうが、デニスも辛かった。
けれどデニスには、身体を売ることは止めろとマリィに言えはしない。止めてし
まえば、他にマリィが生きていけるほどの収入が得られる仕事はないのだ。
 デニスにも、マリィに娼婦を止めさせ、面倒を見てやれるほどの稼ぎはない。
いや、それどころか自分一人の腹を充たすことさえ出来ないのだ。
 この状態がまだ数日続けば、何か考えなければならないが、いまデニスは一時
の安らぎに身を委せたかった。
 ルウという家族が増えたことすら、その安らぎを大きくしてくれる。考えてみ
れば、ボルドたちが大手を振って闊歩するようになるまでは、あのアパートには
マリィやデニスの他にもたくさんの仲間が住んでいたのだ。中には働けない子ど
も、働いても稼ぎのない子どもも少なくなかった。それでもどうにか暮らして行
けたのだ。ルウ一人くらいが増えてもなんともない。
 それにルウの世話をしているマリィの顔は、とても優しかった。デニスもそん
なマリィを見ているのが好きだった。
「こんなところにいたのか」
 その声は、すぐ後ろから聞こえてきた。
 絵に集中しきっていたデニスは、手元の画帳とモチーフとしていたもの以外、
周囲への注意は失っていた。だから突然掛けられた声には、飛び上がらんばかり
に驚いてしまった。
 しかしその後の反応は早い。大事な画帳はたたんで投げ出す。これなら表紙は
汚れても、中の絵まで汚れる心配は少ない。同時に素早く振り返ると、相手のど
んな行動に対しても即座に対応できるよう、身構える。それはスラムで過ごした
二年の間に染み着いた習慣。自分に近づく人間の何割かが、物とりなどを目的と
した危ない存在であることの多い暮らしを生き抜いてきた、悲しい結果であった。
「おおっと、驚かしてしまったか。これはすまない………そんな恐い目をせんで
くれ」

 そこには一見して、卑しからぬ身分と知れる老紳士が立っていた。老紳士も予
想外だったのだろう、デニスの反応に驚いたような表情をみせたが、それもすぐ
に落ち着きのある笑顔と変わる。
「あっ? あなたは………あの時の」
 老紳士の顔を、一度見掛けたことのあるものと知り、デニスは警戒を解いた。
数日前、スリを働こうとしたデニスの落とした画帳を拾ってくれた、あの老紳士
だ。
「セントラル・パークで絵を描いていると聞いたのでな。しかしずいぶんと、隅
のほうにいたのだな。かなり探し回ったぞ」
 そう言って老紳士は笑う。その笑い方さえ、デニスの知っている人々とはまる
で違うものを感じさせる。これを気品というのだろうか。マリィやルウの笑顔も、
見る者の心を和ませるが、老人のものはそれとは異質であった。
「探し回ったって………えっ、じゃああなたはわざわざ、俺に会うために?」
「うむ」
 老紳士は頷く。
 見れば今日は、お付きの者も連れていないようだ。確かに昼間に限って、この
公園は比較的に治安の良い場所ではあるが、身分のある者が一人で歩き回ること
は珍しい。
 身分のある者、財産を持つ者の中には、得てして変わり者も多いと聞いたこと
がある。ただ一度会っただけの、すれ違い際に落とし物を拾って遣っただけの相
手に会いに来る理由などあるはずがない。デニスの方から、礼をいいに行くのな
ら別ではあるが。この老紳士もそんな変わり者の一人なのだろうか。
 あるいはまさか、あの時デニスがスリを働こうとしていたのに気づいて、改め
てそのことを咎めに来たのだろうか。にわかにデニスは緊張する。
「しかしなんだって、こんな北の端にいるのだ? もっと中央に行った方が商売
にもなるだろうに」
「シマ、っていうのがあるんですよ。えっと、縄張りって言った方が分かるかな。
俺みたいなガキは、簡単にいい場所で商売が出来るようになってないんですよ」
「そうか、大変なのだな」
 老紳士は大仰に頷いた。
「あの………ところで俺になにかご用でも?」
 恐る恐る、デニスは老紳士に訊ねてみる。もしスリを働こうとしていたことに
ついて、問い詰められたら、とぼけ通すしかない。そう思いながら。
「はははっ、なにかご用ですかは良かったな。似顔絵を描いているという者に、
用事と言えば他にはあるまい」
「はあ?」
「なんだ、本当に分からんのか。私の似顔絵を描いてくれと言うのだ」
「えっ」
 全く予想外の答えだった。
 デニスがこの公園に商売と称して立つようになって随分になるが、本当に似顔
絵を描いてくれと頼まれたことなどない。いまではデニスも客が来るなどとは考
えもせず、周囲に対して自分が似顔絵描きだと分かる目印さえ用意していなかっ
たのだ。
「大層に驚くのだな。似顔絵描きに、似顔絵を頼むのがそんなにおかしなことな
のか?」
 はやりこの老紳士は変わり者だったのだ。立派な身なりをしているのだから、
それなりの財産もあるだろう。本当に似顔絵を欲しいと思うのなら、名のある肖
像画家に頼めばいい。それをわざわざ、技量も知らない貧しい似顔絵描きに頼む
のだから。
 しかし変わり者であろうと、客には違いない。単なる酔狂であっても、初めて
似顔絵を頼まれたのだ。デニスは嬉しかった。
「いえ、描かせて頂きます」
 平静を装うつもりだったが、自分の声が興奮しているのがデニスには分かった。

 公園などで似顔絵を商売にしようという人間が、裕福であるはずはない。だが
それにしても、これほど客に対して失礼な似顔絵描きは他にないだろう。とうに
客が来るというこを諦めていたデニスは、その客を座らせる場所すら考えていな
かった。そのため、老紳士とともに一番近くのベンチまで移動することになった。
 デニスは立ったまま、画帳の白いページに鉛筆を走らせる。木炭は使わない。
商売用にととっておいた鉛筆。もう使われることもないかと思われていた鉛筆が、
今日初めて使われた。
 それほど待たせはしなかったと思う。ただそれは絵に集中したデニスの感覚で
あり、完成を待つ老紳士にしてみれば、長い時間であったのかも知れない。絵が
完成するまでの間、老人は手を杖に載せ、微かな笑みを浮かべてデニスを見てい
た。一度とて、デニスを急かしたりはしない。デニスが画帳に落としていた目を
上げたとき、老紳士は常に同じ姿勢、同じ表情を保っていてくれた。この老紳士
が最初の客となってくれたことは、デニスにとってこの上ない幸運であった。
「出来ました」
 デニスは開いていたページを画帳から切り離し、老紳士へと手渡す。取って置
きの鉛筆に大切な画帳。デニスにとっては最高のものを使ってはいたが、相手が
裕福な老紳士ではなくても、客商売をするにはあまりにもお粗末な道具であった。
しかし老紳士は絵を描いている間保ち続けていた笑顔をそのままに、何も気にし
た様子は見せずにその絵を受け取った。
 老紳士は受け取った絵を顔に近づけたり、遠く離したりしながら、しげしげと
眺める。絵を見ているうち、その顔から笑みは消えて険しい表情へと変わる。
 初めて客のために描いた絵の評価を待つ、というのは想像していたよりも遥か
に緊張するものだった。まして人の良さそうな老紳士の険しい表情に、やはりこ
の仕事は自分に向いていなかったのではないかと、デニスを不安にさせた。
「うむ、よく描けている。ほれ、私にそっくりではないか」
 老紳士は満足げに笑うと、デニスの描いた似顔絵と自分の顔を並べて見せた。
それはデニスの仕事に対しての、最高の評価だった。
「よかった………」
 客が満足してくれただけで、デニスは報われた。それだけで、充分な報酬だっ
た。だがそれは絵を志す者としては、と言うことであり、日々食べて行かなけれ
ばならい生身の人間としての報酬はまた別である。
「あの、それではお代を」
 他の仕事の後なら、その報酬はもっと堂々と請求する。けれどそれを初めての
絵でとなると、ついどこか卑屈になってしまう。
「いくらかね?」
 懐に手を入れた老紳士が訊ね返して来た。
「はい、えっと、その、3セルドですが………」
 元々、その料金5セルドと設定していたのだが、口から出た数字は小さくなっ
ていた。それは初めての絵の代金の請求ということで、つい気後れをしてしまっ
たことと、老紳士が手にした札入れは以前、デニスがすり取ろうとしていたもの
だと思い起こし、罪悪感が働いてのことだった。
「すまん………他に細かい持ち合わせがないようだ。これで勘弁してくれないか」
 そう言って、老紳士の手がデニスの掌にコインを落とした。
『一枚?』
 かつてはスリを働くため、いまは絵を描くために人よりも繊細な神経を持つ掌
が、そこに触れたコインの枚数を素早く感じ取る。小さなコインがわずかに一枚。
1セルドでは単純に計算して、切り取った画帳のページ分にも満たない額ではあ
ったが、後ろめたさのあるデニスは元より文句を言うつもりもなかった。か、そ
れは掌中のコインを実際に目にするまで、のことであった。
「困ります、旦那さま」




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