#4688/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:14 (198)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【12】 悠歩
★内容
怯えのために、どもりながら話す男だったが言葉の語尾が急に強くなる。スラ
ムで突然物陰から飛び出してきて、その前に立ちはだかる者の目的などは、こち
らが説明しなくても分かっていたはずだ。しかし話しているうち、自分の前にい
るデニスが少年であることに気がついたらしい。喧嘩になっても、勝てるとでも
考えたのだろう。
「物乞いにくれてやるものなんかないぞ。ケガをしないうちに、さっさと消えて
しまえ」
一変して強気に出る男に、デニスは笑いを堪えるので必死だった。たぶんこの
男は初めてスラムに足を踏み入れたのではないだろうか? こうした状況に置か
れたのも、初めての経験なのだろう。少しでもスラムを知った人間であれば、例
え相手が子どもであったとしても決してこんな態度には出ない。最初にデニスが
現れた瞬間に、一目散に逃げ出すか、有り金を差し出して許しを乞うはずだ。も
しかすると、最近街に来たばかりなのかも知れない。
「ちっ、面倒くせえな」
そうデニスが言い終えた瞬間、男の顔から浮かび掛けた余裕の笑みが、跡形も
なく消え失せる。男の腹に、デニスの固く握った拳がめり込んでいたのだ。
しかし腹に入れられたのが拳であったのは、男にとって幸運と言っても良かっ
た。デニスのズボン、後ろのポケットには、折りたたみのナイフが収められてい
たのだから。だが殴られてもなお、男が強気な態度を続けたり、反撃に出ていた
らどうなっていたかは分からない。男が腹を抑えて蹲った瞬間にはもう、ナイフ
はデニスの掌の中へと移動を終えていた。
「わ、悪かった………お、俺が悪かった………これで勘弁してくれ」
ナイフは使われずに済んだ。男には反撃を試みるつもりなど、微塵ないらしい。
先刻以上に情けない顔に涙を溜めて、財布を差し出した。
もっとも男が反撃して来なかったことは、デニスのとってこそ幸運であったの
だ。と、これは後になって気づいたことである。一つ間違っていれば、デニスは
殺人者となっいたかも知れないのだ。
「バカが、最初からそうしていれば、痛い思いもしなかったのによ」
それがさも当然のことであるかのように、デニスは男から財布をひったくる。
罪悪感など、針の先ほどにも感じはしない。予想外に重い財布の感触にほくそ笑
みながら。
「はん、ずいぶんと持ってるじゃないか。これなら危ないスラムに入らなくても、
街で娼婦を買えるのによ………おっさん、本気でガキが好みだったのか。なあ、
この変態野郎」
思いの外の収入を得たことで、デニスは上機嫌となっていた。スリをしくじり、
警官に追われた悔しさと怒りも完全に忘れてしまった。だが人から奪うことを当
然として来た者が上機嫌になっても、それはそれで質が悪い。奪い取った財布で、
男の頬を二度三度、ぺちぺちと叩きながら悦に入る。
「いい加減にしなよ。こっちが大人しくしてたら、ずいぶんと図に乗るんだね」
凛とした声は、デニスにされるがままに堪えている男のものではない。最初か
ら射抜くような視線を崩さない、少女のものであった。
「さすがにその歳で娼婦なんぞをしてるだけあって、大した気の強さだな」
時には誰かと組んで悪さをすることもある。しかし、基本的には仲間意識を持
たないデニスではあったが、それでも同じスラムに住む者としての親近感で少女
に対する口調は幾分柔らかくなる。デニスは財布の中から、娼婦が一回の商売で
取る以上のお金を出して少女へ渡そうとした。
「ふざけるんじゃないよ!」
「あっ」
思わず驚きの声を発した時には、デニスの手から財布は消えて折りたたみのナ
イフだけが残されていた。
「おい、こら、てめぇ!」
男を脅したものより、さらに凶悪な怒鳴りを上げてデニスは少女を睨んだ。だ
がまるでそれが聞こえないかのような素振りで、少女はデニスから奪った財布に
お金を戻している。
「欲張った真似すると、命を落とすぞ。こらぁ!」
デニスは残されたナイフの刃を出すと、少女へ向けた。さすがに女相手に暴力
を振るったことはないが、それを信条にしている訳でもない。少女の対応次第で
は、実際にナイフを使うことになるかも知れない。
ところが、想像もしなかった少女の行動を、しばらくデニスは見守ることとな
ってしまった。
男を誘うため、歳不相応に派手な服を着た少女だが、彼女もスラムに住む者で
あるのならお金に困窮しているのは間違いない。それがどんな手段であれ、一度
手の中へ入ったお金を手放すなど、命を失うことになろうとも、とてもデニスに
は考えられない。だが少女は、いとも簡単にそれを行ったのだ。
「ごめんなさいね、いやな思いをさせちゃって。これに懲りず、また誘って下さ
いね」
デニスに向けていた激しい眼差しからとても想像つかない優しさで、少女は男
へと財布を渡した。その行動にはデニスも驚かされたが、男の方も相当に驚いた
ようだ。
「あ…ああ、あ、あう………あ」
まるで痴愚のように、意味不明の声で応じ、財布を受け取ると我に返ったらし
い。突然、ゼンマイ仕掛けのオモチャのように跳ね起きた。そしてやはり、ああ、
だの、うう、だのと意味不明の叫びを上げて走り出してしまった。
「あ、こら、待て、おっさん!」
ここでデニスもようやく我へと返る。せっかくの獲物に、このままみすみすと
逃げられてはたまらない。急いでその後を追おうとした。
が。
その目的は成されなかった。左の頬に焼けるような熱さを感じて、デニスの足
は止まってしまった。
デニスの前にと立ちはだかった、少女の掌に打たれたのだ。
「こ………こいつ!」
どこまでも邪魔を続ける少女に、ナイフを握りしめたデニスの手が動き掛ける。
しかしナイフが少女を傷つけることはなかった。銀色の輝くナイフは渇いた音を
立て、ひび割れた石畳へと転がり落ちたのだった。
デニスは自分が臆しているのを感じていた。濁りのない双眸に。
人からものを奪い、生きてきた暮らしの中で、殺され掛けた経験も何度かあっ
た。あばらを折られ、自分の流した血溜まりに身を沈めたこともある。けれど死
を覚悟せざるを得ない暴行を受けた中でさえ、これほどに恐れを感じたことはな
い。
目の前に立つ少女はデニスよりも小さく華奢な身体をしている。ナイフを使う
までもなく、軽く片手で押すだけでその身を地べたへと倒せるだろう。だがデニ
スにはそれが出来ない。
己より遥かに体力の劣るであろう少女に、いくつもの修羅場をくぐり抜けて来
たと自負するデニスが気圧されていた。
「俺が、女に………こんなガキなんかに」
それを認める訳には行かない。少女を恐れていると認めてしまえば、自分の全
てを否定することになってしまう。そう思えたデニスは、少女へと反撃を試みる。
せめて一発、頬を打ち返してやろうと。
しかしそれは無理な話だった。
いつの間にか少女を見上げているデニスの手は、とてもその高さまで届きはし
ない。
気がつけば、デニスは少女に打たれた頬を押さえ、石畳に膝をついていたのだ
った。
痛い。
とても痛い。
少女に打たれた頬が。
あばらを折られ、死にかけたときよりも。
人に従うのは嫌いだった。何人かで組み、盗みを働くときでもリーダーシップ
は自分で取らないと気が済まない。それは工場で常に罵倒に近い命令を受け、牛
馬のごとくに扱われた反動でもあった。工場が焼け落ち、束縛する者がいなくな
ったとき、もう二度と誰かの命令に従うことはないだろうと思った、従うつもり
もなかった。
それがいま、なぜか黙って少女に着き従っているのか自分でも分からない。何
とか自分を納得させるための言い訳を考えてはいるが、デニスには見つけられな
い。
「その様子じゃ、今日はなにも食べてないんだろう? お腹が空いてちゃあ、怒
りっぽくなもなるよね。着いて来なよ。大したもんじゃないけど、ご馳走するか
ら」
膝をついていたデニスに掛けられた、少女の言葉。デニスは黙ってその言葉に
従い、少女の後ろを歩いていた。
敗北感に包まれながら。
これほどの敗北感は、いつ以来だろう?
家族が、そしてデニス自身が食べて行くため工場へと売られたときにも、大き
な敗北感を覚えた。だがいま感じているものとは違う。
不思議だった。
自分よりもずっと弱いはずの少女に、気圧されてしまったことは屈辱だった。
自分の全てが否定されてしまったように思えた。そこから生まれた敗北感。
しかし悔しさが思っていたほどに湧いては来ない。それどころか、デニスは初
めて経験する感覚に支配されていた。
大金を盗み取るのに成功したときですら、感じたことのない感情。
静かな、静かな心でいるデニス。
経験のない感情に、デニスは戸惑う。それを悟られるのが嫌で、不機嫌である
ことを装い、デニスは顔をしかめて歩いていた。前を行く、少女には見えていな
いと言うのに。
「ここが私たちのねぐらさ」
少女が足を止めたのは、デニスにとってあまりいい思い出のある場所ではなか
った。スラムの中でも特にかつての工場に近い場所。どうにか形のある建物が残
された、限界の場所であった。
「ふん、思った通りに汚ねぇねぐらだな」
精一杯の憎まれ口。
もうデニスには、少女を力でねじ伏せようという考えなどなくなっていた。た
だそれを素直に認められる度量がなかった。ずっとそうやって生きてきたのだ。
すぐには改められはしない。
見上げた建物は、わざわざ口にする必要すら無用と思われるほど激しく傷んだ、
三階建てのアパートだった。おそらくはデニスよりは幾分マシな立場の、工場労
働者たちのためのものだったのだろう。もともとがいい造りではなかったようだ。
それが何十発という砲弾、工場と街を焼く炎にあぶられたのであろう。壁は黒い
すすに覆われ、いたるところに無数の亀裂が走っている。スラムの中においても、
もっとも立場の弱い子どもにはこんな場所しか住むことが許されない。
けれど見てくれは最悪なのに、デニスの目にそれは暖かく映った。
ガラスさえろくに残されていない幾つもの窓。一階には人の気配がなく、黒い
壁面に貼り付いた窓は、闇の中に穿たれた更なる闇のようにさえ見える。それが
軽く首の角度を変えて見上げれば、二階三階の窓から微かな明かりが漏れている。
その光景に、デニスは言葉にならない安堵感を覚えた。それは夜の山中で道に迷
い、散々歩き回ってようやく遠くに家の明かりを見つけた、そんな感覚にも似て
いる。
「おいで、私の部屋は三階なんだ。あっ、暗いから気をつけて………ここから階
段になってるよ」
少女に促されるままに、デニスもアパートの中へ足を運んだ。全く人気のない
一階は、外から見る以上に暗かった。同じように暗くても、月や星が臨める分、
まだ外の方が明るい。その状況は、外から明かりのあることが窺えた二階に達し
ても変化はない。どの部屋もドアを閉めていたこともあるのだろう。ろうそくの
炎によるものだと思われる明かりが、廊下や階段にまで及ぶことはない。
足を止めることなく、少女は三階へと進んでいく。デニスも特に興味を惹くも
のがあった訳でもなく、少女に倣い階段を上がろうとした。
「ん、誰だ?」
階段に近いドアが開き、蛍の灯火よりも淡い光と声が廊下に漏れる。最初に少
女が、続いてデニスもその声に振り返る。
「なんだマリィか。お帰り………んーと、あれ、そっちの彼は?」
男の声であったが、明かりのある部屋を背にしているため、その顔ははっきり
としない。ただ声の様子やその背格好からすると、デニスと同じ年頃の少年であ
ると思われる。
「ん、ただいま。この子は私のお客さんだよ………あ、言っておくけど、商売の
じゃないからね」
マリィと呼ばれた少女は、気安い態度でその声に応じた。二人はよく知った間
柄なのだろう。
「ははは、分かってるって。え………あ、デニス? お前、デニスじゃないか!」
「あん?」
少女にすら名乗っていない名前を、突然現れた少年に呼ばれてデニスは身構え
た。それが、いいことでは名前を呼ばれた憶えのない、呼ばれる時はいつも相手
が敵意を持った追っ手であった、デニスの習慣となっていたからだ。闇に隠した
手を後ろに回して、ポケットの中のナイフを探す。が、見つからない。先ほど石
畳に落としたまま、拾っていないことを思いだした。
「あ、憶えてないかあ。俺、一度アンタと組んで、仕事したことあるんだけどな
あ」
デニスが警戒していることには全く気がつかないのか、少年は少女に対したと
きと同じよう、親しげに話し掛けてくる。自分以外の人間は、まず敵として見て
しまうデニスには理解し難い態度だった。
「憶えてないな」
相手に敵意がないらしいと感じ、デニスは幾分警戒を解いた。とは言え、デニ
スには親しげにする理由もなく、ぶっきらぼうに応えるだけだった。
「そうか、ま、仕方ないか。みんなに一目置かれていたアンタと違って、俺なん
か小者もいいところだったからなあ」
そう言って少年は笑った。別に自嘲しているのでもなく、デニスを馬鹿にして
いるようでもない。久しくデニスには無縁だった快活な笑顔。