#3003/3137 空中分解2
★タイトル (BCG ) 93/ 3/19 0:23 (199)
行き止まりの誘拐(7) くじらの木
★内容
事件から二週間が過ぎ、私は元通りの生活に戻っていた。
朝は六時半に起き、七時五分にアパートを出て、満員電車に揺られて、神田
にある会社に通った。
私は以前に増して無愛想にふるまい、同僚の好奇心に満ちた目を蹴散らし、
その結果として私は益々孤独になった。
私は同僚と二人一組で一日三ヶ所のビルのエレベーターを点検し会社に戻っ
て報告書を書き、夜の七時には会社を出た。
ふと何気ない場面であの事件のことを思ったりしたが、それも日にちが経つ
につれて少なくなっていた。
警察はいまだに私の尾行を続けてはいたが、当然のことながら私が犯人の一
人だという決定的な証拠はつかめないようだった。
一度だけ美佐子の家に電話を掛けた。
それは留守番電話になっていたが、電話の向こうに美佐子がいるような気が
した。私は何も言わずに切った。
誘拐事件の容疑者が全国に指名手配されたというニュースは、警察からでも
、美佐子からでもなく、コーヒーをこぼしてしまった朝刊で知った。
指名手配されたのは荒川区のアパートに住んでいた元印刷工、阿部健次郎(
27才)で、事件発覚後警察に掛かってきた膨大な量の電話による市民からの
情報を一つ一つ蝨潰しに当たった結果、浮かび上がってきたということだった
。
新聞に載った阿部の写真は髪を長くのばし、まぶしげに細めた目がいくぶん
神経質に見えたが、これといって印象的な所はなく、何度みても覚えない顔が
あるとしたらこの顔ではないかと思った。
市民からの情報という表現は多少とも警察の飯を食ったことのある私として
は疑問の残るところではあった。
市民からの情報というのは、刑事が日頃小遣いを与えててなづけてあるたれ
込み屋も、汚い脅しでしめあげた町の優しいお兄さんたちも当然含まれるとい
うことなのだ。
新聞の記事を読み進めていくうちに私の目はその中の一文にくぎづけになっ
た。
警察が阿部容疑者の犯行と断定したのは、事件直後にサラ金などにしていた
八百万円の借金を一度に返済していることに加えて、阿部容疑者の部屋の中か
ら見つかったスポーツバッグのなかにあった百万円の紙幣の番号が誘拐事件で
犯人に支払われた紙幣の番号と一致したためである。
そんな馬鹿なことがあるのだろうか。
金はあの場所で燃えることなく犯人の手に渡っていたのだ。
私はその阿部という男にどうしても会ってみたいと思った。
私は今になって確信していることがあった。
それはあのトランシーバーだった。
あの時阿部はやたらな所へ連絡されると困るからという理由でこちらからの
音声が届かないようになっていると言ったが、あれはトリックだったのだ。
たぶんテープレコーダーをつないだ送信機があの車のどこかに積んであり、
私がコールボタンを押すたびに順番にテープの声が送信されたのだろう。
奥多摩の山のなかで阿部の声が鮮明に聞こえたのは近くに阿部がいたからで
はなく送信機と一緒に移動していたからなのだ。
私はその日からまた一日のほとんどを阿部という男が身代金を手に入れた方
法について考えることに費やすようになった。
まずすべての前提となるのは、私が本当にあの日、笹神家から持って出たの
は紙屑などではなく現金であったのかということだった。
間違いはない、それは確かに札束であった。
私は笹神家を出るときに包みを解いて全てこの目で見ているのだ。
次に、奥多摩に着くまでの間に誰かに現金の入った袋をすり替えられたので
はないかということだ。
ありえないこれは絶対にありえないことだ。
私は奥多摩で車を離れた時以外は常にそばに身代金を置いていた、どんな細
工をしたところで他の紙袋とすり替えることなどできはしない。
それならば全ての謎はあの軽トラが燃えた場所に凝縮されるのではないか。
全てが堂堂巡りだった。
私は毎日イライラとして過ごし、他人とほとんど話をしない日々を送った。
その間に警察からの事情聴取は二回あったが、警察は何も情報は与えてくれ
ず、私も私の精神状態について教える気もなかった。
私が突然そのことに気が付いたのは、阿部が指名手配をされたという記事を
読んでから三週間ほどたってからのことだった。
内神田にある古い六階建てのビルの地下室で、私はそのトリックのあまりの
馬鹿馬鹿しさと単純さに声をあげて笑った。
それは普通に考えればだれにでも簡単に思いつくはずのものだった。
いっしょにいた同僚がぽかんと見つめるなか、長く長く笑い続けた。
私は三日の有給を取り、一日目は私の考えを裏付けるために一日中思い付く
ままあらゆる所に電話を掛けた。
どの返事も私の思った通りだった。
夜になって、美佐子の家に電話をした。
電話は予想した通り留守番電話になっていた。
私は相手のいない受話器にむかって、ゆっくりと慎重に話した。
「美佐子、身代金のトリックがわかったので電話をした。あまりの単純さにそ
れを聞いたらおまえも呆れるだろう、またおまえがいるときに詳しい説明はす
るが、なんで私がそれに気が付いたかというと、おまえには黙っていたがあの
身代金の札束にある目印を付けておいたんだ、それは私しか知らない、車でお
まえの家を出てから私一人でやったことだ、たぶんこれには警察も興味を持つ
だろう、今日一日その裏付けのためにいろんな所に電話をしてますます私の考
えていることが正しいという確信がもてた、あと気になるところが何箇所かあ
る、明日はそれを調べてみる、はっきりすればあさってにも警察に行くつもり
だ」
次の日、北区にある自動車修理工場に電話した。
私の名前を名乗り、ごく最近にある車のシートとかフロアマット、あるいは
トランクルームの内張りを替えたかどうかを聞いた。
電話に出た男は何度も私の名前を聞いた挙げ句、警察の人間でもないおまえ
にそんなことを答えるつもりはない、と言って電話を切った。
六時を過ぎるまで部屋の中で過ごし、辺りが暗くなった頃に外に出た。
軽い食事をして、何軒かの飲み屋を回った。
たいして飲む気にもなれず、神経はぴんと張りつめていた。
酔ったふりをしながら町を歩き、時計が夜の一時を指したところでアパート
に向かった。
ふらふらとよろめいた足取りでアパートの階段を上がり、ドアの前で酔い潰
れて転んだふりをした。
壁にすがり付くようにして立ち上がり、ぼさぼさの頭を手で掻き、悪態をつ
いた後ドアを開け、部屋に上り込んだ。
ドアの鍵は掛けずに、わずかに開いたままにした。
大声で思い付いた演歌を最初の一節だけ歌い、明かりも点けないまま奥の部
屋のベッドにうつぶせになって倒れこんだ。
わずかに開けた目でドアを見つめ、二日間の仕掛けが私の一人芝居で終わら
ないように願った。
どれほどそうしていただろうか、やがてゆっくりとドアが開き、男が音もな
く部屋の中に滑り込んだ。
心臓が背中を突き破るのではないかと感じられるほど早く打った。
男は音が出ないように慎重にドアを閉め、しばらくの間上がり口にたたずん
だ。
部屋のなかは暗く、男の顔は見えない。
遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
男はゆっくりと音をたてずに私に近付き、二メートルばかりの所まで来ると
再び立ち止まった。
男の荒い息遣いが感じられた。
男は右手を胸ポケットに入れ、ステンレス製の小型のケースを出し、その中
から注射器を取り出した。
震える手で注射器を目の位置まで持っていき、中に入っている液体を確かめ
ると、すり足で私に近付いた。
男はベッドの横に立ち、ごくりと唾を飲み込んだ。
私にはグレーのステンカラーのコートが見えるだけだ。
男はカタカタと小さく震えながら、ぎこちない動作で腰を屈め、私の腕をと
った。
私は大きく息を吸い込み、注射器が私の腕に触れる直前に男の手を払い除け
、ベッドから起き上がると同時に男の胸に体当たりを食らわせた。 大きな音
をたてて男は尻餅をつき、信じられないといった目で私を見た。
「あいにくだったな」
そう私は言った。
「殺してやる」
男はそう言うと、ポケットからナイフを出し、起き上がった。
「札束に印を付けたなんてのは嘘だな」
「気が付くのが少し遅かったようだ」
男はじりじりと私に近付いてくる。
「もっと早いうちにおまえは殺しておくべきだった、ちょろちょろ臭ぎ回りや
がって」
「私は阿部とは違ってそう簡単にはいかないぜ」
「どうだかな、同じようなものだと思うが」
私はにやりと笑い、男に言った。
「私は今でも警察の張り込みを受けている身でね、ほらもうそこに警察の方が
立ってるだろう」
私が顎でドアを指し示し、男がほんの一瞬後を見ようと視線を動かしたその
時、私は大きく足を踏み出し、男のナイフを持った右手をおもいきり蹴り上げ
、続けて男の顎にストレートをたたき込んだ。
男は、いや、福原俊介は小さなうめき声とともに床の上に崩れ落ちた。
アパートの近くで何も気ずかずに張り込んでいる役立たずの刑事の所まで行
き、先ほどの一部始終を録音したテープを渡し、アパートとの中でのびている
福原俊介を引き取るように言った。
翌日は警察の取り調べ室で一日を過ごし、私の三日間の有給休暇は終わった
。
最後に残ったその大きな欅の木は四方にのびていた枝を全て切り落とされ、
空き地に放置された不出来の彫刻のように見えた。
やがてその先端にロープが掛けられ、クレーンに繋がれる。
あとは五、六メーターおきに立ったまま輪切りにされ、三時間もすればごろ
りと地上に不恰好な丸太がいくつか並ぶことになる。
縦にした羊羹を切っていくようなものだ。
住宅地のなかの木の伐採はそうやって進められる、大木が倒れるときのめり
めりという音も地上に倒れるときの轟音も無い。
都会の木は伐採されるときすらその尊厳を認められない。
私は美佐子の横に立ちその光景を眺めていた。
美佐子が言った。
「彼は結局私にこの土地を売らせて道路を開通させれるために二億円を盗った
わけね」
「あいつの会社は昨年の暮れあたりから倒産寸前だ、そこで思い付いたのが今
度の計画だったというわけだ、おまえのお父さんから譲り受けてあいつが住ん
でいた土地はほぼ六百坪ある、駅前に通じるこの道が開通していなければ実勢
価格で約坪百五十万というとこだが、道が開通したとたん少なくとも倍の価値
にはなる、市の区画整理課の話ではこの道の反対側の国道に通じる部分の買収
は先月で終わったということだ、つまり残ったこの土地をおまえが市に売り渡
せば、それだけで九億円も価値が上がる計算だ、そのためには二億ぐらいの金
は燃えちまったところで痛くもかゆくも無い」
「やっぱり燃えちゃったのね、あの二億円は」
「当然だ、あの場所から盗み出すなんてのは不可能だ」
「それじゃあ阿部の部屋から見つかったっていうあの百万円はどういうことな
の」
「福原俊介が置いたんだ、彼にしてみれば自分の本当の目的を知られないため
にも二億円が犯人に渡ったということにしなければなら無かったからな、だか
ら私が身代金に目印を入れたという話ををおまえから聞いたときにあわてたん
だ、警察に阿部のことを電話したのもたぶん福原俊介だろう、ナンバーが一致
したのは不思議でも何でもない、私と福原俊介でナンバーを書き写したんだか
ら、たとえ彼が懐に入れてある札のナンバーを書き写したとしても誰もそれに
気付くわけが無い」
「阿部という男は殺されているのかしら」
「間違いなく殺されてるだろう、福原は始めからそのつもりだったに違いない
、それで揺さ振ってみたらすぐにぼろを出した、たぶん車でどこかに誘い出し
て殺したんだろう、シートを取り替えたり、フロアマットを掃除したりしても
、必ずその車の中から阿部の髪の毛が何本か出てくるだろうな」
「私がこの土地を売らないなんて強情を張ったおかげでこんなことになってし
まったのね、直美になんて言ったらいいのか」
「元々が金目あてで結婚した男だ、福原って奴は、調べが進めばたぶん女がい
るさ、たぶんそいつには近じか大金が入る予定があるからその時は結婚しよう
なんて言っていると思うね」
「あっ、もうこんな時間だわ、早苗を迎えにいかなくちゃあならないの、谷口
のお爺ちゃんの所に遊びに行ってるの」
美佐子はそう言うとにっこり笑った。
私もそれにつられて意味もなく少し笑った。
おわり
くじらの木