#3002/3137 空中分解2
★タイトル (BCG ) 93/ 3/19 0:18 (179)
行き止まりの誘拐(6) くじらの木
★内容
所沢署を出たのは午後の一時を過ぎてからだった。
近くの電話ボックスに入り美佐子の家に電話をした。
直美が電話に出て、美佐子は早苗の入院している市立病院にいると言った。
見舞いに行こうかと言うと、この家も病院も報道の人間がたくさんいるので
今日は近寄らないほうがいいと言った。
ご苦労さんとも、ありがとうとも言わずに直美はそれだけ言うと電話を切っ
た。
腹を立てる気力もないまま、へたな尾行を続ける二人の刑事を引きつれて四
日ぶりにアパートに戻った。
何か見落としていることがあるに違いない、それはばかばかしく単純なこと
で、それさえ見つかれば犯人が身代金を手に入れた方法がいとも簡単に説明が
付くのではないか、そんな気がしたが背広を脱ぎ、ネクタイを緩めて、ベッド
に横になると、一秒もたたないうちにそのまま眠り込んだ。
目が覚めたのは翌日の朝の七時半だった。
昨日の夕刊を開くと社会面のトップにこの誘拐事件の記事が載っており、報
道陣にもみくちゃにされながら早苗を抱いて病院に駆け込む美佐子の写真が大
きく印刷されていた。
記事の内容に新しいことは何もなく、私のことは単に知人のAさんとなって
いた。
今日の朝刊はこの事件のことは一切伝えていなかった。
世の中は無事に子供が戻った誘拐事件より、パチンコの景品交換所が強盗に
襲われた事とか、大手の印刷会社が検察に事情聴取されたた事とか、男女の産
み分けの病院がロンドンで認可された事のほうに関心があるようだった。
所沢市立病院の面会時間は午後の二時からだった。
にこりともしない受け付けの娘に早苗の病室を聴き、八十五番と書いた面会
用の青いバッジをつけて病室に向かった。
エレベーターで三階に上がり、笹神早苗と書いた札の下がっているドアをノ
ックした。
はい、という声がして、ドアを開けると、日当たりのよい個室のベッドの上
でブルーのパジャマを着た女の子が大きな熊のぬいぐるみを抱えているのが見
えた。
ベッドの傍らには、美佐子と、七十前後の老人が立っていた。
どうやらその大きな熊のぬいぐるみはその老人が持ってきたもののようだっ
た。
老人は仕立のよい紺色の三つ揃いを着て、いくぶんこっけいに見えるステッ
キとソフト帽を右手に持っていた。
銀色の髪は薄くはなっているがきちんと撫付けてあり、広い肩や、分厚い手
は、若い頃なん等かのスポーツで鍛えたことを想像させた。
私はその老人に軽く頭を下げて挨拶をし、美佐子に話し掛けた。
「どうだい、元気になったか」
美佐子はにっこり微笑むと、早苗の顔を安心したように見つめ、私に視線を
戻した。
「ありがとう、あなたには感謝してるわ」
「そういってくれる人がまだいたなんて事は驚きだ」
「本当にそう思ってるのよ」
「私は明日もう一度警察に行って、同じことを少なくとも五回は話さなければ
ならないし、今日ここに来る途中も刑事が二人張りついたままだ、会社には今
ごろ二人組の刑事が行って私の勤務態度やつまらない噂をしつこく聞いている
だろうよ」
「警察があなたのことをいろいろ言ったのは聞いたわ、でもあたしはそんなこ
とは嘘だと思っているわ」
私は一呼吸置き、窓から見える真っ青な空を眺めた。
「もし間違ったら失礼だが、この方は谷口源次郎という名前じゃあないかな」
美佐子の目がうろたえるのがわかった。
私は老人に向きなおり、その温和な顔には何とも不釣り合いの暗く鋭い目を
睨み付けた。
「何であなたの名前を知っているか分かりますか」
「火曜日の午後に赤帽だといって電話を掛けてきた人間がいた」
谷口老人は薄笑いをほんの一瞬浮かべた。
「お茶でもゆっくりいかがですか」
私は彼にそう言った。
「なぜあなたはあの誘拐事件を警察に報せたのか、まずそれを話していただき
たい」
私はとても飲む気になれないコーヒーに砂糖を入れながら言った。
病院の一階にある喫茶店で私の向かいに谷口老人が座り、その横に美佐子が
座っている。
谷口老人は両手をステッキの上にのせ、ぴんと背筋を伸ばし、私を見つめた
。
それは、受けてたつてやるよ若いの、と言っているようにも見えた。
「最初に美佐子さんから電話をもらったとき、警察に報せるように説得したが
美佐子さんは聞き入れなかった。それは考えてみれば当然のことだ、どこの親
でもわが子を危険にさらしたいなどと思うわけがない。私はそれでいったんは
諦めたが、逐一美佐子さんから事件の経過を聞かされるうちに私はあなたがこ
の事件に一枚噛んでいるのではないかと思いはじめた」
「たいした推理だ」
「あなたは離婚の原因になった早苗を快く思っていないはずだ。美佐子のこと
も恨んでいるだろう。失礼だが金をたっぷり持っているとは言いがたい、なん
といってもあなたは元刑事で警察を出しぬく方法はいくらでも知っているかも
しれない。私は考えれば考えるほどあなたが犯人の一人だと思うようになった
。そこで私は警察に事件を報せることにした、あなたが犯人の一人の可能性が
あるのであなたたちに知られないように捜査を進めて欲しいと言って。警察も
はじめのうちは私の言うことに半信半疑だったが、あなたが美佐子さんの家に
行ってから犯人からの連絡が手紙になったことと、あなたが自ら身代金を持っ
て受け渡しに出掛けたことで私の言うことをだいぶ信じる気になったらしい」
「今でも私が犯人だと思っているのか」
「今でも思っている」
「なぜだ」
「あなた以外に身代金の二億円を奪える人間はいない、少なくともあなたの協
力が無ければあの金をどうすることもできなかった」
警察は私には一言も漏らさない事件の情報を谷口老人にはたっぷりと漏らし
ているようだった。
ここで私が何を言ったとしても無駄のように思えた。
彼には彼の信ずるストーリーが出来上がっているのだ。
私は飲まないまま温くなったコーヒーをスプーンでかき回すのをやめ、谷口
老人を見つめた。
私は美佐子の顔に視線を移し、再び谷口老人を見てそして言った。
「早苗の父親はあなたなのか」
谷口老人にとってそれは予想された質問のようだった、彼は眉一つ動かすこ
ともなく、私の視線を外すこともなかった。
「息子の公一の子だ」
谷口老人は右手で美佐子の手を握り、話を続けた。
「殿山公一を知っているだろう、公一は私の最初の妻との間にできた子だ、そ
して唯一人の、それはおおよそこんなことだ、公一は同僚の妻と恋いに落ちた
、浮気ではない二人とも真剣だった、同僚の妻は妊娠し公一に打ち明けた、二
人はどんなことをしても夫を説得して結婚しようと誓い合った、ところが公一
はまもなくつまらない事件で殉職してしまった、妊娠した女は公一の子を産む
決心をして、夫のもとから去った。不愉快かもしれないし安手のメロドラマだ
と思うかもしれない、だがこれが真実だ」
美佐子が泣いていた。
私はゆっくりと椅子から立ち上がり、谷口老人と美佐子を残して出口に向か
って歩き出した。
翌日は朝から新井刑事と森山と名乗った二十七、八の若い刑事との三人で、
あの日私が通ったのと同じコースをたどった。
森山刑事が運転し、後の席に私と新井が座った。
やはり彼らのいちばん関心のあるのは小川町から山道を通って長瀞に出るま
での間のようだった。
彼らは細々としたことを何度もしつこく質問し、そのつどこまめに手帳に書
き留め、写真を何枚も撮り、時間を計っては地図の上に書き加えていった。
新井はときどき苛立った声で、森山を怒鳴ったが、森山はそれを気にする様
子もなく抑揚のない声で淡々と新井の受け答えをしていた。
新井は人望のある上司ではなさそうだった。
私は一度、新井に怒鳴られている森山に多少の同情を込めて片目をつぶって
みせたが森山はぷいっと横を向いただけだった。
彼らが私の説明に矛盾するところがないか必死になって見付けだそうとして
いるのよくわかったが、そんなものははじめからありはしないのだ。
奥多摩湖の例の場所に着いたのは午後の三時ごろだった。
昼間見るその場所は見晴らしもよく、奥多摩湖のはるか向こうの雲取山まで
見渡せた。
軽トラが落ちた崖の縁に立って下を覗くと百メーターはあると思われる崖の
下はすぐに湖面が広がっているのではなく、いったんゆるい傾斜の岩肌が延び
ていてその数メーター先から湖が始まっていた。つまりここから落ちた軽トラ
はそのまま湖に落ちたのではなく一度下の岩に当たり、そこを転がりながら湖
に落ちたことになる。
崖には焦げ後が所々にあり、下の岩には黒いオイルの跡が付いていた。
私は新井刑事に言った。
「軽トラの残骸は引き上げたのか」
「ああ」
「何が出た」
「しらん」
「どうせたいしたものは出ないだろうな、あれだけよく燃えたうえに崖から落
ちて粉々になり、最後は水のなかに入ったと無りゃあ完璧だ、現金の燃えかす
でも出てくればと思った私の考えは甘かったようだ」
「あんたが自分で火を付けてここから突き落としたのじゃあないかと考えてい
る者もいる」
「こういう推理はできないか、軽トラの積んでいた大きな段ボールがあったろ
う、あの中に犯人が無線機を持って入っていた、ここで私が車を降り、崖の縁
に立って奥多摩湖の道を見ているときに現金を助手席から盗って近くの草叢に
隠れた、車が燃え崖の下に落ち、私がこの場を去った後ロープを使って崖の下
に降り、用意してあったボートで脱出した」
新井はにやりと笑うと言った。
「滝川さん、そうすると続きはこうなる、そのトリックマニアの犯人は適当な
場所までボートに乗っていきその場でボートを湖に沈め、金を持って近くに停
めてある車に乗って五日市で行き早苗を解放する、それをすべて一時間半の間
に終わらせる、忙しい奴だ」
「できない話じゃないだろう」
「その通りだ」
「なぜ捜査しない」
「する意味がないんだ、軽トラが落ちたあの時間、この対岸で三人が釣りをし
ていたんだ、消防署に連絡したのはその中の一人だ、三人とも身元ははっきり
しているし、不振なところはない、何のつながりもない三人だがその時の証言
は食い違うところはない、あの時軽トラが落ちてきた後、不振な人影も見なか
ったし、ボートの類いも一切見ていない、夜中の湖面というのはわたしたちが
想像するよりはるかに明るいものなんだ」
「そいつらの目が節穴だって事かもしれない」
「いいか、たとえ彼らが見逃したとしても状況は同じなんだよ、この奥多摩湖
から外に向かっている道は三本だけだ、山梨と、青梅と、五日市、我々はあの
時ここを通過するすべての車両のナンバーを控えていた、その数は全部で百四
台、昨日のうちにそのすべてについて調べは終わっている、何も不振な点はな
い」
「おまえ等の捜査のどこかが抜けているんだ」
私はそう言いながらも、ここに来るまでに考え付いた色々な脱出の方法が実
際には危険が多すぎたり、不可能なことばかりで、漫画の世界ならいざ知らず
、実行するには現実的では無いということを認めざるをえなかった。
「燃えちまったんだ、犯人の奴は現金なんか一銭も手に入れてないんだ、それ
以外に考えられるか」
私は苛立ち、新井にむかってそう怒鳴った。