#2999/3137 空中分解2
★タイトル (BCG ) 93/ 3/18 23:55 (182)
行き止まりの誘拐(3) くじらの木
★内容
「宮本でございます」
かなり年をとった女の声だった。
「どうも、私そちらへお届け物を承ってます赤帽なんですが、住所の欄が不鮮
明で、電話番号しかわからないもので、正確な住所を教えていただきたいと思
ってお電話をさしあげたんですが」
彼女は私の言ったことに不振をい抱くといったこともなく、丁寧に住所を告
げた。
世田谷区、祖師谷一丁目五十七の三、谷口源次郎。
初めて聞く名前だった。
ありがとうございますと言って、電話を切り、電話機をもとの場所に戻して
急いで階段を下りた。
ソファーにだらしなく座って、煙草を吸いながら、谷口源次郎の名前を何回
かつぶやいた。
もちろん私が考えていたのはこの男が早苗の父親である可能性についてだっ
た。
二本目の煙草に火をつけたとき、美佐子が帰ってきた。
その後いくつかの電話が掛かってきて、すべて美佐子が出たが、いずれも犯
人からのものではなかった。
四時に福原俊介が黒いボストンバックを重そうに提げて戻ってきた。
「一億六千万」
彼はそう言うと、バックを床の上に置き、ソファーに深く腰掛け、ふーと大
きく息を吐いた。
その日も福原俊介と二人で札のナンバーをノートに書き写した後、居間で寝
た。
次の日それを最初に見付けたのは直美だった。
それはありふれた白い封筒で、定規で書いたと思われる四角ばった文字でこ
この住所が書いてあり、差出人の名前はどこにもない。厚みがかなりあり、振
るとかたかたと乾いた音がした。
消印の日付は昨日で、差し出し地は浦和になっている。
封筒の下を剃刀を使ってそっと切ると几帳面に畳んだ白い便箋が一枚と、カ
セットテープが滑り落ちた。
便箋は横書きのコクヨ製で、そこには封筒と同じ定規の文字が書いてあった
。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日の二時に車に金を積んで、国道254沿いのスカイラーク川越店まで来
てください。
必ず一人で来てください。
もしこちらが不審な人を見かけたときは取引はそこで終わりです、二度と交
渉はできませんからそのつもりでいてください。
お金は三つに分けて紙の手提げ袋に入れてください。
カセットテープとこの手紙は封筒も含めてすべてその時に紙袋のなかに入れ
てください、一つでも欠けたら早苗ちゃんは帰りません。
では待っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
美佐子がテーブルの上のテープレコーダーを引き寄せ、そのカセットテープ
を入れた。
がたがたという椅子をずらすような音が聞こえ、新聞紙をまるめるような音
がした後、少女のかぼそい声が聞こえた。
「毎日新聞より、今日も南高北低の春型の気圧配置で、関東から西の地方は晴
れて気温も高いが、低気圧の通り道にあたる北日本は雨や雪になる」
とぎれとぎれで、何度もつかえたり、もとに戻ったりしながらその声は続い
た。ときおりすーという息を吸い込む音も聞こえた。
「東京晴れ、札幌晴れ後雪、仙台晴れ一時雨、秋田曇りときどき雪、前橋晴れ
後曇り」
そこでその声は突然切れ、後には何も入っていなかった。
直美があわてて隣の部屋から昨日の朝刊を持ってきた。
「昨日の天気の欄だわ」
「そういう事か」
福原俊介がくやしそうにつぶやいた。
今の時間は午前の十一時半だ。
道路地図を広げ、国道254に出る道を確認した。ここを一時ごろ出れば間
に合うはずだ。
「おかしいわね」
直美が私の顔をみながらそうつぶやいた。
「だって、この脅迫文にはだれが持って来いって指定してないわ、一人で来い
とは書いてあるけど」
「金さえ持ってくれば誰でもいいということなのだろうか、あるいは、所詮誰
かを指定したところでそれを確かめるすべがないということなんだろうか」
「この四人の中で車を運転できるのは滝川さんとうちの主人の二人だけだわ」
直美が心配げに俊介を見た。
「私が行こう、幸い私は独身だ」
私は無表情でそう答えた。
「犯人の奴、何を考えているんだろう」
福原俊介が苛々とした声で言った。
「車であちこち移動させて、怪しい車が付けてないかどうか調べる気なのかも
しれない、あるいはまったく別の目的があるのかもしれない」
どんな仕掛けがあろうとそんなことはどうでもいいと思った、私の役目はた
だ犯人に金を渡しさえすればいいのだ。
ここを出るまで一時間半の余裕があった。その間にカメラで脅迫状の写真を
何枚も撮った。コピーをしたかったのだが近くのコンビ二で万が一犯人にコピ
ーをとっているところを見られた場合のことを考えて諦めた。
カセットをダビングし、それも写真に撮った。
二億円の現金を犯人の指定通りに三つに分け、紙の手提げ袋にいれ、手紙と
カセットをその中の一つの袋に入れた。
実は私は直美が言った、「身代金を持ってくる人間を指定していない」とい
うこと以外に気になっていたことがあった。
なぜ手紙なのかということだった。
最初、犯人は電話で誘拐したことを伝えてきた。
犯人はこちらが電話を録音していることを知っているのではないか。
何らかの方法でこちらの行動を監視しているのではないか。
そんな思いがどうしても私の中から去らなかった。
「電話をいれるよ」
そう言って、アスカに乗り込んだ。
身代金は助手席に置いてある。
美佐子が車のドアに手を掛けながら訴えるように言った。
「ただおとなしくお金を渡すだけだって約束して」
「たまたま棍棒を持っていて」
そこまで言ってやめた。
アスカを発進させ、時計を見ると一時時五分だった。
不思議な広い道を走り、ごちゃごちゃとした道を抜けて、駅前に出て、浦所
バイパスに向かった。
その時左の道筋に笹神家と、三本の欅が見えた。
美佐子の家は私が気が付かなかっただけで、実は駅からほんの数分の所にあ
ったのだ。
英橋の交差点を左に曲がり、254に出て北に向かってアスカを走らせた。
道は混んでいたが渋滞するほどでもなく、アスカが気紛を起こさないかぎり
一時四十分にはスカイラークに着くはずだ。
途中でアスカを路肩に寄せ、念のために紙袋の中の包みを全て開け、確かに
二億円があるのを確認した。
ラジオから流れてくる絶望的としか言いようの無い音質の音楽を聞きながら
、ふとこの誘拐事件そのものが本当にあったのだろうかと考えた。
もちろんそれはあったに違いない、現にあの手紙があり、助手席には二億円
いう大金が置いてあるのだ。
だが、考えてみれば私は犯人の声を聞いたこともなく、さらわれたという早
苗という子も見たことがないのだ。
腹の大きな美佐子も見たこともなければ、早苗が子供を産んだのを確認した
わけでもない。
右にスカイラークの看板が見えたのは予想通り一時四十分ごろだった。
アスカを駐車場に停め、身代金の入った紙袋を三つ持って、店のなかに入っ
た。
店は混んでいて、五分ほど待たされた後、窓際の席に座らされた。
一時五十分。
コーヒーとサンドイッチを頼み、店の中を見渡した。
主婦の二人連れ、ネクタイをしめたサラリーマンの四人、若いカップル、制
服姿の女子高校生の六人、子供連れの夫婦。
一通り見回したが、私に関心がある人間はいそうに無かった。
なかなか来ないコーヒーを待ちながら、犯人とはいったいどんな奴なのだろ
うと考えた。
一人だろうか、複数だろうか、若いだろうか、中年だろうか、男だろうか、
女だろうか。
二時になった。
コーヒーがやっとテーブルの上に運ばれて来たのとほぼ同時に、店内放送が
流れた。
「笹神様、笹神様、電話が入っております、いらっしゃいましたらレジの所ま
でおいでください」
紙袋を持ってレジの所に行き、ウエイトレスに名前を告げて、受話器を受け
取った。
「笹神です」
受話器の向こうに神経を鋭く尖らせて辺りをうかがっている恐ろしく冷静な
男の息遣いが感じられるような気がした。
「母親はどうしました」
若い男の声で、感情というものが感じられない平坦な感じのしゃべり方をし
た。
「あいつは運転できない」
「おまえは誰だ」
「義理の弟だ、もっとも美佐子さんより歳は上だが」
「気に入らないしやべりかたをするなあ、おまえ」
「早苗はどうした、声を聞かせろ」
「あわてるな、金を持ってそこをすぐ出ろ、254を使って小川町に向かって
走れ、小川町の駅前を過ぎたあたりにグリーンという喫茶店がある、そこで話
をしよう、時間は四時半だ、遅れるなよ」
そう言うと電話は一方的に切れた。
予想はしていたことだが、そう簡単に犯人は現われそうになかった。
美佐子の家に電話をいれていきさつを話し、スカイラークを飛び出した。
二時十分。
アスカを走らせながら地図で小川町を探した。254沿いに北上すると、東
松山、嵐山町と続き、川越から三十キロほど北西の位置に小川町の地名があっ
た。
道は川越を抜けた辺りからわずかにすきはじめ、なん箇所かの工事中の所も
渋滞することもなく走れた。
つけている車がないか何度か斜線を変えてみたが、怪しい車は見当らなかっ
た。
東松山を過ぎ、道の両側は家もまばらになり、葉を落とした雑木林が目立つ
ようになった。
やがて小川町の標識が見え、こまごまとした商店街が現われた。
小川町の駅前を通りぬけ、商店街が途切れたあたりに、グリーン、を見付け
た。
こぶりの真新しいログハウスで、店の前に車が四、五台置ける駐車場があり
、グレーのレンジローバーが一台停まっていた。
レンジローバーの横にアスカを停め、紙袋を持って中に入った。
四時二十三分。
店の中は明るい板張で、中央に大きなパイン材のテーブルがあり、その周り
にぐるりと北欧調の椅子がとり囲んでいる。
客は一人もいない様子で、マスターらしき二十四、五に見える男が一人いる
だけだ。
窓際のマスターからいちばん離れた椅子に座り、コーヒーを注文した。
四時三十分、電話のベルの音が聞こえ、マスターが体を傾けて私をちらりと
見た後、「はい、いらっしゃいますよ」と電話にむかって言っているのが聞こ
えた。