#2997/3137 空中分解2
★タイトル (BCG ) 93/ 3/18 23:43 (185)
行き止まりの誘拐(1) くじらの木
★内容
電話が鳴っていた。
六、七と数え、十六まで数えたところで諦め、ベッドから這い出した。
時計を見ると朝の八時で、カーテンの隙間から陽が差し込んでいた。
昨夜の酒は少しも抜けておらず、ベルが鳴るたびに頭ががんがんした。
やっとの思いで受話器を取った。
「もしもし、御免なさい、あたし、美佐子です、お願い切らないで、話を聞い
てほしいの」
それは六年前まで私の妻だった女の声だった。
「日曜の朝目が覚めたら、気のきいた冗談の一つでも浮かんだのか」
私は不機嫌に言った。
「救けてほしいの、娘の早苗が誘拐されたの、ゆうべ犯人から電話があって二
億円用意しろって言うの、あたしもうどうしたらいいか」
美佐子のすすり泣きの声が聞こえた。冗談には聞こえなかった。
「いいかよく聞きなさい、私に出来ることはなにもない、この電話を切ってす
ぐ警察に電話をするんだ、早いほうがいい、何なら私が今かけてもいい」
「だめよ、そんなことをしたら殺すって言ってるのよ、それだけは絶対に駄目
、お願いよ意地悪言わないで救けて、あなただったら何かいい方法が見付けら
れるはずだわ」
果てしない押問答がつづき、六年前と同じ様に私はそれに負け、美佐子の家
に向かう約束をした。
吐き気を堪えながら歯を磨き、腫れぼったい顔を洗った。
昨夜脱ぎ捨てたままの背広をまた着て、トマトジュースを一口飲んだ。
道路地図帳を広げ所沢の項を見ながら、いったい私は何をしようとしている
のだろうと思った。今の私に何が出来るというのだ。
美佐子と私が知合ったのは高校生の時だった。
私は大学を出て警察官になり、美佐子と結婚をした。
それから八年、私は警視庁の捜査一課の刑事になり、子供はいなかったが幸
せな生活だと思っていた。
ある日美佐子が別れて欲しいと言った。「子供が出来たの、でもあなたの子
ではないの、相手の人が誰かは言えない」と。
私は美佐子を責め、何度か殴ったこともあった。それでも美佐子は相手の名
前を決して言おうとはしなかった。
思い出したくもない話だ。
それで別れて以来、私は美佐子に会っていない。
私はその次の年に刑事を辞め、今のエレベーターのメンテナンス会社の社員
になった。
あの時美佐子のお腹にいた子は六歳になっているはずだった。
早苗というのか。
私は誘拐されたというその子の顔を思い描こうとしたが顔の輪郭さえも思い
浮べることは出来なかった。
それどころか今では美佐子の顔さえも正確に思い出すことが出来なかった。
愛車のスクラップ同然のいすずのアスカで美佐子の家に向かった。
美佐子は私と別れたあと埼玉の所沢の実家に戻っていた。
彼女の母親は私と結婚する三年前に亡くなっていたので父親もそれを望んだ
のだろう、その父親も昨年の冬にガンで亡くなったと人づてに聞いた。
やはり何度問いつめても最後まで美佐子は子供の父親の名前を明かさなかっ
たらしい。
二月だというのにぽかぽかと暖かい日ざしが車のなかに入りこんだ。
ラジオのニュースは相も変わらず物騒な事件をいくつも教えてくれたが、も
ちろんこの誘拐事件については何も伝えていなかった。
私は国道254で川越に向かい、県道を通って所沢にはいった。
結婚前と結婚してから合わせても数回ほどしか来たことの無い所沢は六年前
とはすっかり変わってしまっていて私のうろ覚えの記憶だけでは美佐子の実家
はなかなか見つかりそうに無かった。
確か遠くからでもよく見える三本の大きな欅があったはずだ。
駅前からつづくごちゃごちゃした通りを抜け、細い道を何度も曲がり、二度
道を間違えいささかうんざりした後、突然舗装された広い道に出た。
二車線のゆったりしたその道は通る車もなくひっそりとそこに浮かぶように
存在していた。
郊外にたまにある風景だ、計画はされたが地権者との話し合いがまとまらず
に工事半ばでストップされた広い立派な道路、たぶんこの道はどの幹線道路と
もつながらず、住宅街の仲で孤立しているのだろう。
それは私に熱帯雨林のなかの滑走路を思わせた。
ゆっくりとアスカを走らせ、目印の三本の大きな欅を探した。
二分ほどでその欅が見えた。
広い道の舗装が終わった所で車から降り、大きな欅に向かって歩いた。
山茶花のきれいに刈り込まれた生け垣が大谷石の門柱で途切れ、福原と書い
た表札が下がっていた。
それが美佐子の妹夫婦の家だったことを思い出すのにたいした時間はかから
なかった。
さらに進むとアルミ製の小さな門の前で道は終わっていた。
表札に笹神と書いてある。
美佐子の旧姓だ。
門の横に、ひいおじいちゃんの頃からある大きな欅を守ろう、と書いた看板
が立っていた。
どうやら美佐子は頑固な地権者の一人らしかった。
私はこの広い道をちょうど塞ぐ形で立っているその三本の欅を見上げた。
澄み渡った青空に葉をすっかり落とした細かな枝が時折吹く風にさわさわと
揺れた。
車の騒音が聞こえ、この家のすぐ向こうが広い道になっているらしかった。
美佐子の家は五百坪はあるかと思える広い敷地に建つコンクリートの白い二
階建で、それは明らかに周りの家よりは立派に見え、どんなばかな奴でも隣の
家の子よりこの家の子のほうが誘拐する価値があるように見えるに違い無かっ
た。
実際のところ美佐子の父親が彼女に残した財産といえばこのたいそうな欅付
きの土地と家の他には親子二人が普通に暮らせる程度の現金があるに過ぎなか
った。
ちょうど私がいるところは北側で裏口になっていている。
私が呼び鈴を鳴らそうとしたときに裏口のドアが開いて、美佐子が顔を出し
た。
長かった髪は肩のあたりでゆるくウエーブがかかった髪型になっていて、い
く分ふっくらして見えたが、それがかえって私と暮らしていた頃のぎすぎすと
した冷たさを消し去っていて、これでにっこり笑っていれば幸せな金持ちの奥
さんといったふうに見えるのだろうと思った。
もちろん美佐子はにこりともせず、私を家のなかに入れるとドアを閉め鍵を
掛けた。
「ありがとう、勝手なことだとは自分でもわかってるの」
「二度と会いたくない人間のひとりだな、お互いに」
美佐子はそれには何も答えず、私を居間に通した。
そこには皮製の応接セットが置いてあり、美佐子の妹の福原直美がかけてい
た。
私が軽く頭を下げると、彼女も軽く頭を下げた。
白のポロシャツにブルージーンズ、髪はショートカットで化粧はほとんどし
ていなかった。クラスの図書委員、そんな感じが何の意味もなくした。
直美は私と美佐子が結婚した年の翌年に小さな広告会社を経営している男と
結婚して、この家とは隣の美佐子の父親の土地に家を建てて暮らしている。
お久しぶりですとだけ言って、ソファーにかけた。
部屋の壁にはセンスのいいパステル画が掛けてあり、オークの無垢の床はよ
く磨かれ、天井に埋め込まれた空気清浄機からは清潔な空気が流れこんでいた
。
「何かその後犯人から連絡はあったのか」
「何もないわ」
何か飲み物でもと美佐子が言ったが、私は何もいらないと答え、頭の上の空
気清浄機を見ながら、煙草を吸ってもいいかと聞いた。
美佐子はテーブルの下からガラスの小振りの灰皿を取り出し、私の前に置い
た。
背広の胸ぽけっとをまさぐって煙草を取り出し、安物のライターで火を付け
た。
「順序だてて話してくれないか」
美佐子は膝のうえに置いた自分の手を少しの間見つめ、その後視線を私に向
け、再び自分の手のひらを見つめた。
泣かずにしゃべろうとする儀式のように見えた。
「昨日の夕方の五時ごろ外で遊んでるとばかり思っていた早苗がどこを探して
も見つからないので直美にも手伝ってもらって早苗の行きそうなところを一緒
に探してたの、それでもやっぱり見つからないので夕方の九時ごろだったかし
ら、警察に捜索願いを出そうとしたときにその電話がかかってきたの、何だか
かすれたような声で、まるで役所の事務手続きでも説明するみたいに淡々とし
ゃべる人だったわ、早苗ちゃんはあずかりました、三日以内に二億円用意して
ください、警察に報せたら二度と早苗ちゃんの顔は見られませんよ、冗談で言
ってるんじゃあありませんよ奥さん、わかりましたね、そう言った後早苗の泣
き声が少し聞こえて電話は切れたわ」
「本当に娘の声だったのか」
「そんなこと間違えるわけないわ」
「その男の声に聞き覚えはあるか」
「いいえ、あたしの知っている人にはいないと思うわ」
私はサッシ越しによく手入れのされた庭の芝生を眺め、煙草をゆっくり吸っ
た。
「それでどうするつもりなんだ」
「どうするって、払うわよ、決まってるじゃない」
「あてはあるのか」
「この土地を売ってでも作るわ」
坪二百万として五百坪で十億、できない金ではないが、それにしても三日以
内に二億円を用意するということは楽なことではないと思った。
「警察に報せるかどうかということはおまえの自由だ、だが二億円を払ったか
らといって娘が帰ってくる保障はない、子供といっても六才にもなれば犯人の
顔ぐらいは覚えてるだろう、果たして犯人がおとなしく金と交換に娘を帰すか
どうかはわからない、その時になって警察に報せても遅すぎる」
美佐子は射るような目で私をにらみ付けた。
福原直美が取り成すように言った。
「滝川さん、そのことはさっき私の主人が何回も姉を説得したのよ、でも姉は
どうしても警察に報せるのはいやだといって聞かないの、だからね、それはも
うそれでいいと思うの、だからこそ滝川さんに来てもらおうと思ったの、犯人
と交渉するときにどうしたら一刻も早く無事に早苗ちゃんを取り戻せるか、私
や主人だけじゃあその、何だかうまく対処ができないような気がしたから、確
か誘拐事件をあつかったことがあったわよね、刑事だったときに」
私は、「ああ」とだけ答えた。
忘れたのか、あの事件の犯人は子供を誘拐した直後に浴槽に沈めて窒息死さ
せ、その後身代金を要求していたんだ、しかしそんなことをここで言えるはず
もなかった。
「何か心当たりはないのか、誘拐犯というのは特に身代金目的の場合は必ず何
度も下見をするもんなんだ、ここ数週間の間に辺りをうろついたり、訪ねてき
たりしたような奴はいないか」
「わからないけど、思い出してみるわ」
「自分の周りにいる人で最近突然訪ねてきたり、金に困っている人はいないか
」
「わからないわ」
「恨みをかうようなことは最近無かったか」
美佐子はどれも真剣に答えたとは言えなかった。
しかしそれを責めるわけにはいかなかった、なぜなら私もそれらの質問はひ
とつのことを聞くためのぐずぐずとした前置きだということがわかっていたか
らだ。
「早苗の父親には知らせたのか」
私はたいして吸わないうちに短くなった煙草を灰皿で消し、直美と美佐子を
交互に見た。
「知らせてないわ」
「早苗の父親が誘拐犯人だと考えたことはないか、本来ならおまえが救けてほ
しいと頼むのなら早苗の父親のはずだ、それなのにここにいてこんな間抜けな
顔をしているのは私だ、これはどういうことだ、なぜ知らせ無いんだそいつに
、もしかしたらそいつが犯人じゃあないかと思っているからなのか、警察に知
らせたくないというのもそう思っているからなのか」
直美が何かをしゃべろうとして言葉を飲み込んだのがわかった。
美佐子の目から涙が二つこぼれ落ちた。
「早苗の父親はだれなんだ」
重苦しい沈黙、美佐子がいまさらそれに答えるはずもなかった。