#2974/3137 空中分解2
★タイトル (RMM ) 93/ 3/11 1: 3 ( 62)
「H muet」 椿 美枝子
★内容
口説き文句なんてない。ただ側に居た。それが理由で付き合った。それがたま
たま私だった。約束も未来も何もない。そんな人だった。だから私とアッシュと
の間には何もなかった。本当に、それだけだったのよ。
アッシュ、と彼女は呼んでいた。
それはその頃の彼女の日記の名。フランス語でアルファベの八番目を、アッシュ
と読む事を彼女は僕に教えてくれた。
アルファベのアッシュには二通り、H aspireとH muet、気音の
アッシュと無音のアッシュ、でも二つ共発音しない、どう違うのか、よく知らな
い。
日記帳のひとつひとつを、アルファベで名付けていたの。八冊目、アッシュに
書き始めた時に、アッシュに出会った。その日記帳の終わる頃、別れてしまって
いたけれど。
彼女がアッシュの話をすると、いつでも少しつらそうで、見た事もないアッシュ
を憎んだ。まだ想っているんだ。そう言おうとすると、慌てて笑ってみせる。大
丈夫よ。今ごろ現れたら、そうね、ひっぱたいちゃう。
大学の研究室で社会学の助手をする彼女がアッシュと会ったのは学会。著作が
あって、一流大学出身、幅広い人脈、彼女にないものを備えている。おまけに美
形、年上、独身、彼女の好きなものを備えている。僕が何度も聞かされるのはそ
んな話。
アッシュと付き合えば、私もアッシュの様になれると思った。文部技官なんて
名ばかりで先の見えない仕事をして人間関係を気に病んで研究に専念できない私
に比べて、アッシュの様に、一人で論文を書いている姿を、美しいと思った。アッ
シュの様になれると思った。信じていた。
その傷を避けたりなぞったり、それでも二人は何とか上手くやっていた。僕は
本当に怒ったりしなかった、彼女が居ればそれだけで幸せだったから。ただ、側
に居てくれるだけで。でもそれはいつか居なくなるという確信の裏返しだなんて、
気付かなかった。
アッシュが帰って来たの。
アッシュと別れた理由が渡仏と知らされたのは、彼女の成田からの電話だった。
彼女は待てなかったんだ、だから僕だったんだ。僕を諦めの上でなく、希望の上
に引き寄せた。一瞬の内に理解したけれど、一方的に切れた電話にもう何も言え
なかった。泣き言も恨み言も、何一つ。
彼女が渡仏したか、本を出したか、ひっぱたいたか知らないけれど、僕の前に
彼女は居なくなった。僕にはそれが全てだった。彼女が居ない事。僕には待つし
かなかった。
本屋の新刊コーナーを正視できる様になるには随分時間が経った。フランス語
を習い始める様になる迄にはもっと、時間が経った。
ある日、玄関にノックの音。彼女の姿。
出版して貰えなかったわ、私の論文。
今に自力で出せるさ。
その時まで応援してくれると嬉しいな。
そう言って笑って見せる彼女を僕は、今度こそ離さない。
僕は信じている。
二人の間で、いつかアッシュが本当に、H muetになる事を。
Fine
1993.3.5.20:15
1993.3.7.22:30