#2973/3137 空中分解2
★タイトル (RAD ) 93/ 3/11 0:55 (188)
「家族」 悠歩
★内容
「家族」
悠歩
「家に帰っても、くつろぐ事さえ出来ないのか」
貞雄は忌ま忌ましそうに呟く。
目の前に積まれた決算報告書の山。それはどれも思わしくは無いものばかりだった。
香川貞雄は小さな貿易会社を経営している。しかしここ最近、業績が急激に悪化し
て最悪の事態が目前に迫ろうとしていたのだ。
−−トントン−−
誰かが部屋のドアをノックする。が、決算報告書のことで頭が一杯の貞雄の耳には
届かない。
しばらくして、返事の無いことにしびれを切らしたのか、ノックの主がおそるおそ
るとドアを開ける。
「お父さん……」
ためらいがちの様子でドアの向こうから少女が貞雄の背に声を掛ける。
「美佐子か」
貞雄は少女に背中を向けたまま、聞いた。
「はい」
「お父さんは仕事中だから、部屋には入ってくるなと言ったはずだが」
「ご、ごめんなさい。お休みのあいさつをしようと思って……」
二人のやり取りは、親子と云うにはどこかよそよそしい。
「そんなものはいい。私は今、とても忙しいのだ。勝手に寝なさい」
「はい……。ごめんなさい」
美佐子は慌てて部屋の戸を閉めようとした。
「美佐子」
不意に貞雄は少女のほうを振り返った。
「は、はい」
「お休み」
貞雄は出来るかぎりの優しい笑みを浮かべて、美佐子に言った。
「あ……、はい。お休みなさい、お父さん」
父の笑みがよほど嬉しかったのだろう。美佐子の顔に光が射したように見えた。
「美佐子か」
貞雄は仕事の手を休め、娘のことに思いを馳せらす。美佐子は貞雄にとって、よう
やく得ることの出来た家族だ。
若い頃より貞雄は仕事一筋に生きて来た。幾度となく女性とも知り合い、結婚を求
められたこともある。しかし、貞雄は成功のために、結婚は邪魔なものと考えていた。
家族を持ち、守りに入ることで己の行動が制限される。それは仕事に対しマイナス
にはなれども、プラスになることは何もない。それが貞雄の考えだった。
ところが三ヶ月前、貞雄の元に弁護士からの電話があった。
それは十二年前に、貞雄と関係を持った女性の死を知らせるものだった。そして、
その女性には小学五年生になる娘がいることも。私生児である。
弁護士は言った。
「そのお嬢さんは香川さんの娘である可能性が高い」と。
貞雄が美佐子を引き取ったのは、死んだ女性への愛情でも、自分の娘に対しての愛
情でもなかった。ただ、人間としての責任感の上だけでの事だった。
死んだ女性には身寄りがなく、貞雄が美佐子を娘として認め、引き取らなければ施
設に入れられる。そうなったところで、貞雄には何も困ることなどない。しかし自分
の娘であると言う可能性がある以上は、放っても置けない。然るべき手続きを終えた
上で、貞雄は美佐子を娘として引き取った。
始めは責任上引き取っただけで、美佐子に対する愛情などは無かった。それは他の
使用人に対する感情と、なんら代わりのあるものではない。
しかし初めて接する、少女にそれが自分の血を引くものだと意識するようになり、
やがて貞雄の中に美佐子に対する愛情が生まれてきていた。
そんな矢先、会社が経営不審に陥り、ここしばらくは美佐子と語り合う時間を得ら
れないでいた。
「そうだ、一段落着いたら美佐子を遊園地に連れて行ってやろう」
ディズニーランドがいいだろうか? サンリオの何とかと言う所がいいだろうか?
待てよ、小学五年の女の子が遊園地で喜ぶものなのだろうか?
おおよそ、数ヶ月前の貞雄には無駄としか思えなかった考えに、胸をときめかす。
−−トゥルルルルルルル−−
そんな楽しい考えから、貞雄を現実に引き戻そうと電話が叫びを上げる。
「香川です」
それは会社の倒産を告げる電話だった。
四畳半一間の安アパート。これが今日から貞雄の住まいとなる。
会社も家も、すべての財産を借金の返済のために売り払った。それでもなお多額の
借金が残されている。
若い頃より眠る時間を惜しみ、遊ぶことを愚かと信じ築き上げてきたものを失って
しまった。以前の貞雄であれば、生きる気力を失ってしまったところであろう。しか
し貞雄には美佐子がいる。残念なことに、彼女に財産を残してやる事が出来なくなっ
てしまったが、なあに、必死で働けば美佐子の嫁入りまでには少しくらいの花嫁道具
は持たせてやれるだろう。
仕事はこれまで以上にきつく、収入も少なかった。だが、美佐子と接する時間が増
えた分、貞雄にとって社長であった頃より、毎日が充実していた。
美佐子も家の中のことをよくやってくれた。まだ遊びたい盛りだろうに、学校が終
わると夕餉の買い物に出かけ、貞雄が家に帰る頃には暖かい御飯が向かえてくれた。
それはかつて屋敷で雇っていた料理人の料理に比べ、実に質素なものではあったが、
この上なくうまいものだった。貞雄はこれまで家族を持つことを拒み続けていたこと
を後悔した。
「すまんな、美佐子。お前には苦労をかけてしまって」
「ううん、私は平気。お母さんと二人きりで暮らしていたときも、ずっとこうしてい
たから……あっ」
貞雄の顔が曇り、美佐子が口を噤む。
「お前の母さんには、悪いことをしたと思っている。もっと早く美佐子の存在を知っ
ていれば……いや、そうじゃない。私が人並の心を持ち合わせて、お前の母さんと結
婚していれば」
「お父さん……。お母さんは一度だって、お父さんのことを悪く言ったことがないの。
ううん、確かに苦労はしていたけど、きっとお父さんのこと愛していたのだと思う。
私だって、母さんが死んで、ひとりぼっちになって、弁護士の先生からお父さんがい
るって聞かされて、とっても嬉しかった……」
そう言って涙ぐむ美佐子を、貞雄はたまらなく愛しいと思った。少女の小さな体を
強く抱き締める。人を愛する、我が娘を愛すると云うことがこんなにも素晴らしいこ
となのか。貞雄は思った。
−−トントン−−
アパートの戸を誰かが叩いた。突然の訪問者によって親子の一時が中断される。
「どなた」
やや不機嫌に貞雄は戸を開けた。
「お久しぶりです、香川さん」
それは貞雄に美佐子が娘であることを告げた弁護士だった。
「えっ……い、今なんって言いました」
弁護士の言葉が理解できず、貞雄は聞き返した。
「ですからどうも美佐子さんは、あなたの娘さんではない可能性が出てきたのです」
弁護士の話はこうである。
美佐子の母親は十二年前、貞雄以外の男性とも関係を持っていた。このことについ
ては当時その男性から強く口止めされていたためか、美佐子にさえ知らされていない
ことである。
しかし美佐子の母親の死を知り、自分の娘である可能性が高い少女をその男性が引
き取ることを希望していると言う。
その男性は、成功していた頃の貞雄でも遥かに及ばない資産家だと言うことだった。
貞雄は目の前が真っ暗になるのを感じた。これまでの人生で築き上げてきた物を失っ
た貞雄にとって、美佐子は生きる理由の全てであった。いま美佐子を失うことは死に
等しいことであった。
だが貞雄にも一縷の希望が残されていた。弁護士が言うには美佐子が貞雄と、その
資産家とのどちらの娘か決定的な決め手がない。彼らとしても調査は続けるが、最終
的には美佐子の意志によって決めたい。そのことは相手方の男性も承知していると。
渋々ながら、貞雄は弁護士の意見を承知した。僅か三月といえど、共に生活したぶ
ん美佐子の心は我にありと貞雄は踏んだ。
しかし新たなる父親の登場は、美佐子に大きな衝撃を与えたようである。弁護士が
去った後も、美佐子はほとんど口を開こうとしない。
深夜。
狭い部屋である。父娘は布団を並べて眠る。寝付けない貞雄はふと美佐子を見遣る。
その寝顔には涙の跡が認められた。
貞雄に気取られる事のないよう、声を殺して泣いていたのだろう。
美佐子にして見れば二人の父の存在は、貞雄以上にショックであったに違いない。
十一年間、寄り添うようにして生きてきた母が二人の男と関係を持っていた事を、ど
う感じたのだろう。当時の貞雄は、己の抱いた女性にさえ一片の情を感じることは無
かった。であれば、その女性が他の男に愛を求めたとしても仕方の無いことである。
だがそれをいまの美佐子が分かってやれるだろうか。
貞雄は思った。当時の自分のしたことを思えば美佐子を引き取ることは当然であっ
た。しかしいまの貞雄は美佐子を幸せにしてやる力を持ち合わせていない。ならば、
美佐子はもう一人の父親と名乗る男に任せるべきなのではないだろうか。
翌朝、美佐子が学校に出るのを待ち、貞雄は弁護士に電話を掛けた。自ら美佐子の
父親となる権利を放棄することを告げるために。
そして学校が終わり、帰宅の途につく美佐子を速やかに引き取って欲しいと。再び
美佐子の顔を見ることは、せっかくの決心を鈍らせる。貞雄はそう判断したのだ。
断腸の思いで美佐子を手放して、数日が過ぎた。貞雄は気が狂ったように働いた。
もはや借金の返済など、どうでもいいことではあったがじっとしていると美佐子のこ
とが思い出され、辛かった。しかしくたくたになって部屋に帰れば、寝ても覚めても
あの愛らしい少女の顔が頭から消えることは無かった。
その日、貞雄は酒を飲んでいた。酒を飲むなど愚かなものの行為と信じ続けていた
貞雄も、今日は飲まずにはいられなかった。貞雄は改めて知らされていたのだ。美佐
子と過ごした三ヶ月が、それまでの三十数年間よりも遥かに充実していた素晴らしい
時間であったことを。
いまの貞雄には生きていることの意味を見出だすことが出来なかった。
−−コンコン−−
何者かが部屋の戸を叩く。しかし貞雄は無視を決め込んだ。
しばらく待った後、訪問者は部屋の主の許可を得ずに、部屋の戸を開けた。
「やっぱり鍵を掛けてない。不用心なんだから」
貞雄は我が目を、我が耳を疑った。その小鳥の囀りにも似た愛らしい声、聞き違う
ことなど有るものか!
戸の向こうには夜の帳が降りているにも関わらず、美佐子の体は光に包まれて見え
た。「天使の来訪」とはこのことか、貞雄は思った。
貞雄の前に降り立った天使は、優しい笑顔で彼の心に光を与えている。
「美佐子」
「お父さん」
数日振りに見る美佐子は、気品に溢れて感じられる。少女の体を包む衣服は、裕福
ではあっても、所詮成金だった貞雄には選んでやれるものではなかった。
ただ唖然としている貞雄の目の前で、美佐子は突然衣服を脱ぎ、下着姿となった。
「!」
少女とはいえ、女の体になりかけた肢体に貞雄は思わず目を反らす。そんな貞雄に
構わず、美佐子は押し入れの中から貞雄の買い与えた服を探し出し、それに身を包む。
「よかった。お父さん、私の服、取っておいてくれて。この服、窮屈でしかたなかっ
たんだ」
無造作に脱ぎ捨てられた服を指さし、美佐子が悪戯っぽく言う。
「なぜ帰ってきた」
我に帰った貞雄は、厳しい口調で美佐子を問いただした。
「だって、ここが私の家だもん。私のお父さんは、この世でたった一人きりだもん」
美佐子が悲しげな瞳に、大粒の涙を溢れさせながら訴える。その涙を見たとき、必
死に美佐子を冷たく突き放そうとしていた貞雄の心は、限界を越えた。
「美佐子!!」
貞雄は力一杯、少女の体を抱き締めた。
「お父さん……痛い」
そう言いながらも、美佐子はしっかりと父の胸にすがっていた。
「そうだ、お前は私の娘だ。誰にも渡すものか」
貞雄は泣いた。これまでの人生で流した涙の全てを合わせたものより、遥かに多い
涙を流して。
「私も、もうどこにも行きたくない。ずっと、ずっとお父さんといたい……」
そうだ美佐子は私の娘だ。他に父親のいるはずがない。しかし裁判になったら……
ええい、構うものか。そのときは美佐子を連れて逃げよう。美佐子がいればどんなと
ころでも暮らして行ける。
私はこれからの人生を、全て美佐子のために生きよう。
静かな夜に、父娘の抱擁はいつまでも続いた。
(終)