#2920/3137 空中分解2
★タイトル (RAD ) 93/ 2/26 22:23 (191)
「転がれ! ラッキースター」(2) 悠歩
★内容
五人は下駄箱で素早く靴を履き替える。修だけはまだ外である。
本当のところ、それ程慌てる必要はない。さっき鳴った鐘は、五時間目の開始五分
前の予令なのだ。しかし、すべての事において全力であたるのが彼らのポリシーであっ
た。
「あれ?」
靴を履き替えながら健治が妙な声を上げる。
「ん? どうしたの、健ちゃん」
隣で履き替えていた和彦が怪訝そうに、健治の方を見る。
「あ、何でもない。ちょっと。急にトイレ、行きたくなっちゃって」
「急げよ、すぐ五時間目、始まるぜ」
「うん、分かってる」
他のみんなが教室に向かったのを確認すると、健治はゆっくりと自分のクラスのと
反対側の下駄箱の方を覗き込もうとした。
「わっ!」
「ひゃあっ!!」
突然大声と共に現れた人影に驚き、健治は情けない声を上げてその場にへたり込ん
でしまった。
「フフフッ、やだぁ。高城くんたら」
健治を驚かせた影は、自分の行動に予想以上の驚きを見せた健治を見て、鈴の音を
転がすような声で笑う。
「真奈美ちゃん……、あ…えっと、南川さん」
ビー玉遊びを見ていて、いつの間にか姿を消した南川真奈美が、座り込んだ健治を
見ておかしそうに笑っている。
「フフッ……ごめんなさい……アハハ……そんなに驚くなんて……思っていなかった
から」
まだ笑いのおさまらない真奈美は、指で涙を拭く。
その仕種がたまらなく可愛らしい。健治は立ち上がることも忘れて、真奈美を見つ
めていた。
「どうしたの、高城くん? 私の顔に何か付いてる」
「うん、目と鼻と口」
「えっ」
真奈美は呆気にとられた目で、健治を見つめた。
ゆっくりと立ち上がりながら、健治は後悔した。せっかく真奈美と話をするチャン
スを得たのだから、何とかポイントを稼いでおこうとギャグを飛ばしたつもりだった
が、見事に失敗したようだ。
しばらくの沈黙。健治にはまるで、時間が凍り付いたように感じられた。
「目と鼻と口……」
呪文でも唱えるように、さっきの健治のギャグを呟く真奈美。
健治は、その場を走って逃げ出したい衝動に駆られる。
「目と鼻と口……。やだ……フフフッ……、高城くん……フフフッ」
真奈美が笑い出して、健治はほっとした。それと同時に、ある期待が胸のなかで広
がって行った。
『ひょっとして、これは……』
しかしそれを確認するには、真奈美の笑いがおさまるまで待たなければならなかっ
た。
「み…南川さんも、ビー玉遊びに興味があるの?」
「えっ、私? 私は別に」
「そう。だって南川さん、いつも僕たちのビー玉を見てたから、仲間に入りたいのか
なって思って……」
「あの……私、ビー玉を見てたんじゃないの。本当はね」
ここまで聞いて、健治の心臓は期待と緊張のため、張りさけるのではないかと思え
るほど高鳴っていた。
「あ…あの、これ」
そう言って真奈美は小さな包みを差し出した。
「こ、これは?」
「チョコレート」
「あ!」
今日は2月14日、聖バレンタインディ。母親以外からチョコレートをもらったこ
とない健治は、そんなものはすっかりと忘れていた。
「あ、あり、あり」
気持ちが舞い上がってしまい、「ありがとう」の一言がうまく言えない。まさかク
ラスのヒロインであり、健治も密かに好意を抱いていた真奈美が、向こうからこのよ
うに告白して来てくれるなんて。
これもラッキースターの威力かも知れない。健治は真剣にそう思った。
「あれーっ、健ちゃん。それに南川さんまで。何してんの? ああっ、それ、もしか
してチョコレート?」
すっとんきょうな声か、健治の思考を停止させた。修だ。今頃になってようやく、
下駄箱に着いたのだ。
このまま真奈美のチョコレートを受け取ってしまえば、たちまちクラス中の噂とな
る事は必至だった。
もちろん健治は真奈美のことが好きだった。真奈美も健治に対して好意を持ってい
る事も、今分かった。文句のない、両想いだ。何も問題はない。
しかし、健治くらいの男の子の間には、男と女が仲良くしている所を人に見られる
事が格好悪いと言う考えがあった。
また、たちの悪い友達がそう言ったことを、しつこくからかうことも知っている。
健治自身も友達をからかった覚えがある。
「いらないよ、こんなもん」
咄嗟に健治は、その気持ちと逆の事を言って、真奈美の手にしたチョコレートの包
みを払いのけてしまった。
「あっ」
その拍子に、健治の持っていた小さな袋に入ったビー玉も飛び出し、辺り一面に大
きな音を立てて散らばって行く。
「高城くん………、ひどい」
大きな目に一杯の涙をためた真奈美は、そう一言だけ言ってその場を走り去ってし
まった。
「け、健ちゃん。南川さん、泣いてたよ。いいの」
修が心配そうに声を掛けてくる。
「別に。かんけーないよ」
散らばったビー玉を広い集めながら、そう答えた健治だったが内心では「お前のせ
いだ」と、修のことを恨んでいた。
一通り、目に付くビー玉を広い集めた後も、健治はしゃがみ込んだまま立ち上がろ
うとしない。そして五時間目の開始を告げる鐘が鳴り響いた。
「け、健ちゃん、五時間目が始まっちゃうよ」
修が健治をせかす。
「ない……。見つからないんだよ。ラッキースターが……ラッキースターが、なくなっ
ちゃった」
健治は真奈美とラッキースターと、二つの大事なものを失った。
§秋山久
トゥルルルルル トゥルルルルル
電話のベルが鳴り響く。
「はい、美浜東小学校でございます。はい秋山ですか? ええ、秋山はうちの教諭で
すが……。えっ、はい、はい、わかりました。はい、ありがとうございます」
電話を受けている百合香の口から、自分の名前が出てきたのを耳にして、秋山久は
テストの採点を行っていた手を止め顔を上げた。
「秋山先生」
受話器を置き、百合香が真剣な表情でが久を見つめる。
久は百合香の様子に、何か不吉なものを感じ取った。
「お母さまが倒れられて、美浜中央病院に運ばれたそうです」
「!」
思わず立ち上がった拍子に、机の上の採点途中のテストが床に散乱する。
「あっ……」
久は慌ててテストを拾い集める。すぐに百合香が駆け寄り、それを手伝った。
「秋山先生、後は私がやりますから早く病院へ行って下さい」
「あ…いや、しかし……このテストは今日中に採点しておかないと……」
すぐさま母の元に飛んで行きたい気持ちを押さえ、久は言った。個人的な事で、仕
事に支障を来たす訳にはいかない。久のそう言った責任感の強さが、他の教師達が彼
に対して持つ信頼の深さにもつながっていた。
「いいから、行きなさい。岬先生、すみませんが秋山先生のテストの採点を、引き継
いでやって下さい。私もお手伝い致しますから」
教頭の言葉に、百合香はしっかりと頷いた。
「そう言う事ですから、さあ秋山先生」
「は、はい。申し訳ありません。教頭先生、岬先生」
久は教頭と百合香に一礼をすると、取るものも取り合えず職員室を後にした。
長い学校の廊下を久は急ぎ足で歩いた。職員室から教師専用の玄関までの間にはあ
まり生徒はいない。だが教師である久が走る訳には行かない。しかし気持ちの急く久
の足は、走っているのとほとんど変わらない早さで動く。
「うわっ」
何かを踏み付けた久はバランスを崩して転びそうになる。間一髪のところで体勢を
立て直し、事無きを得る。
「っと、危ないなあ」
一人呟きながら、足もとを見ると小さなビー玉が一つ転がっていた。これが久を危
うく転ばせようとした犯人である。
「生徒の落とし物か?」
久はビー玉を拾い上げると、それを落とし物として職員室に届けようかと考えた。
しかし思い直してビー玉をスーツのポケットに納め、先を急いだ。
ビー玉一つくらいでは、落とした生徒も、それ程慌ててはいないだろう。後で届け
ても構わない。それよりも今は病院へ急がなければ。
久は学校を出るとタクシーを拾い、母の運ばれた病院へと走らせた。
「久さん」
「かなえ」
病院に着いた久を婚約者のかなえが向かえた。かなえとはこの春、結婚の予定であ
る。
「母さんは?」
久の問い掛けに、かなえは黙って視線を手術室のドアに送った。
「手術中」のランプが灯っている。
「フーッ」
大きく意気を一つ付きながら、久は手術室の正面の長椅子に腰を降ろした。
かなえもそれにならった。
「久さん……」
かなえの白い手が久の膝に乗せられる。しかし久はまるでそれに気付かないように
頭を抱え込んでいた。
二人は無言のまま、手術の終わるのを待った。それは重苦しく、無限に感じられる
時間だった。
やがて手術室のランプが消え、ドアが開かれた。
「母さん!」
手術室から運び出されてきた母の姿を認め、久は慌て駆け寄る。しかし看護婦達は
足を止める事なく、エレベータに向かう。
「あっ、す、すいません」
「秋山さんの家族の方ですね」
看護婦達を止めようとした久を、後ろから呼び止める声があった。
振り返るとそこにはたった今、手術室から出てきたと思われる医師が立っている。
「は、はい。秋山芳子の長男で久と申します。こちらは……」
かなえを紹介しようとして、初めて彼女の姿が消えていることに気付いた。
「あなたと一緒におられた女性なら、お母さんについて行かれましたが」
「そうですか……。彼女が私の婚約者の、皆川かなえです」
「私は当医院の外科医の、黒部です」
とりあえず形だけの自己紹介を済ませ、久は一番の関心事を口にする。
「それで、母の容体は?」
思い切って口にはしたものの、答えを聞きたくないとも思った。早く母の容体を知
りたいと思う気持ちと、絶望的な事ならば知りたくないと言う二つの気持ちが複雑に
渦巻く。
「お母さんの容体についてですが……」
黒部医師の口が開かれるのと同時に、久は唾を飲み込んだ。裁判官の読み上げる判
決文を聞く、被告人の気持ちが分かるような気がする。
「芳しくありません。喉に詰まった嘔吐物は処理しましたが、相変わらずの意識不明
です」
「あの、母はいったい?」
「クモ膜下出血です。こんな状態になる前に前兆があった筈なのですが、倒れる前に
医者に係っていれば良かったんですが……。恐らく、今夜が山でしょう」
それだけ言い終えると、黒部医師は久に一礼をして立ち去った。
言われてみればここ数日、頭痛のするような事を母が言っていた様にも思う。だが、
久の母はもともと我慢強い性格のせいか、それ程辛そうな様子も見せていなかった。
そのため久は、そんな事は忘れていたのだ。
久は自分の無神経さを呪った。