#2921/3137 空中分解2
★タイトル (RAD ) 93/ 2/26 22:26 (191)
「転がれ! ラッキースター」(3) 悠歩
★内容
時計は午前二時を過ぎていた。
ベッドで横たわる母を、久はただ祈る思いで見つめていた。
かなえも母について病室に泊まると行ってくれたのだが、久が家に帰した。その後
一度、差し入れに握り飯を持って来てくれたのだが、まだ一口も手を付けていない。
たまたま個室の病室しか開いておらず、時折看護婦が様子を見に来る他は、母と久
の二人きりである。
こうしてベッドで横たわる母を一人で見つめていると、幼い頃の思い出ばかりであっ
た。早くして父を亡くし、他に兄弟の無い久にとって思い出の全てが母に関わるもの
ばかりである。それは既に亡くなった人の面影を、偲ぶようなものになっていた。「
いけない。何を考えているんだ、俺は。大丈夫、母さんは絶対に助かる」
頭を強く振る久。じっとしているだけでは気持ちが、どんどんと弱気になって行く。
そう考えた久は、一服付けて気分転換をしようと病室を出た。
幸い喫煙所は病室のすぐ近くにあった。煙草の一本くらいなら、たいした時間では
ないし、万一母の容体が急変してもここならすぐ分かるだろう。
ワイシャツの胸ポケットから煙草を一本取り出して、口にくわえる。続いてライター
を出そうとするが見つからない。
「あれ、スーツのほうか?」
スーツのポケットに手を入れると、ライターはすぐに見つかった。
「ん? 何だ、これは」
ポケットに入れられた久の手は、ライターの他に、何か丸くて小さな物の存在を確
認した。
ポケットから引き出されたその手に握られていたのは緑色の使い捨てライターと、
水色の小さなビー玉だった。
「ああ、学校の廊下で拾ったやつだ。すっかり忘れてた」
しかし、今の久にとってそれはたいした興味を引くものではない。煙草に火を点す
と、ライターと一緒に、再びスーツのポケットへと戻そうとした。
「ビー玉?」
ポケットに手を入れたまま、久の動きが停止する。何故かは分からないが、突然な
んでも無い小さなビー玉に、久の興味の全てが傾いて行く。
ポケットの中で、ライターだけを放すとその手はビー玉を久の目の前へと運ぶ。
「へーっ、きれいなビー玉だなあ」
何の変哲もない、ごくありふれたビー玉だとばかり思っていたが、その中央には製
造過程に於いて何か異物が混ざり込んだのだろう。小さな気泡に混じり、星の形をし
たものが見られる。
その星を見つめていると、久の心は不思議と和んだ。それはまるで、母の背で眠る
幼な子のような安らぎを久に与える。
しばらくビー玉に見取れているうちに、口にくわえた煙草が燃え付き、灰が久のズ
ボンへと落ちた。
ふと我に返り、膝の灰を払う。
「大丈夫、母さんは助かる」
それは希望ではない。確信であった。
『秋山芳子』と書かれたプレートの前で、若い看護婦は足を止めた。
この病室の患者は今夜が山であるが、意識を取り戻す可能性は極めて低い、そう聞
いていた。こうやって、一定時間ごとに様子を見ると言うのも、患者がいつ息を引き
取るか見極めるためである。
病院で長く務める医師や、先輩の看護婦達は人の死を日常茶飯事の事として事務的
に受け止めている。しかし、看護婦としての経験の浅い彼女にはどうしても、人の死
を当たり前の事として見ることができない。
それが出来なければ、病院などという場所ではやっていけない。事実、彼女は仕事
のハードさに加え、精神的な疲労がかなり蓄積されていた。
今夜も人の死を看取る事になる。そう考えると憂鬱になった。
彼女が病室のドアに手を掛けようとすると、中から低い男の声が聞こえた。
『そう、その時母さんったら、すっかり呆れた顔をしてさ……』
その声を聞いて、彼女は一段と気が滅入った。
患者の息子が付き添っているのは知っている。前回、見回りに来たときに顔も見た。
感じのいい好青年だ。
意識の無い患者に、その親族の者が楽しかった頃の思い出を語り掛ける。嫌になる
ほど見てきた場面だ。まだ若く、人の死をその家族の者同様に辛く感じる、優しい心
を持つ看護婦の胸は痛んだ。
しかし、次に若い看護婦が耳にしたのは、彼女が全く予想していなかった声だった。
『だってお前、あんなに傷だらけになりながら、平然と言うんだもの』
男の声よりも更に低く、優しい声。それは紛れも無く、女性のものである。
この病室にいる者は、彼女の知るかぎり二人きり。病院の玄関は閉められ、まして
やこの時間、後から別の誰かが病室に入って行ったとは考えにくい。
だとすれば……。
看護婦は慌てるように、病室のドアを開けた。
チンニュウシャ
突然の闖入者に驚いたような二つの視線が注がれる。
ベッドの横に付き添う、患者の息子・久とベッドの上の患者・芳子。
「あら、こんな時間まで大変ですね、看護婦さん。ご苦労さまです」
つい三十分前に見にきた時には、死を目前に向かえた重病人であった筈の芳子が、
優しい笑顔で微笑む。
看護婦は久と芳子の顔を茫然と見つめ、無言で静かに病室を後にした。
「先生! 先生!」
病室を出た看護婦は、ここが深夜の病院だと言う事も忘れ、駆け出していた。
§平野マキ
「特に悪いところはないようですが……。だいぶお疲れのようですね、一応お薬を出
しておきますが、このままの状態が続けば確実に健康に支障をきたしますよ」
医師の言葉に男は何も答えず、無言で頭を下げて診察室をあとにした。
受付で処方箋を受け取り、男は俯き加減でのろのろと薬局へと向かう。
目の下のクマはここ数週間、ろくな睡眠を取っていないことを示している。身に着
けた作業着は油にまみれている。
「お大事に」
男の背中から、薬局の女性の声が掛かる。
「お大事にか……」
受け取ったばかりの薬を見つめ、男は呟く。
「馬鹿だな、俺も。いまさら薬もないだろうに」
男が病院を出ようとしたとき、同じく病院から久が飛び出してきた。
「いけねぇ、学校に遅れちまう」
そう言いながら走ってきた久の目は、寝不足のため赤くなっていたが、その表情は
晴れ晴れとしていた。
男の前で走りながら久は、手に持っていたスーツに手を通した。その時、スーツの
ポケットから何かが落ちた。
「あ、君」
後ろにいた男が声を掛けるが、久は気付かずに行ってしまった。
久が行ってしまったのを見送り、男は落とし物を拾い上げる。
「何だ、ビー玉じゃないか」
男はそれが、何でもないちっぽけなビー玉一つであることを知り、捨ててしまおう
と考えた。
「こんな物じゃ、落とし主も慌てはしないだろうし、ひょっとしたら落としたこと自
体、永久に気が付かないかも知れない」
近くにジュースの販売機があり、その横に空き缶入れが設置されている。男はビー
玉をそこに入れようとした。
「いや、待てよ。こんな物でもマキが、喜ぶかも……」
ビー玉を捨てることを思い止まり、男はそれを薄汚れた作業着のポケットへと納め
た。その時の男の顔は、どこか悲しげだった。
「だだいま」
男が家に帰った時、陽はすっかりと暮れていた。
コウバ
『平野電気部品』と書かれた小さな工場、そのすぐ隣りに男−−平野秀明の自宅が
あった。
「おかえりなさい、あなた」
「パパ、おかえりなさい」
妻と今年、幼稚園に入る予定の娘が秀明を出迎える。
「どうでした?」
妻の問い掛けに秀明は首を横に振った。
「そうですか」
悲しげに妻はそう言って、娘のマキに視線を落とす。
そんな、大人達の心の中の事など分からないマキは秀明のズボンを掴み、だっこを
求める。
「こら、マキ。もうすぐ幼稚園なのに甘えんぼだな、お前は」
努めて明るく、秀明は娘を抱き上げた。嬉しそうに、にーっと笑うマキ。
「よし、マキ。いいものをあげよう」
秀明はビー玉を取り出し、マキの小さな手に握らせた。
「わーっ、きれい。なあに、これ」
光を反射して輝くビー玉を嬉しそうに電灯に向けて、尋ねるマキ。頭の両サイドで
束ねた髪が揺れ、秀明の顔をなでる。
「ビー玉って言うんだよ。気に入ったかい? マキ」
「うん!」
マキはビー玉の中に輝く星を見つけ、無心にそれを見つめ続けた。
「今日も心当たりを数件回ってみたが、駄目だった」
熱い茶を一口すすり、秀明は重い口を開いた。
ふすま一枚隔てたとなりの部屋では、マキがビー玉を握りしめたまま、小さな寝息
を立てている。
「従業員達に、退職金の一部くらいは支払ってやりたかったが……」
『平野電気部品』はもともと、秀明の父の始めたライターの部品を作る小さな町工
場であった。やがて、使い捨てライターの普及に伴い需要が落ち込むと、電灯の生産
に切り替えた。
秀明の代になり、CDプレーヤーの部品などを手掛けるようになって一時は従業員
が二十名を越えていた。
それがバブルの崩壊と共に、『平野電気部品』のような小さな下請けに対してのメー
カーからの受注が減り、今では皆無となっていた。
多額の負債を抱えた秀明は、従業員達に頭を下げて退社してもらい、金策に走って
集めた金を未払い分の給料に充てた。
その後も彼らに対する退職金や、工場立て直しのための金策に走り続けたが、今や
快く金を貸してくれる者などもない。これで工場は明日、人手に渡り、秀明の元には
多額の借金だけが残される。
ふと、秀明の目に部屋の隅にかけられた小さなスモックが入る。
それはこの春、幼稚園に入園するマキのためのものだった。
「せめてマキにはあれを着せて、幼稚園に行かせてやりたかったな」
秀明が何気なく呟くと、それまで無言でいた妻がついに耐え切れなくなり、涙を流
し始める。
「こうなったら、仕方無いだろう、しのぶ」
妻に向かって秀明は静かに言った。
「マキちゃん、起きなさい。マキちゃん」
しのぶに揺り起こされて、マキは眠い目をこすった。
「どうしたの、ママ。おそとはまだ、まっくらだよ」
「マキちゃん、ミッキーマウスに会いに行くわよ」
「えっ、ほんと!」
しのぶの言葉に驚いて、マキは飛び起きた。眠気なんてもう、すっかりと無くなっ
てしまった。
「本当よ。パパとママとマキちゃんで、一緒にディズニーランドに行きましょう」
お母さんの言葉を確認して、マキは一目散に洗面所に向かう。トイレを済まし、顔
を洗って歯をみがく。
いつもはお母さんに言われて、いやいややっていることを今日は素早く、一人でこ
なす。
「あら、いい子ね、マキちゃん。いつもそうなら、もっといいのにね」
「ママ、きがえ、きがえ」
「はいはい」
急かされて、しのぶはマキを真新しい服に着替えさせた。
「わーっ、あたらしい、おようふくだ」
新しい洋服に着替えたマキは、もうそれだけで嬉しくてたまらなくなり、部屋中を
駆け回った。
「だめよ、マキちゃん。こんな時間に騒いだら、近所の人に迷惑よ」
言葉ではマキを注意しながらもしのぶは、新しい洋服にはしゃぐ娘の姿に目頭が熱
くなった。
工場が経営不振に陥ってから、マキのために服を買ってやることが出来なかった。
自分の娘のために服を買うお金があれば、一円でも多く、遅れている従業員の給料へ
と回していた。そのため、マキはこのところずっと同じ服を着ていて、その事で近所
の子ども達にいじめられて泣いて帰ることも珍しくなかった。
「さ、マキちゃん。お外でパパが待ってるわ。急ぎましょ」