#2911/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/24 8:32 (179)
Tの殺人 6 永山
★内容
買物から帰って、玉美はふと窓の外を見た。買物のときから気になっていた
のだが、雨がどうやら降り始めたようだ。
「洗濯!」
急に思い出し、彼女はベランダに出た。灰色のコンクリートに雨粒が落ち、
黒っぽくなりつつある。
とにかく、洗濯物を外し、部屋に放り込む。そして、取り落とした物がない
か、見渡す。−−隣のベランダに目が行った。
(松谷さんとこ、いないのかしら。洗濯物、出しっ放し)
世話になったことも頭にあっただろう、玉美は廊下に出、隣の呼び鈴を押し
た。廊下にも、徐々に雨が吹き込みつつある。
「松谷さん? 雨ですけど、洗濯物……」
呼びかけてみたが、反応がない。眠っているのかもと思い、玉美はドアに手
をやった。
簡単に開いた。
「松谷さん? 平沼ですけど、洗濯物……」
やはり返事はない。いつも松谷が履いていた靴も、玄関に見あたらない。
(外出してるのよ。……テレビで見たけど、洗濯物を取り込んで上げる場合、
勝手に入ってもいいのよね)
自分に言い聞かせるように、心の中でつぶやきながら、彼女は中に入らせて
もらった。
(意外と整頓されてるのね。あら?)
興味本意もあって、つい目を走らせてしまう玉美。テレビの上に写真立てが
あるのを見つけた。写真には、少し若い松谷恭一と色白の若い女性、そして二
人にはさまれるようにして小学生低学年ぐらいの女児が写っていた。
(ずっと独身なのかと思ってたら、奥さんに、こんな可愛い女の子までいたの
ね。と、いけない。洗濯物洗濯物)
ベランダに向かい、急いで、しかし他人の物なので、気を使いながら取り入
れる。
(たたむまでしなくていいわね。それにしても男物ばかり。奥さんに、逃げら
れたのかしら)
勝手な想像を巡らしつつも早く出ようとした玉美だったが、また違う方向に
目が行ってしまった。視線の先には、立派な仏壇があった。
「あ」
思わず、声が出た。
(奥さんにお子さん、どちらも……)
仏壇には、笑みを絶やさない二人の写真があった。
相原病院の婦長・久島多恵は交代時間がきたので、緊張を解いていた。救急
指定になっている訳でもないから、これで時間は取れる。でも、若い看護婦が
多いこともあって、年長者の久島は頼りにされることが多い。だから、自由に
時間が使えないこともあるのだが、今日は無理にでも空けた。ある雑誌の記者
と名乗る男から、話を聞きたいという申し込みがあったのだ。
病院の門の外に来てくれと言われていたので、すぐに行ってみた。
「あ、待たせなくてよかった。久島さんですね?」
白い乗用車が止まっていた。ドアが開き、少し疲れた様子の男性が顔を見せ
た。
「連絡差し上げた金田です。どうぞ」
「あの、どちらへ?」
「いや、病院のことを伺うのに、病院の中の食堂や応接室ってのも気安くない
でしょう。喫茶店みたいな場所がいいかと思いましたから。お腹がお空きでし
たら、レストランでもいいですよ。どこか行き着けの店でも?」
「いえ、今日は七時には家に帰らないと。だから、どこか喫茶店で。お任せし
ます」
金田はうなずくと、車を発進させた。
十分もしない内に、橋のすぐ近くの喫茶店に車を入れた。川が臨めるのが売
りらしい。しかし、もうそろそろ暗くなる時間帯であった。
「お聞きしたいのは、相原病院の内幕に関することなんですが」
注文をすませると、早速、雑誌記者は質問をしてきた。
「お電話いただいたときも申しました通り、ご期待に添えそうには」
「いえいえ、オフレコ−−外に出してはいけない話ならば、記事にはしません。
私は、全体を知ってから、公にできる部分だけで記事を作るタイプですからね。
漏らしていけないと言われる点は、絶対に守ります」
「……信用しますわ。何から話せばよいんでしょう?」
「言うまでもないことですが、これからのインタビュー全ては、例の殺人事件
に絡んでいるんじゃないかという観点で行います。そこを心に留めておいて下
さい」
「はい」
「まず、婦長ご自身は、相原孝助院長が殺される理由に思い当たりませんか?」
「警察にも何度か聞かれましたけど、ありませんわ」
「警察に答える気持ちはなくして欲しいですな。正直なとこをお願いします」
コーヒーとレモンティが運ばれ、テーブルに置かれた。
「正直にと言われても……」
「再度、言います。記事にしていけない部分は記事にしません。それに、誰が
証言したのかも、名前は出しません」
「……これが動機となるかどうか、分からないんですが」
紅茶に砂糖を落としながら、婦長は口を開いた。
「前の院長は、医療技術的なことには厳しい方で、そりゃあ、しっかりした腕
もお考えもお持ちでした。でも、経営の方はできるだけ切り詰めようという考
えでしたから。いえ、医療器具なんかはしっかりした物を買い入れてたんです
が」
「はっきりとおっしゃって下さい」
「使用後の器具を、その……」
「言いにくいですか? 私が言いましょうか? 廃棄物処理を怠っていたんじ
ゃありませんか、相原氏は?」
記者がズバリと言ったので、久島は狼狽してしまった。
「あ、あの、あの……。どうして、それを知って」
「聞いているのは私です。特に問題なのは、注射器を何の消毒もせず、ただの
ゴミ同様に、扱っていたことだ。正式には、そのような廃棄物の処理は、認可
を受けた施設で内部処理するなり、外部に委託するなりしなくてはならないの
に、それを怠ったんだ、相原は。経営の切り詰めという名目で」
「……」
婦長はカップを手に取ったが、その手が震えているのに気付き、口まで運ぶ
ことができなくなった。
「さあて、次に確認したいことは、あなたの立場だ。注射器・注射針の処理に
ついて、あなたは関わっていましたか?」
「……いえ、あの、あれは、院長から言われて、仕方なしに」
「あなたは婦長になる前、あるいはなってからもそうかもしれないが、院内の
廃棄物を集め、単なるゴミ袋に入れて、病院の隅に放置していますよね? 調
べたんだ」
「やったことはやりましたが、命じられたからよ!」
「おっと、声が大きいですよ。ここで公にしてもつまらない。で、続きですが、
あなた、院長に取り立ててもらってますね、この件で」
「くだらないことだわよ」
「ま、それくらい、どこででも誰でもやってるかもしれない。えっと、それか
ら、針のせいで、誰かが危険にさらされることを考えましたか?」
「……」
「黙秘されちゃ、かなわないな。ま、いいでしょう。どうも時間を取らせまし
たね。早速、送りましょう。ああ、代金は取材費で落とせますから、ご安心を」
プラスチックの札を取ると、記者は先に立ち上がり、婦長を促すようにした。
「記事にするのかしら」
車の中で、久島婦長は相手に聞いた。
「うん? あなたの答次第でしょうね。いずれ、警察の手が入りますよ。殺人
事件じゃなく、不法投棄の疑いでね。あなたも、下手をすると職を失うかもし
れない。だったら、ここでこずかい稼ぎしてもいいんじゃないですか」
「……名前を出さないなら、構わないけど。ただ、もう少し待ってくれないか
しら」
「……こちらとしては、待てないんですよ」
記者はそう言うと、車をどこかの空き地に乗り入れた。
「な、何? どうして止めたの」
「私はね、雑誌者の記者なんかじゃないんです」
男の声は、ぞっとするような響きがあった。先ほどまでとは、別人のようだ。
「何を言ってるの、金田さん。あなた、名刺くれたじゃない」
「あんな物、いくらでも作れますよ。本当はね、本庄社長でやめとくつもりだ
った。でも、あそこまで無理をしたのに、警察はまだ私を捕まえられない」
「何のことよ! 誰、本庄社長って?」
「不勉強ですね。私の本当の名前はね、松谷恭一と言うんですよ。覚え、あり
ませんか?」
「しっ、知らないわ。知らない!」
恐さで、叫び声を上げた。久島はそのつもりだったが、実際は小さな声しか
出ていなかった。
金田から松谷となった男の手には、いつの間にか、ロープが握られていた。
洗濯用のビニールロープらしい。それがゆっくりと近付いて来る。
「覚えてないんですか。あれだけ、顔を会わせたのに。残念だな」
「え?」
「やっぱり、こちらにはあまり時間がない。殺すこととしましょう」
頭を越えて、ロープがふわりと久島の首に巻き付いた。あっと思う間もなく、
それが生き物となったように、きつく締め付けてきた……。
「だめだ。出ない」
克は、受話器を戻した。平沼玉美に電話をしたのだが、相手が出ないのだ。
「どうするの、克兄さん?」
妹の康子が、心配そうに聞き返してきた。
「直接、話を聞いて来る。もし、向こうから電話があったら、そっちに行った
って伝えてくれるか?」
そう言う克に対し、康子は首を縦に振った。
「警察から電話があったら、どうしよう」
「そんときは、適当に受け答えしててくれ」
克は電話長を繰った。タクシーを呼ぶためである。
玉美は、松谷恭一の部屋で思わぬ物を発見し、それに引き込まれていた。
(あの人が、犯人だった……?)
彼女の心中は、驚愕で震えていた。その手に持つ、日記めいた物も震えてい
た。
(一造さんを殺した理由が、こんなことだったなんて……。松谷さんの奥さん
の死に関わっていたなんて)
理由を知った瞬間、玉美は復讐心は捨てた。素直に、警察に届けるだけにし
ようと、心に決めた。
不意に、騒音が響き渡った。
(な、何よ?!)
びくっとする玉美。冷静になると、音は呼び鈴のだと分かる。
(帰って来たのかしら? ううん、自分の家に入るのに、呼び鈴だなんて……。
でも、電気がついてるのを怪しんだのかも……)
恐る恐る立ち上がり、彼女は玄関のドアに張り付くようにした。覗き窓とい
う物がないため、扉一枚向こう側にいる人が誰なのか、確かめようがない。
(どうしよう)
迷っていると、扉が叩かれた。思わず、飛び退く。
「松岡さん? いないんですか?」
どこかで聞いた声だった。
「相原さん?」
そう言いながら、彼女はゆっくりとノブを回し、ドアを開けた。
「やっぱり、相原……」
「どうして玉美さんが? 部屋、隣でしょう? 松岡って人はどこなんです?」
慌てているらしい相原克は、玉美の言葉を全部聞く間もなく、室内をのぞき
込むようにする。
「松岡を調べてみたいんだ。ペンダントに関係してるかもしれない」
「待ってよ。もう、調べなくていいのよ。松岡さんが犯人だって分かったから」
平沼玉美は、自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
−続く