#2903/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 93/ 2/23 4:32 (200)
死者の森(10) 青木無常
★内容
傭兵は悠々とした足どりで歩を進めながら、その口もとに微笑さえうかべている。
地獄の炎をさえ御する怪蛇が、ずるずると身をよじらせながら後退していく。そ
のさまはまるで、おびえているかのようだった。
しゃあっ!
喉をならすや、よじった身を一気にのばして、ダルガを強襲する。
そのひらかれた顎に、閃光が吸いこまれていった。
ひらき切った口が根もとから切り裂かれ――凶刃はそのまま、胴まで一気に両断
した。
べた、べた、と不快な音をたてて地におちたふたつの胴が、狂おしげにのたうち
まわる。爬虫類の双眼が、うらめしげにダルガをにらみすえた。
凝視をうけて、ダルガは――にやりと、口もとを歪める。
のたうつ蛇の眼に、恐怖が首をもたげた。
同時だった。
紅蓮の炎が、ひき裂かれた蛇の巨体をおおいつくしたのは。
ダルガは、ふりむいた。
魔道士を。
そして魔道士は、そのはてしなく深い黒瞳を見たとき、悟ったのである。
己が眼前に立ちふさがる者が、ひとの姿を借りた、強大にして神聖なる存在その
ものであることに。
そのしわがれた醜貌に、絶望の色が刻まれた。
一瞬だけ。
老魔道士が、断ち切るような動作でその腕を左右にうちふるや――まばゆい光の
球が、神殿を白く染めた。
眩惑が、三人を急襲した。
そして――その光は物理的な圧力をともなって、吹き飛ばした。――ダルガとリ
シのみを。
それもまた、一瞬のできごとにすぎなかった。
が、魔道士にはその一瞬で充分だったらしい。
ダルガとリシは、ともに見た。
蝋燭に赤々と照らしだされた祭壇のわきに、魔道士が両手をさしあげてたたずみ、
天にむかって朗々と呪文を捧げる光景を。
そして、その祭壇に、ぐったりと力なく横たわる、ティアンの姿を。
「不覚だな、リシ!」
叱責、というよりは自嘲の響きをともなった叫びをあげるがはやいか、ダルガは
祭壇にむけて飛びだした。
そのダルガにむかって――八方から、空を切り裂いて稲妻が収斂した。
閃光の中心に影となったダルガをうちすえ、電光は四散する。
リシは目をむいた。苦鳴を聞いたような気がした。
どっと地に伏すダルガに、外傷は見あたらない。が、衝撃にやられたか、傭兵は
苦痛にぶるぶると全身をふるわせながらのたうちまわる。
「守護神が去ったのか……? いや」すうと、その双眸が細められる。そして再
度、それは見ひらかれはじめた。驚愕と――そして恐怖に。「魔神か……! 魔神
が、すでにこの地下世界に降臨しつつあるからなのか……!」
ぐう、とうめきながら、ダルガは懸命に半身をおこす。そのままの姿勢で、いざ
りはじめた。
リシは、足もとに震動を感じた。
最初は小刻みに、だが、それは徐々に、徐々に、激しさをましてくる。
魔道士の顔が、ひき歪んでいた。
それは苦しみにもだえているとも、こらえきれぬ笑いにうちふるえているともと
れる、奇妙な表情であった。
そして、リシは感じていた。戦慄とともに。
いまだかつて、話にさえ聞いたことのない、悪夢のような凄絶な邪気――それが、
この世界にむけてぐんぐん引きよせられてくるのを。
「手遅れか……」
ため息のごとくつぶやき――その両の手で、印を結んだ。
「それとも……レンドの、魔神封じの呪文、通ずるか……!」
魔道士が紡ぎだす呪句の底をぬうようにして、低く、すんだ声音が闇にしみ透る。
巫士の首にかかった、紫の珠の連なる首飾りが、あわい光を放ちはじめた。
その光がゆっくりと、闇をみたしていく。
魔道士は苦しげに喉をふるわせた。紡ぎだされる呪文の音調に、いよいよ鬼気が
こもる。
「ぐっ!」
おしころした苦鳴が、ティアンの喉から絞りだされた。
その小柄で華奢なからだが、ぐいとくの字にえびぞった。
そして、開かれた口から、がぼっと音をたてて――闇が吐きだされた。
拳大の闇だ。が――その闇はティアンの頭上にとどまったまま、魔道士の呪文の
昂まりにあわせるようにして巨大化しはじめたのである。
そして、まるで膨れあがっていく闇に生気を吸いとられていくかのように、ティ
アンの顔がみるみる蒼ざめていく。
(ティアンさま……!)
古の聖剣王レンドの、魔神封じの呪文を口にしながらリシは、敗北のにがい味に
奥歯をかみしめた。
(お許しください……ティアンさま。私はもう……)
力つき、膝を屈して崩おれようとした、まさにその寸前――
第三の呪文が――ダルガの口をついて出た。
ドーラン・ファドがぎくりとしたようにすばやくダルガに視線を走らせた。
三種の呪文が、協和し、あるいは反発しあいながら、閉ざされた神殿の内部に重
く充満していく。
その重々しい空気をついて――風が、吹きぬけた。
熱風が。
「おお……!」
期せずして、魔道士と巫士との喉を同じつぶやきが震わせた。
灼熱の風は渦まきながら洞内を吹きめぐり、光と闇をひとしく掻き乱した。
そして、熱風の描きだす螺旋の中心にいるのは――リシであった。
「リシ……」
苦しげに呼びかけるダルガに、リシは目をみはる。
「まかせたぞ」
発するや、黒い戦士はがくりと頭をたれた。
声音はリシの耳に深くひびきわたり――
魂の深奥から噴きあげてくるかのような、はげしい熱をおびた力が、体内を強烈
にかけめぐるのを感じた。
野性の力だ。
はるかな古代に遠く喪われてしまったはずの、狂おしいまでの生命力――それが
力の正体であった。
リシの全身が、赤く発光していた。
炎の赤。
そして、血の赤。
リシは燃えあがる己が掌を呆然と見おろした。
ダルガの守護神――荒らぶる太古の神が、戦士の意志をとおして自分の体内に充
満していくのを感じていた。
陶酔が全身を埋めつくし、そして、ほぼ無意識のまま、リシは動いていた。
目に見えないなにかをつつみこむようにして、掌をあわせる。――もっとも単純
にして、もっとも強力な印の形。
呪文が、口をついてでる。
かつて耳にしたことさえない異言が、意識するまでもなくするすると紡ぎだされ
た。
恍惚感が、体表をつき破ってあふれ出るほどに充ちみちていた。
そして、炎が。
邪悪な呪文のリズムがふいに崩れる。そして魔道士は、苦しげにうめいた。
同時に、ティアンの頭上で膨張をつづけていた闇が、まるでなにかに吸いこまれ
ていくようにして、縮みはじめた。
ティアンの頬にうっすらと朱みがさし――
ごぼ、とどす黒い血を吐いて、魔道士はついに膝をついた。
終わりか……? 瞬時、リシの意志から力がぬけていた。
明白な油断だった。
どす黒い闇が、リシの周囲をうめた。うめつくした。
しめつける闇。圧力の闇。恐慌が、リシを襲撃する。太古の神を核に集約されて
いた意識はまたたく間に散じ、全身に恐怖が充満した。不覚……とつぶやく後悔も
悪夢に呑みこまれ、逆まく闇黒の彼方から勝利に酔いしれた笑声が反響する。
巫士は、がくりと膝をついた。
(これまでか……)
闘気の一片までそぎ落とされた暗黒の底で、諦念が狂おしくゆらめいたとき――
ふいに、哄笑が消失した。
吹きはらわれた闇のむこう、かすむ視界に鞭うって、リシは祭壇のドーラン・フ
ァドに目をむける。
もがき、身をくねらせる希代の魔道士にすがりつく、力ない腐肉の塊がそこにあ
った。
弱々しく、としか見えない手を頚にかけられて魔道士は狂ったように身をもがく
のだが、一向に屍鬼をもぎ離すことができずにいる。
生前の名残をとどめる左の片目は、横たわるティアンにひたとすえられていた。
報恩か? と、リシは瞠目しつつ驚愕の思いを抱いた。あの隻眼が、屍鬼と化し
てなお恩に報いようとしているのか?
だが、一方でリシは、隻眼の思いがわかるような気もしていた。呪われた森のお
ぞましき法則を招来した当の魔道士を亡きものにできるのなら、いまだはたされぬ
安息もまた訪れてくれるかもしれぬ、と。
あるいは――あるいはまた、あの男はティアンを救うためにこそ、すべてを賭し
てでもさからえぬはずの主の頚に手をかけているのかもしれない。ティアンには、
たしかに人にそのような想いを抱かせることのできるなにかがあった。王者の素質
――というよりは、人がもつことのできるもっとも単純にして、もっとも強力なる、
武器。
リシは再び立ちあがり、そして印を結ぶ。去りかけていた大いなる力が、ふたた
び身裏から強くわきでてくる。
まとわりつく隻眼の屍鬼をやっとのことでふりもいだ魔道士が、憎悪に目をむい
て巫士を見る。
両手を天にさしあげ、吠えるように呪句を紡いだ。
幻が、わいた。
千の眼の、幻が。
半眼にひらきかけた光放つ魔神の千の眼。その眼光が、完全にひらかれるかと見
えた刹那――
魔道士の背中に、衝撃が突きぬけた。にぶく重い音があがり――ドーラン・ファ
ドは、己が左胸から突きでた剣先を、信じられぬ思いで凝視した。
その背後で、ダルガがぎり、と奥歯をかみしめる。
手にした剣を、魔道士の体内でぐい、とひねりあげた。痩せこけたからだがひく
ひくと痙攣する。その背に足を蹴りつけて、ダルガは一気に剣をひきぬいた。
うす汚れた血がしぶき――
同時に、リシの解きはなった強大な力の奔流が、ドーラン・ファドに殺到した。
炎は渦まきながら体内めがけて凝縮し――
魔神の、失望と怒りの咆哮が、遠く消えさっていった。
魔道士はおどろきに顔を歪めたまま、どうと倒れふした。ひくりともがき、そし
て、息絶える。
寸時、時は驚愕と脱力に凝結する。
ぶん、と剣をふりおろして血糊をはらうと、ダルガはぜいぜいと喉をならしなが
らがくりと膝をついた。
時を同じくして、体内をみたしていた熱風がひいているのを、リシは感じた。
「これでおわりだ……」
ため息とともに、ダルガがつぶやく。
そこへ、
「いや……まだだ」
いって、リシが四囲を見まわした。
その顔にさきほどまでの昂揚はすでになく、かわって冷たい無表情がはりついて
いた。
苦しげにあえぎながら視線で問いかけるダルガに、リシはどこか重たげな口調で
こたえる。
「あれほどの魔道士……たとえ現し身は滅びようと、その魂はなんらかの形でこ
の世にとどまりつづけているはずだ……」
「知るか」そっけなくいい放つ。「もうこれ以上は意地でも戦わねえぞ。それに
『死界魔道書』なぞここにはねえってことだ。いつまでもこんなところでぐずぐず
してる謂れはねえ」
いいながらよろよろと心もとない足どりで祭壇からティアンをかつぎおろすと、
神殿から歩みだした。
晴れぬ顔でリシもあとを追う。扉をあとにする寸前、巫士はちらりと背後をふり
かえった。枯れ枝のような魔道士の死骸のわきに、ひっそりと横たわる腐肉の塊。
その隻眼の相貌に、リシはやすらぎを見つけただろうか。
地底湖をまえにして思案にくれるダルガを横目に、リシは玉座をふりかえった。
眉根がよせられる。
そのままひとしきり玉座をにらみつけ――
「いる、な……」
しずかに、つぶやいた。
いぶかしげにふりかえるダルガを無視して、リシはつかつかと玉座に歩みよる。
腰をおろすべきあるじを失った玉座は、妙に白々として見えた。
「リシ」うんざりしたように、ダルガが呼びかける。「帰る算段をつけるほうが
さきじゃ――」
いいかけるのを手で制して、リシは空白の玉座を凝視した。
はりつめた沈黙が洞窟に充満し――
しゃりん、と冴えた音が響きわたった。
ふりまわされた錫杖が直線を描いて走りぬけ――壁にむかって突きたてられた。
絶叫が響きわたった。
数千もの、絶叫が。