AWC 死者の森(9)       青木無常


        
#2902/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ     )  93/ 2/23   4:28  (200)
死者の森(9)       青木無常
★内容
 かくし扉のところで、魔道士ドーラン・ファドはおかしくてたまらぬとでもいう
ように身をおり曲げて笑っていた。
 蝋燭の陰気な炎が、フードの奥の醜怪な顔貌をうかびあがらせていた。
 しわだらけの口もとから、どろどろとした褐色の粘液が、笑いにあわせていぎた
なく飛びちっている。顔一面を汚怪きわまりない腫瘍がぶつぶつとおおいつくし、
臭気を発する濃汁をじゅくじゅくと噴出させる。そして、喉からおし出される狂お
しい哄笑にもかかわらず、まるで笑ってはいない両の眼の奥には――この世に存在
するいかなるものも吸いこんで離さない底なしの空洞が、黒々とひろがっているの
だった。
 「このわしをたばかれると思うてか」笑いの発作にせいせいとあえぎながら、魔
道士は嘲弄の口調でいった。「一部始終を見ていたのだぞ。それこそ、おまえがう
す汚れた旅装をはがれて、ういういしい処女の肌をさらすところまでな」
 怒りと羞恥に頬をほてらせ、ティアンはうずくまる。そのさまを見る魔道士の笑
声が一段とたかまり、
 「もうしぶんない。それにしてももうしぶんないわい。小生意気な小僧ではなく、
まさに贄にふさわしき汚れなき乙女とあったからには。されど……」
 にわかに、笑いに膨れあがっていた魔道士の全身が、すうとすぼまっていった。
 「……水竜にまかせておけばまちがいはないと踏んでおったのだが……とんだ見
当ちがいだったようだの。……この神殿にはふさわしからぬ者がまぎれこんでおる
ようだ。うす汚い、傭兵風情がな……!」
 瞬間――空気が裂け、強烈な異臭が充満した。
 雷光が虚空から出現し、ダルガを強襲したのである。
 が――
 「ほう――」
 魔道士は、痩せ枯れた腕をさしあげる。
 「幻術と見ぬいたか」
 電撃の直撃をうけたはずのダルガは、平然とたたずんだままにやりと笑った。
 それを見て魔道士も、むしろうれしげに頬にしわをよせる。
 「ひとは心で生きるものなれば、たとえ幻といえども、雷撃をうけたと感ずれば
それだけでおのずから倒れてしまうもの……。それを、こうもみごとに無視しての
けるとはの。ならば……これはどうじゃな?」
 いいざま、しわがれた腕がつい、と横にひかれた。
 軌跡にしたがって、なにもないはずの魔道士の前方の空間にぱくりと、異様な裂
け目が生じた。
 虚空――ではない。なにか、どろどろとした、なかば液体、てェば気体の樊うな
得体のしれぬものが渦まくなかを裂いて、巨大な影がずるりとあらわれた。
@蛇である。
 人間のひとりやふたり、一呑みでのみほしてしまいそうな顎をぐわりとひらきな
がら、手のひらほどの巨大な銀鱗をトらてらと光らせて、大蛇はずるずると異空間
から這いだしてきた。
 「かつて小賢しき道士に、裏界に封じこめられた魔獣のひとつでな。そう、火竜
と呼ばれていたか」いかにも楽しげに魔道士は得々とつげる。「外界では無理じゃ
が、ここでなら、いつでも呼びだすことができる。魔神のしろしめす、この地下世
界でなら、の」
 ダルガはみがまえ、その背後でティア6ヘ――野pレをむいた。
 「魔神のしろしめす……?」
 「そうとも!」
 醜怪な口をついて、哄笑が洞窟を揺るがせた。さきほどまでの老いた弱々しさが
嘘のように、力づよい響きだった。
 「そうとも! この地下の迷宮は、このわしが、かの魔神を召喚するために築き
あげた魔法陣よ! わしはこれを駆使して、いままで幾度となく召喚の儀式をくり
かえしてきたのじゃ。屍鬼を、ガドルを、水竜を――かつて封印された大いなる魔
神の眷属を、この世に復活させてやるためにな。邪界の版図はひろがり、いまや森
までものみこんで拡大しつつある。そして――そして、こたびこそよみがえるじゃ
ろう! かつて神がみの頂点にたっていた英雄神が! 死と暗黒をつかさどる大魔
王、千の目をもつ魔神、かの偉大なる銀色の貴公子たる、あの、ゼル・ジュナスが
な!」
 ティアンの、のみならず、ダルガの背筋にさえ、戦慄が奔りぬけた。
 視線。
 人の背に鋭利な鈎爪を突きたてる機会を間断なくうかがう、虚無のように底なし
の、邪悪きわまりない超越者の視線。その名を魔道士がとなえた瞬間、圧倒的な圧
力をたたえて、その視線が二人の背中に噴きつけたのである。
 洞内を、森を、否、世界を睥睨する、力にみちた悪夢の化身が、たしかにくだり
来たったかのような錯覚が、二人の意識を圧しつぶそうとしていた。そう、それは
錯覚にしかすぎないのだ。もし魔道士の言葉どおり魔神の降臨がはたされるならば、
その最初の瞬間にふたつの人間の生命など魂まで消しとばされてしまうだろう。
 「そんな……」
 全身をぶるぶると震わせながら、ティアンはうわごとのようにつぶやいた。
 「あの……あの魔神をよみがえらせる……? 信じられぬ……では、死界魔道書
とは……」
 とたん、はじけるような高笑いがティアンをうちすえた。
 「死界魔道書! あのたわけた与太話を、おまえたちは本気で信じていたという
のか! あのようなものなどこの世には存在するはずがなかろうが! 唯一絶対の
真理とはすなわち、この汚れた世界を滅ぼしつくし、闇と永遠が支配する常世を構
築する、ゼル・ジュナスさまにほかならぬのじゃ!」
 「……たばかったな……ドーラン・ファド……!」
 ティアンは狂おしく絞りだす。声には敗北の苦渋が、拭いがたくにじみ出ていた。
 と、そのとき――
 「ふん」ダルガが、鼻をならした。「狂人にはつきあってられねえ」
 ぎらりと魔道士は目をむき、わなわなと身をふるわせた。
 「この世の真理もわきまえぬ傭兵風情が、このわしを愚弄する……か。……よか
ろう、そのわらくずのつまった役たたずの頭に、真実の恐ろしさ、とくと思いしら
せてくれる……! 火竜! 火竜! その傭兵を食らえ! 頭から食ろうてしまえ!
骨の一片だに残さずな!」
 魔道士が手をふるが早いか――怪蛇はぐねりと身をくねらせ、ダルガにむけて飛
びかかった。
 銀光が弧を描き――
 冴えた音が、闇をふるわせた。
 なおもせまる長大な牙をさけて、ダルガは飛びすさる。
 そして、目を見ひらいて、己が手にした長剣を見た。
 刃が、ぼろぼろになっていた。
 「愚かものめが」吐きすてるように、魔道士はいった。「火竜の鱗は、鋼鉄の硬
さなどの比ではないわい。そのうえ……」
 しゃああ、と、蛇が音をあげた。
 と同時に――炎がダルガを包囲した。
 「その名のとおりの火のつかい手、地獄の炎を自由に御することもできるのじゃ。
観念するがいい」
 魔道士の指摘するがごとく、青じろき炎は闇を侵食し、じりじりとダルガにせま
りはじめたのである。
 ドーラン・ファドの言葉に、ダルガが嘲笑をおくったような気がした。が、黒い
戦士の姿はひるがえる炎の壁にかこまれて、一瞬にしてティアンの視界からかくれ
ていた。
 熱気にあとずさり、リシの体につまずいた。揺らめく火の進軍からすこしでも遠
ざかろうと、泣きながらリシの体をひきずる。
 なすすべもなく退却するティアンの耳を、魔道士の耳ざわりな哄笑がふるわせた。
 そしてもうひとつ――なつかしい声も。
 「……心配はありません」
 力なく弱々しい、そしてそれでいてかぎりなく神秘にみちた、なつかしい声。
 信じられぬ、とでもいうようにティアンは呆然と目を見ひらき――まるで目にす
れば消えてしまう幻をでも見るかのごとく、おそるおそる、下方に視線をおとした。
 すんだ、湖水のような微笑が、少女の不安と希望とを迎えた。
 言葉が喉にからまり、全身は不信と狂喜とに彫像のごとく硬直した。
 目尻から涙がわきだし、唇の端がためらうようにわななきながら微笑の形を描き
だす。
 そして、
 「リシ!」
 叫び、半身をおこして微笑む白髪の男に、ティアンはだれはばかることのない泣
き声をあげながら身をなげかけた。
 「リシ! ああ、リシ! 生きていたんだね!」
 やさしい微笑をうかべたまま、リシはしずかに首を左右にふった。
 「蘇生する望みなど……一片だにありませんでした」
 もの問いたげなティアンの視線に、リシはぶるぶると弱々しくふるえる指でダル
ガをさしてみせた。
 「彼が……わたしを黄泉の底より呼びもどしたのです」
 「ダルガ……ダルガが……?」
 炎の壁のむこうにおぼろげにほの見える黒い影を、ティアンは呆然と見つめる。
 「正確には」リシもまた、遠くを見つめるような目で、火炎にまかれる戦士の姿
を見ていた。「ダルガの守護神が」
 「守護神……?」
 涙声で聞きかえすティアンに、リシはふたたびダルガを指さし、
 「ごらんなさい」
 いわれてティアンは目をこらし――いぶかしげに眉をひそめた。
 最初は、いかなる異変がそこに含まれているのかまったく見当もつかなかった。
 が、ふいに気がついたのだ。
 紅蓮の壁が、おし包んだ獲物からのがれようとしてでもいるかのように、じりじ
りと後退しつつあるのに。
 後退させているのは――白熱の火球だった。
 太陽のようにまばゆく輝く、地獄の業火さえ退かせる光の珠。
 幻視か――潜在的な超感覚が働いているのを、ティアンは覚えていた。輝く火球
が、実際には魔道の手ほどきをうけた者にしか見ることのできない、霊的な炎であ
ることをおぼろげに感得していたのである。
 「炎の神です」
 ささやくようなリシの声が耳朶にとどくのを、ティアンは別世界からの呼びかけ
のように感じていた。
 「炎の……神……?」
 「そう…あの巨大な霊気が、姫――いや、ティアンさまにもお見えのことと思い
ます。あの、まるでダルガを守るようにしてつつみこむ炎の珠……あれはまさに、
神そのものだ。それも、あの古の英雄神にさえ匹敵するほどの力にみちた神……お
そらく、われらが信捧するヴァイル十二柱の神々よりも古い、忘れさられた大いな
る神族のひとりででもありましょう」
 「そんなことが……ああっ!」
 ティアンは、驚愕に小さく叫びをあげていた。
 火球がふいに、ぐわりと膨張したのである。
 爆発する太陽のように、白熱の光が火竜の地獄の炎を呑みこんで洞内に充満した。
 時間にして、おそらく数秒とは経過していまい。
 永遠のようにも思えたその数秒がすぎた後――唐突に、火球は消滅した。
 復活した闇がのしかかり――
 一陣の風が吹きすぎたように、蝋燭の列がゆらりと揺らめき、ささやかな灯火が
ふたたび周囲を照らしだす。
 威嚇するように鎌首をもたげる、炎を喪くした火竜。
 魂をぬかれたように立ちつくし、四肢をわなわなと震わせるだけの邪悪なる、年
老いた魔道士。
 そして――そして、抜刀してたたずむ、黒い戦士。
 「あ……」
 ティアンの喉が、ふるえながら声を発した。
 「あれは……あの痣は……」
 目をみはる貴種の視線のさきに、戦士の背中があった。
 遍歴の軌跡をまざまざと見せつける、傷だらけの背中。
 その背中に、炎の形の痣が浮かびあがっているのである。
 「痣……あのような痣……なかった! あのような痣はなかったぞ、ダルガの背
中には!」
 呆然と叫びながら、ダルガの背と巫士とを交互に見やるティアンに、リシはひっ
そりとうなずいてみせた。
 「爆散した霊気の発現点は、特定するとすればあの痣でしょう。おそらくあれは
……神の到来と、その力そのものを象徴する……聖痕にほかなりませぬ」
 「聖痕? ……神……神……?」痴呆のように、ティアンは巫術士の言葉をくり
かえした。「……神なのか……? あの、屍鬼を呼びよせ……リシ、おまえにさえ、
近づくことをためらわせた秘められたものとは……神だったというのか!」
 怒っているようにさえ思えるティアンの驚愕の凝視に、リシはひっそりとうなず
いてみせた。
 「では、なぜだ!」ティアンの叫びは、叱責にも、また悲鳴にもにて狂おしく響
きわたる。「なぜ、おまえはあの男を恐れている! どんな不信が、おまえの眉を
ひそめさせているのだ?」
 噴きでる炎の双眸を、巫士の瞳は深くうけとめ――そして、ゆっくりと首を左右
にふった。
 「われわれの知る神ではないからです……。古代の神々――すなわち混沌の神々。
益も害も、ひとしなみにわれらにもたらす、荒らぶる神。……なりゆきもありまし
ょうが、あの得体のしれぬ神もいまはわれわれを守る形となっております。ですが
……あの強大な力……一歩まちがえば非常に危険なものとなりかねませぬ。もしか
すると、われらのみならず……ダルガ自身をさえ、焼きつくしてしまいかねないほ
どに――!」
 背筋に悪寒が奔りぬけるのを、ティアンは覚えていた。
 リシの言葉が、真実を射ぬいていることを知るゆえの、戦慄であった。
 そのダルガはいまや、断末魔のように火竜の放つ炎をものともせず、とぐろをま
いてあとずさる大蛇にむけてじりじりと歩を進めつつあった。
 見まもる魔道士の、暗黒の双眸は驚愕にひき裂けそうなまでに見ひらかれていた。
老いた口もとでは、汚汁とともに馬鹿な、馬鹿な、と痴呆のようなつぶやきがくり
かえされる。
 「火竜の炎を……火竜の炎を、こともあろうに、同じ炎で凌駕する、だと……?
そんな馬鹿なことが……そんな馬鹿なことが、あろうはずがない!」




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