#2901/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 93/ 2/23 4:24 (199)
死者の森(8) 青木無常
★内容
いまだしたたり落ちるどす黒い血。そしてなによりも、つぶされ、永遠にひらく
ことのない右の目。
隻眼だった。
“死者の森”で死した者は、なにものであろうと屍鬼と化し、永遠に森の内部を
さまよう運命にあるのだ。
残された片目が、底なしの憎悪をこめてティアンを見つめた。
はああ、と、腐臭をまき散らしながら喉を鳴らし、隻眼は――否、屍鬼は、岩場
をけってティアンに襲いかかった。
甲高い悲鳴をあげてティアンはうずくまり――
頭上で、空気の切り裂かれるするどい音がするのを耳にした。
水飛沫が高々と左右にあがる。
間をおいて、ぷかりと水面になにかが浮かびあがった。
腕だった。屍鬼の。
あ、あ、あ、あ、と、弱々しく悲鳴をあげながら、屍鬼があとずさる。呪咀の声
は、泣き声のようにも響きわたった。苦痛の声か、それとも……
が、ティアンの意識は、急場を救いにあらわれた、背後に立つ人の気配にむけて
占有されていた。
幻と消えてしまうことを怖れるかのように、ゆっくりと背後をふりかえり――
「ダルガ!」
歓声をあげてずぶ濡れの黒影にすがりついた。
「ダルガ! 生きていたのか、ダルガ!」
名前を連呼しながら、堰が切れたように泣きじゃくった。
そんなティアンを無言で押しやり、ダルガは逃走しつつある屍鬼を追うかまえを
見せた。傭兵の意図にティアンははっと気づき、その背に全身でしがみついた。
「だめだ、ダルガ! あれはガイラだ! 仲間だったんだよ!」
「わかっている」
氷のような台詞がティアンの声を詰まらせた。
戦士の双眸が、醜くよたよたと遠ざかる腐人の背中にすえられていた。
いっさいの感情を捨てさった、冷酷な殺人者の眼光。
ティアンは傭兵の腰にすがりついたまま、恐怖に息をのんだ。
「逃がしちまったか」
屍鬼が肩をふるわせながら柱の陰に消えるのを見やり、ダルガは音たかく舌を
うつ。剣を鞘におさめながらティアンに視線をむけ、
「甘すぎるな、姫は」
しずかに告げた。
ティアンはぎくりとからだを強ばらせ、あわてて水中に身をしずめた。
ダルガと視線をあわせるのを避けるようにして背をむける。
「はやく服を着ろ。敵にけどられるのにさほど時間はかからないぞ」
という傭兵の言葉にかぶせるようにティアンは、
「――見たのか……?」
ふるえる声で、きいた。
「ああ」ゆっくりとした動作で、ダルガは水からあがる。「おまえは女だ。もっ
とも、それ以前から見当はついていた。滝の前でおまえたちが屍鬼に襲われたとき
に、リシが叫んだからな。姫、とよ」
ダルガの言葉を刃の切っ先のように感じながら、ティアンは水中で身を縮めたま
ま唇をかみしめた。
「べつに珍しいことでもない」なぐさめる風でもなく、淡々とした口調でダルガ
はいう。「供がリシ一人、護衛もつかぬとなれば、男装は当然の防衛策だからな」
珍しくはない、といわれてティアンは安堵する一方、傷つけられたような複雑な
思いをも抱く。
そんなティアンの気持ちも知らぬげにダルガは、服を着ろとくりかえした。
しばしためらい、あきらめたようにティアンは泉からあがった。室の入口に立っ
て外をうかがうダルガに、背をむけるようにして旅装を身につける。
「リシはどうした」
服を着おわったティアンに、外の様子をうかがいつつダルガはたずねた。
「つかまった」しずかな声音に苦渋がにじむ。「ドーラン・ファドと術くらべを
して敗れたんだ。死にかけている」
「生きてはいるんだな」
問いかけに、ティアンは小さくうなずく。
「どこにいるんだ?」
「わからない……。ドーラン・ファドは神殿につれていけ、といっていた」
「神殿か。それをさがすしかないようだな」
「――救けだしてくれるのか?」
目を輝かせて、ティアンはきいた。
ダルガはいぶかしげに眉をひそめ、次いで、ニヤリと笑みをうかべた。
「奴を見すてては、約束の報酬ももらえないのだろう?」
「……そのとおりだ」
ティアンは何度もうなずいてみせた。
「よかろう。やってみる」
ふたりは、慎重に四囲をうかがないながら岩室を出た。
岩陰から様子をうかがうと、六匹のガドルが壁にはりついていた。屍鬼の姿は見
あたらない。
手ぶりでここにいろとティアンにつげ、ダルガは音もなく抜刀する。
そのまま、一気に走りでた。
ぎい、と声を立てて、ガドルがいっせいにおどりかかる。
むかえうつ神速の剣が四匹までを一気に切りすてた。と同時に、背後を強襲した
五匹目が、その鋭利な爪で衣服ごとダルガの背をひき裂いた。
足もとに食らいついたガドルを切りふせ、返す刀でのこる一匹の首を飛ばす。
五秒とはかからなかった。
「大丈夫か」
いいつつも感嘆の目で見つめるティアンにうなずいてみせ、ダルガはひき裂かれ
てズタズタになった上衣を脱ぎすてる。
あらわれた浅黒い裸の背に、ティアンは息をのんだ。
そこには、大小無数の傷あとが刻印されていた。
「いくぞ」
短くいい放つと、呆然とした体のティアンをおき去りにする勢いで先を急ぐ。
あわててあとを追いながら、ティアンはしばし考えこむような顔をしていた。
二股に道がわかれたところでダルガに追いついた。
「どっちだ?」
きかれて首を左右にふり、
「だが、方向はわかると思う」
いぶかしげに眉をひそめるのにはかまわず、ティアンは懐中からちいさな棒と、
そして三角柱をとりだした。
うすい板状の棒は、まんなかにちいさな穴が穿たれている。地面においた三角柱
の先端にその穴をあてがうと、棒はかすかにゆれつつもバランスよく三角柱の上に
おさまった。
くぐみこんだティアンは、右手の指を二本つきだすと、ゆったりとした動作で左
右にうち振った。
「占術か」
感心したようにダルガがつぶやくのへ微笑んで見せ、ティアンは口中で呪文を紡
ぎはじめる。
と、棒はゆっくりとした速度でくるくると回転しはじめ、やがて道の一方をさし
て静止した。
「右か」つぶやくように、ダルガはいった。「まちがいないな?」
「自信はない」道具を懐にしまいつつ、ティアンはいった。「初級魔道にすぎな
いが、習いはじめたばかりなんだ」
ダルガはうなずいてみせた。
「いいだろう。ほかに指針はない。右だ」
いって、背をむける。
「ダルガ」
その背中に、思いつめたような口調でティアンは呼びかけた。
ふりむいた黒い瞳に、ティアンはまぶしげに目をふせる。
ためらい、何度もまばたきをくりかえし、そして――意を決したように、口をひ
らいた。
「わたしに剣術を教えてくれないか?」
ダルガは無言のまま、まっすぐにティアンを見つめた。
少年は――否、少女は、頬をほてらせながらふたたび目をふせ、いいわけをする
ようにしていいつのる。
「女だてらに、と思うかもしれないが……女だからこそ、強くなりたいのだ。も
う……もう、ずいぶん長いあいだ、わたしたちはたったふたりで、あちこちを放浪
してきた。女だということが知られてしまって、ほうほうの体で逃げだしたことも
何度もある。いままでは運よく大事には至らずにすんできたが……この先もそうと
はかぎらない。だから、せめて――せめて自分の身だけでも、守れるようになりた
い……」
声がふるえるのを覚えて、ティアンは激しく首をふった。
ダルガはあいかわらず無言のままだ。
「それに見あうだけの報酬は払う。たのむ、ダルガ。わたしに剣を、教えてくれ」
涙をにじませた目で、ダルガを見つめる。
沈黙の幾許かを、ふたりは無言のままですごした。
「わかった」やがて、ダルガがしずかにいった。「だが、その話はここを無事に
ぬけだしてからだ。いいな」
いつもとかわらぬ、つきはなすような口調。
それでもティアンは、微笑みながらうなずいた。
ダルガもまた、かすかに笑みをうかべてうなずき、いくぞ、と短くいって背をむ
けた。
ティアンは不思議に満ちたりた想いを感じながら、その背中を追った。
6
視線を感じて、ティアンはふりむいた。
燐光に照らしだされた広大な空間は、しんとしずまりかえっている。
魔道士はおろか、ガドルの一匹さえ見あたらない。気のせいか、と軽く首をふる。
――これで二度目だ。
ダルガは、玉座の背後をしきりにさぐりまわっていた。ティアンの初級魔道のさ
し示した位置である。
玉座からはじめて、背後の壁面に無数にうかぶ瘤のひとつひとつをしらみつぶし
に探りはじめてから、すでに数分が経過している。ティアンがぬけだしたことが判
明して、騒ぎがもちあがってもおかしくない頃合だ。にもかかわらず、広大な洞窟
はしん、としずまりかえったまま、かさとも音を立てない。
――まただ。
ティアンは三度ふりかえり、狂おしく視線を四囲にさまよわせた。
たしかに感じた。とてつもなく邪悪な視線だ。しかも、ひとつではない。嘲りを
ふくんで盗みみる、無数の視線が、たしかに背中をなめまわすように走りぬけたの
だ。
ガドルか。どこか自分には目のとどかぬ暗がりにでもひそんで、二人のすること
を嘲笑いつつ見まもっているのかもしれない。
ティアンはぞっと背筋をふるわせた。
と、そのとき。
ごっ
突然の音に、ティアンはあわててダルガのほうを見た。
瘤のひとつにあてられたダルガの右手が、壁のなかに深く沈みこんでいた。
そして――
ごっ、ごうん、ごっ、ごうん、ごっ、ごうん
重苦しい音をたてて、玉座のまうしろの壁が、後方にむけて観音開きにひらきは
じめたのである。
ティアンは、ごくりと息をのみつつダルガを見つめた。
剣士は無言でうなずき、さきに立って扉をくぐった。
そして二人は、立ちつくした。
この地下の世界が、いったいどれだけの空間を内包しているというのか――。あ
の玉座の間の背後に、それに輪をかけて広大な空間がひろがっていたことに幻惑を
覚えながら、しばし二人は呆然と目をみはるばかりだった。
地からにょっきりと生えでる無数の鍾乳石にかこまれて、円形の広場がしつらえ
られている。そしてそこには――黒々とした線で、幾重にも重なった同心円と、無
数の文字が刻みこまれているのだ。
ラウード文字――レトア文字と同様、はるかな古のときより伝わる、強力な呪力
をもつ神秘文字である。
そしてその神秘文字の中心には、蝋燭に赤々と照らしだされて、奇怪な魔獣の彫
刻を刻んだ円形の祭壇が横たわっていた。
そのかたわらに――
「リシ!」
巫術士が力なく横たえられているのを見つけて、ティアンとダルガは急ぎかけつ
けた。
「リシ! リシ!」
叫び、はげしく揺すぶろうとするティアンを制して、ダルガはその手首に指をあ
てた。
「……脈がない」
「嘘だ!」
泣き叫びながら、ティアンはリシの左胸に耳をあてる。
そのまま、必死の面もちで懸命に鼓動をさぐるのだが、リシのからだは全身を冷
たく凍りつかせたまま、いかなる生の兆候をも見せようとはしなかった。
「リシ! 返事をするんだ! リシ! リシ!」
悲痛な声をあげて己れの唯一の従者をゆすぶるティアンに、ダルガはかける言葉
もなく見いるばかりだった。
そのダルガの黒い双眸が――矢庭に、ぎらりと光をおびた。
よどんだ黄泉の空気をどよもして、絶望を惹起するような陰気な笑い声が呵呵と
響きわたる。
びくりと身をふるわせて、ティアンもまたふりむいた。