#2890/3137 空中分解2
★タイトル (UCB ) 93/ 2/21 22:30 ( 67)
親父のバイク人生 おうざき
★内容
相模 竜(さがみ・りゅう)は、いさましいその名に似合わず、なんとも小心
者だった。少なくとも、彼を知る人々は、そう思っている者の方が多かった。
子供の頃は、家業の手伝いばかりをやらされていたが、二輪車で荷を配達する
うち、次第に二輪車にのめりこんでいくようになった。
二輪車はおろか、自転車も少なかった時代である。あり余る若い好奇心は、す
べて二輪車へとつぎ込まれた。
そして、興味の対象が、二輪車そのものから、二輪車に乗ってどこかへ出かけ
る事に変わって言ったのは、言うまでもない事だった。
散歩にでも行くような顔で二輪車にまたがり、戦後の活気あふれる町々を見て
まわり、三日もたってから、そ知らぬ顔で帰ってきたりした。その見返りが、せ
いぜい父親のげんこつ一発くらいであると味をしめてからは、たちまち三日が一
週間になり、一週間が一ヵ月になった。
成人した竜は、平凡に務め人として独立した。仕事にはあまり身をいれず、休
みになると二輪車にとび乗り、地図も雨具も持たずに、泊まりがけで旅に出たも
のだった。
かね子とは、数回目の旅先で知り合った。知り合った後、何度か手紙のやりと
りが続いた。
世紀のバイク馬鹿も、股の間にぶら下がっているものが、年中冷えきっていた
訳でもないようだった。熱烈な交際の末、結婚した。当時は珍しい恋愛結婚で、
難渋したが、竜はやってのけた。
その後、竜は息子を一人もうけた。家庭ではむしろ暴君だった。それを小心の
裏返しと分かるのは、女房のかね子だけだった。
ひとつだけ、彼が心底強気になれる分野があった。それは子供の頃から毎日乗
っていた乗物、二輪車についてだった。彼は、こと話が二輪車になると、誰であ
れ何であれ、容赦しなかった。
結婚してからも、子供ができても熱はさめず、CB750Fourを新車で買
った。平成の今日にいたってもなお名車といわれ、ナナハンなる造語を生んだ二
輪車である。
CBナナハンが、彼の人生を大きく彩った事は、間違いがない。
息子の丈(じょう)が、二輪の免許を取ろうとした時、彼は満面のほてい面だ
った。
バイクか。おお、乗れ。今の世の中、便利で効率のいい四輪なんぞに乗ってお
ると、人というのはいずれ破綻する。バイクはあぶない、と言っておる者がある
が、他人の言う事を気にする事はない。そういう奴らに限って、車に乗っていよ
うと、事故を起こす時は起こすものだ。
丈は、三カ月後、中型限定の二輪免許を取った。
しばらく二百五十ccの二輪車に乗っていた丈は、ほどなくして限定を解除し
た。そして、父のナナハンよりも大きい排気量の、逆輸入車に乗ろうとした時、
竜は烈火となって怒った。
そんなものに乗せるために、バイクの免許を取らせてやったのではない。息子
のくせに、父より大きい千百ccのバイクに乗ろうというのか。ならん。もっと
小さいバイクにしろ。どうしてもと言うなら、わしにも同じバイクを買ってよこ
せ。
だだっ子のような父の言動に、息子は苦笑したが、結局は折れ、六百ccの、
ごくあっさりとした、CBRというスポーツバイクを買った。
よく、休みの日には、息子のCBRを従え、そして後ろのシートに女房を乗せ
て、日帰りの旅に出た。一日三百キロの距離を乗りづめでも、疲れも見せず、彼
は満足そうだった。
晩年の彼は、さすがに二輪車には乗らなくなり、もっぱらスクーターを愛用す
る事となった。
スクーターも満足に乗りこなせん奴が、偉そうにバイクに乗るな。
これが、その頃の竜の口癖だった。
偶然かどうか分からないが、スクーターに乗ったかわいい女の子が、丈を訪ね
て遊びに来るようになった。二台のバイクが連れだって走って行くのを、竜は玄
関にかね子と並んで、ほほえましく見送ったりした。
その後、丈は彼女と結婚し、ついでに二輪車をGSX−R1100に乗り換え
た。竜は何も言わなかった。
ある休日の事、GSXにワックスをかけている丈に向けて(あるいはGSXに
向けてだったかも知れない)、竜は独り言のように話しかけたものだった。
わしは今まで、バイクでずいぶんと全国を旅してきたが、とうとう四国には行
けなかった。いつでも行けると後回しにしているうちに、結局は行けなんだ。心
残りな事だ。
四国なんて行っても、いい事ないよ。交通は不便だし、ガソリンスタンドも少
ないし、見てまわるところなんて全然ないよ。バイク雑誌にそう書いてあったよ。
息子がそう言うと、竜は笑って、縁側に歩いていった。
相模 竜は、瀬戸大橋の完成を待たず、職場で倒れ、脳溢血で世を去った。
<おわり>