#2868/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 93/ 2/16 14:42 (199)
お題>指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱 青木無常
★内容
糞ったれめが。
畜生、なんてこった。糞ったれめが。
(株)霞宝飾め、贅沢品取扱業がなんでわざわざこんな老朽化したビルなんぞに
事務所を。だいたいこれは違法建築なんじゃないのか? いったい築何年たってや
がるんだ。糞。
うおっと!
……くっ、はあ、はあ、はあ。
ぐはあ、危ないところだったぜ、もうすこしで地上十二階からまっさかさまだ。
そのうえせっかく手にいれた獲物を落としちまうところだったぜ危ねえ危ねえ。ふ
ーっ、と。……口んなかくわえとくか、手にもってると、こんな状況だ、いつ落と
すか知れたもんじゃねえからな。んしょっ、と、あんぐ。よひ。これれいひ。
さて……と。
どうすっかな。ったく、腐ってやがるこのコンクリート。崩れやしねえだろうな。
ビル取り壊しみてえに、こう、どどどっ、とよ。……ぶるるるるるっ、冗談じゃね
えや。糞っ、なんとしても夜が明けるまでにどうにかしねえとよ。こんなとこに人
間がへばりついてたんじゃ、そのうちいやでも人目についちまうしよ。
あー糞、もういちど屋上に戻るか。警備のじいさん、もう寝ちまったろうな?
警報機はオシャカにしちまってるから、あの爺いさえうろついてなきゃ、簡単にズ
ラかれるんだ。ま、とにかく覗いてみるか。
よっ。
…………。
よっ。
…………。
よっ。ほっ。よっ。
……なんとしょっ。
…………。
……おい。
なんでだ?
……よっ。
…………届かねえ……。なぜだ。降りるときはすぐだったろ? な? おい。な
ら、なんで届かねえんだよ。ええ、おい。
糞ぅ。よっ……こら……しょっ……と。やっぱダメだ。糞、ちょっと飛んでみる
か。ほっ!
うおわあっ! あふっ、あふっ、あほっ、ほっ、ほっ、ほっ! んぐっ!
ぶふぃーい! はあっはあっはあっ、んはあっ、いまのはマジでヤバかったぜ、
ぶはあ、ぶはあ、ぶはあ。あーーーーーあ、びっくりこいた。死ぬかと思った。助
かってよかったぜ、はあ、はあ、はあ。
……っつっても、状況はちっともよくなってねえんだよな。つーか、より悪くな
ってんのか。一メートル……いや、三メートルくらいあるな。この出っぱりがなか
ったらまちがいなく一貫のおわりだったわけだ。悪運、てやつか。ははは。
笑ってる場合じゃないっ! どうやって昇るんだよ。あそこの出っぱりには……
飛ばなきゃムリだな。……もう飛びたくないなあ。ここもなんだかボロボロだしよ。
どれ、下はどうなってんのかな……と。こりゃダメですねー、地面までまっさかさ
まだ。写真週刊誌にのっちゃうよ。指輪泥棒、欲望の顛末、てね。飛び散る脳漿の
悲惨、とかさ。はははははははははは。……冗談じゃねえっ!
あーもー糞ーいったいどーすりゃいーんだ。女房のヤツいまごろ首ながくして待
ってんだろーなー。はーあ、あいつもむかしはかわいかったんだけどなー。こー、
きゅっ、と腰なんかくびれちゃっててよう。でかいケツぶちこんでひいはあゆわせ
てっと、ほんっ、と、もうっ、かわいくてかわいくて。
はー。
なんであんなふうになっちまったんだろーなー。派手好きだきゃそのまんまでよ。
ぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶく。ったく、風船じゃねーっつーのっ。おかげさ
までこちとら専門外の指輪泥棒。しかも壁にへばりついてにっちもいかねーってか?
あーもーまったく、情けなくって涙がちょちょ切れらあ!
さて。
どーする?
腕も痺れまくってきたぜ。まったく、痺れっちまうよなあ。なんの因果でこの俺
さまがこんなメにあわなきゃならないっつーの。かあー、握力なくなってきちまっ
たよ。ずるずるずるずる、このまんまじゃ四五分後ににゃノシイカだね。なんての
んびり考えてる場合じゃねえってのに、この呑気者はっ。
えーと。
えーと。
えーと。
なんで人間は考えるとき「えーと」なんてカケ声かけるんだろうな。えーと、え
ーとってのは分解すると「えー」と「と」になるんだよな。ってーと、この「えー」
というのは、こう、「えー……」と考えるときに使う言葉で、するってーとつぎの
「と」ってのは、なるほど接続語の「と」か。しかし、となるとその前の「えー」
てのは……
いかんっ。なにのんびりつまらねえことだらだらと。いかん。いかんなあ。ドタ
マ熱くなってマトモにものが考えられなくなってる。えーと。また「えーと」だな。
この「えーと」ってのは、なんて考えるんじゃねえっ! 違うっつーの! えーと、
じゃなくて、んーと。
「えーと」がダメなら「んーと」てのはちと短絡的かな。って、それもちがーう
っ! あー、えーと、なに考えなきゃなんねえんだっけ。あそうそう、これからど
うすればいいかって。なんだ簡単なことじゃねえか、なんでこんな簡単なこと忘れ
てたのかな。まったく、バカなヤツだぜ。
……打開策がまるで浮かばねえ。だああああああっ、いったいなんなんだこれじ
ゃ真正の大バカじゃねえかっ。いかん、興奮するな、冷静になるんだ冷静に。熱く
なってちゃどうにもなんねえ、とにかくこの状況をなんとかしなきゃよ。で、どう
する。それを考えてたんだろうが。うん。で。なにも打開策がない、と。なるほど。
堂々めぐりだな。堂々めぐり? 堂々めぐりってコトバの語源てなんだろ。やっぱ
お堂と関係あるのかなって、んなこと関係ねーってのにこのバカ! だからどーす
りゃいいのか考えろってのにいったいなに考えてんだこいつわっ!
…………。
ふう。
なんか疲れちゃったな。
そりゃまあ、ムリもねえか手だけでこんな腐ったコンクリートのへりに何十分も
ぶらさがってりゃな。まったく、もう何時間もぶらさがってるような感覚だぜ。一
分と経ってなかったりしてね。
…………おいおいホントかよ。なんか不安になってきちゃったな。いったいどれ
くらい時間が経ってんだろ。腕時計……と。暗くてよく見えねえな。手、はなした
ら落ちそうだし。うー。懸垂で……。ダメだ。腕も痺れてまるで力入らねえや。だ
いたい俺はムカシっから体操だきゃだめだったんだよな。居残りで懸垂一回が限度
だったもんな。……あんときゃ哀しかったなあ。夕陽がこう、真っ赤でよ。グラン
ド走りまわってた野球部の連中とかもとっとと帰っちまってよ。カラスがカアとか
鳴いてやがって。で、おれひとり鉄棒にぶら下がって泣きそうになってやがんの。
まったくなあ。あのカラスどもはいったいどこいっちまったんだか。あ、カラスは
今でもいるか。都会はカラスのオアシスだもんな。なくなっちまったのは、あの、
真っ赤な夕陽のほうだな。はあ。まったくよ。世の中せちがらいもんだぜ。夕陽は
なくなっちまうし元号はかわっちまうし、あげくのはておいらこんなとこにぶらさ
がってよ。やんなっちまうよなあ。
あーあ。
あーあ。また余計なこと考えちまってるなあ。どうでもいいや。どうせどうしよ
うもねえじゃねえか。ったく、こんなカッコウしちまってよ。
…………。
…………。
死にたくねえよなあ。
あのでっ、かい、真っ、赤な夕陽をよ。もういちど見てえよなあ。
なんてこと言ってるうちに空が白んできやがった。いけねえ、のんびりしてると
夕陽どころか朝日が昇っちまう。
どうにかしなきゃよ。
……イチかバチかだ。
飛ぶか。もういちど。いや、一度じゃきかねえな、二度。いや、いまのおれの体
力からすっと三度、か。糞。しようもねえ。けっ、どうせ一度っきりの人生よ。大
バクチ打って死ぬってんなら運命だ。よし。
ふーっ。
よし。
さあ。
いくぞ。
…………。
……せーのっ。
…………。
……せーのっ!
…………。
やっぱ恐いわ。
はー情けねー。でもよく考えてみりゃ、こんなボロボロのコンクリート、ぜった
い崩れちまうに決まってるもんな。バカやって死ぬより、ム所入っても生きてたほ
うがいいもんな。どうせ俺ゃ前科モンだしよ。
はーあ。ム所かあ。やだなあ。入墨しょったのがハバ効かしちゃってよ。窃盗じ
ゃハクねえもんな。肩身せめえし。女房よりゃマシか。ヤクザのおっさんでもよ。
ほん、と、ムカシはあんなにかわいかったのによ。あったく、どうすりゃあんなふ
うにぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶく。
ふう。
なんだか生きてるのがいやんなっちゃってきたな。
このまま手ェはなしゃ、死ねるんだよな……。
……なんてバカなこと考えちゃいかん。どうせ死ぬ気もねえくせによ。ふん。ど
うしようもねえ。糞。どうすっかな。
あっ。
おいっ。
おいっ親父!
おいったら!
なにそんなツラして見てやがんだ? あ、おいっそこ動くんじゃねえよっ! ブ
チ殺すぞこらっ。いーからこっちこい!
よーしそれでいいんだ。おい、親父、ちょっと手ェのばせ。
うるせえ、いいからのばしてみろってんだ! そんなに簡単にあきらめちまっち
ゃ人生いきどまりだぞ。おう。チャレンジャースピリッツってヤツよ。人間あきら
めちゃおしまいよ。あきらめちまったからビル清掃のしがないおっさんになっちま
うんだ。そうだろ? あん? 根性出しゃ手だって三メートルものびるかもしんね
え。そうだろ? なに? 一メートルもねえ? うるせえ余計な気ィまわすんじゃ
ねえよ。一メートルもねえんなら手もとどくだろうが。なんだと? 五十肩で手が
のびねえだ? てめえ、甘ったれてんじゃねえよ。いいか? 人生ってのはよ。な?
あきらめちまっちゃおしめえよ。死ぬのと思ってもあきらめねえでがんばってみる。
するってえと、こうして救いの手がのびてくるわけだ。わかったか? あん? う
るせえつべこべ言ってねえでもっと手をのばせ。
あこら。どこいくんだ。ダメだ。助けなんかいらねえ、人なんか呼びにいくんじ
ゃねえよこら。騒ぎになっちまったらどーすんだ。なに? もう充分騒ぎだ? 屁
理屈こいてんじゃねえそこにいろ。いいからいろ。
わかった、わけまえがほしいんだな。とぼけんじゃねえよこんな時間になんで俺
がこんなとこでこんなカッコしてへばりついてると思ってんだ。
そうよ。天下の大泥棒、鼠小僧次郎吉てな俺のこった。うるせえいいんだよ江戸
時代だろうが縄文時代だろうが。思いつきで言っただけなんだからよ。
いいか? このビルのテナントに(株)霞宝飾てのがあるだろう。そこからよ。
俺ァ仕事してきたってわけよ。なに? なに盗ったかって、んなこた掃除のおっさ
んの知ったこっちゃねえよ。いいんだよ。時価数千億円てシロモンなんだからよ。
心配するこたねえ分け前はちゃんとやる。なに? 「死の乙女」? おう。そうい
う通称のスーパールビーよ。よく知ってんじゃねえか。
ああっおいっ! どこへいくっ! 待てったら……つってる間に飛んでっちまい
やがった。見かけによらず気の短えおっさんだな。畜生。それにしてもヤベぇなあ。
守衛でもつれてこられた日にゃ、目もあてらんねえ。死ぬよりゃマシだが。
はあ。
糞。
目がくらんできやがった。手にも力入ってんだか入ってねえんだかわかんね。な
んでもいいから早くしてくれよ。でなきゃダイブしちゃうよ。掃除すんのはあんた
だかんなおっさん。頼むから早くしてくれー。
はあ。
なんだかサイレンが鳴ってやがんな。
なんでえ耳鳴りか。こりゃもうダメだな。終わりだわ。はいサヨナラ。
……。
こか、どこだ?
あんた、なんだよいったい。ムサ苦しいツラしやがって。あ、さっきの掃除のお
っさんか。すると俺は助かったのか。
そうか。
そうかっ。いやあっよかったなあ。助かっ、たあ! いやありがとうありがとう
感謝するぜいやほんっとにっ。なにハシゴ車呼んだ? そうかそうかよくぞ機転を
効かしてくだすった! ぎりぎりだったって? そりゃホントによかったなあ。あ
あ。俺も運がいいなあ。いやありがとう。一生恩にきるって。いやホント。悪かっ
たよなあ、仕事残してきたんだろ? 掃除ってのは世のため人のため、いやホント
に大事な仕事だからなあ。まったく掃除がなけりゃ地球もまわらない、ホーキング
もまわらない、まったくこの世でいちばん大切で尊い仕事ってのが掃除ってヤツで、
こいつがないと、ほんっ、とにもう……なに、掃除のおっさんじゃない? じゃだ
れなんだてめえ。
なにいっ?
(株)霞宝飾の社長っ?
だっだっだましやがったなてめえっ! なにっ? 勝手に勘違いしただあ? ご
まかすんじゃねえよこの因業親父! 糞っ。ちぇっちぇっ。なんてこった!
あん? まだなんかあんのかよ? 指輪はどうしただあ?
…………あ。
指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱――了