#418/1158 ●連載
★タイトル (tra ) 05/07/01 18:53 (197)
寝床(七) Trash-in
★内容
「あー。あー。あー」木俣が発声練習をした。
「いい喉でございます」石川が、まるで合いの手のように追従の言葉を差し挟んだ。
「いやいや、ほんの軽い発声練習です。お恥ずかしい」木俣が謙遜した。
石川は相手の謙遜をにこやかに聞きながら、この人は何かに祟られているのではない
かと真剣に考えた。素人が聞いてもわかるような音程の不安定さも目まいがするほど酷
いが、それにもまして何だこの悪声は。普段は特に気にならないが、義太夫を語ろうと
するとやたらに神経に響く。石川は、軽い発声練習くらいなら聴いておいた方が好感を
持たれるのではないかという判断は、少しどころか、喫茶店で頼みもしないのにシロッ
プを勝手に入れられたアイスコーヒーのように、とても甘かったことを痛感していた。
そしてその判断を責めるかのようにこめかみがひくひくとけいれんしだした。自分だけ
かと思ったら、デスクの上の灰皿がカタカタと小さな音をたてて震えている。灰皿も苦
痛らしい。不思議なもので何となく連帯感を感じる。お前もか、灰皿。石川は心の中で
語りかけた。
「あー。っんっん。あーあー」
今度は、灰皿だけでなく、壁にかけてある時計のガラスがビリビリと震えだした。甚
大なストレスのためか頭痛がする。おまけに胃も痛い。部屋の隅にある観葉植物の葉が
少ししぼんだように見えるのは気のせいだろうか。何だか考えが上手くまとまらなくな
ってきた。軽い発声練習でこれなら、本気で義太夫を語ったら一体どうなるのか。想像
するだに怖ろしい。
「あー。あーあー」さらに木俣が声を高めた。
窓ガラスは割れないだろうか。不安が石川の頭をよぎった。もしガラスの破片が落下
したら事故になってしまう。石川は木俣の声量に比例して激しさを増す頭痛をこらえな
がら、とっさに窓ガラスに目をやった。木俣の声は目にも効くようで、焦点がうまく定
まらなかったが、その衝撃は窓ガラスを破壊するほどのものではなく、ビリビリと震え
るということもなかった。石川は木俣の悪声に雄々しく耐え忍ぶ窓ガラスの頑丈さに嫉
妬すら感じた。ひょっとしたら―石川はぼんやりと窓を眺めた―強化ガラスを嵌め込ん
でいるかもしれない。石川がそう思ったとき、ガラスの向こう側を一羽のカラスが力な
く落下して行くのが見えた。
だめだ。もう限界だ。このままここに留まっていると、頭をかきむしりながら、「下
手ですねー」とか「社長さん、世間では『語るプルトニウム』って言われてますよぉ」
などと、明るく口走ってしまいそうだ。
「しゃ、社長さま、私はこれから受付の様子を見に行きたいと存じますが」
「ああ、そうでした。お世話をかけます」
石川は最後の気力を振り絞って立ち上がると、駆け出したい気持ちを懸命に押さえ込
み、ゆったりとした足取りでドアに向かった。
「社長。重田です」石川がドアのノブに手をかけたとき、扉の向こう側から声がした。
「おお、重田か」
石川がドアを開けると重田が立っていた。「遅くなりました」
「いや、ご苦労」よほど待ちわびていたと見え、木俣が立ち上がった。
「大変お待たせをいたしました」
「いやあ、ご苦労ご苦労。まあ、こっちに座りなさい」木俣が重田を手招きした。
「では、社長さま、私は受付に」
「石川さん、ちょっと待ってください」悪魔のような木俣の声が石川を呼び止めた。
「重田、出欠の話なんだから、石川さんにも一緒に聞いてもらった方が都合が良くはな
いか」
「あるいはそうかもしれません」重田が答えた。
「では、石川さん、恐縮ですが、もう少しご辛抱いただけないでしょうか」
「もちろんでございます」石川の声が思わず裏返った。「確かに、同席させていただけ
れば出欠の確認が二度手間にならず効率的だと思います」
そして、石川は内心の気落ちを悟られぬよう、やはりゆったりと足を運び、泣きたい
気持ちをこらえ、元の場所へと戻った。あぁ、一刻も早くこの場を離れたい。また「軽
い」発声練習をしたがらないとも限らない。重田さんが、社外の人間はご遠慮していた
だきたいとか何とか適当に言ってくれればいいのに。この気のきかないバカタレが。
「会場の準備はどうですか」石川に続き重田がソファーに座ると木俣が問いかけた。
「はい。すべて滞りなく進んでおります」
「板前も来ていますか」
「本日八時より仕込みをしております」
「師匠はどうしました」
「竹光先生もすでに到着しております」
「では、挨拶に行かねば」
「いや、社長、それがその、先生は体調が少しすぐれないようで控え室で横になってお
いでです。ですから挨拶はご遠慮されたほうが」
「それはいけませんね」
「いやその、体調が悪いといっても、胃が少し、その、えー、緊張なさってるんじゃな
いでしょうかね。この大舞台の直前ですから」
「意外にアガリ症なのかな」
「はい。社長の、あのひど・・・いや、えー、美声をですね、間近で聴かされる訳でご
ざいますから、距離が近い分だけ、声の威力を存分に味わうということで、それだけ恐
怖を、いやその、つまり、えーっと、聴覚が破壊を、いやいや、あれなんです、あの
ぉ、先生は職業柄聴覚が鋭いですから、そのぉ、何と申しましょうか、社長の美声の威
力をですね、このぉ、知り尽くしておいでですから、自分の三味線でそれを損なっては
いけないという恐怖と申しましょうかプレッシャーと申しましょうか、まあ、えー、芸
を極めた方にしか解らない、ご苦労がおありかと」
「そうか・・・それで緊張なさっているのか・・・」木俣はそう言うと、ゆっくりと腕
組みをした。そして目を瞑り、ため息をつくと天を仰いだ。「・・・プロだな」木俣が
深い感動を込めてつぶやいた。
「私も胸を衝かれる思いです」重田も神妙な面持ちで応えた。
「その期待に背いてはいけない」木俣の目付きが鋭くなった。
やはり、木俣はひとかどの人物だと石川は改めて思った。カラスを撃ち落とすほどの
悪声の持ち主ではあるが、木俣には成功者の持つ独特の雰囲気があった。
「そうだ。高山商事の会長に確認はとりましたか」
「真っ先に確認いたしました」
「いやあ、ご苦労。この高山商事の会長っていうのがですね」木俣が石川に顔を向け
た。すでに先ほどの目付きの鋭さはあとかたもなく消え去り、その表情は好々爺然とし
た笑顔を通り越してやや締りの無いにやけたものになっていた。「たいへんに義太夫が
好きでねえ。へへ。へへへへ」
「それでは今日の義太夫の会を楽しみにしていらっしゃるでしょう」いくら義太夫が好
きでも今日の会を楽しみにしているような命知らずはいまいと思いながら、石川が言っ
た。
「それがね、前回ちょっとした手違いで声をかけられなかったんですよ」
「おやおや、そうでございますか。それはそれは」石川は、一面識もない高山の遺憾を
代弁するかのように顔をしかめた。「高山様もさぞかし無念であったことでしょう」け
っ、運のいい奴め。
「その後で、恨み言を言われてしまいましてね。なんでも、ウチと取引してるのは私の
義太夫が聴きたいからだなんてねぇ。話半分だとしても嬉しいじゃありませんか。へへ
へへへ」
半分どころか1%の真実すら含んでいないだろう。「では、高山商事の会長さんは今回
の会を喜んでいらっしゃるでしょう」
「どうだった。喜んでたろう」木俣が重田に訊いた。
「もちろん、非常にお喜びでした」
「そうだろう。ふふ。んふふふふ」
「実は、会長さんが病気で入院されておりまして、それで見舞いを兼ねて今回の会のこ
とを伝えに行ったんですが、社長の義太夫が会があるなら、すぐに退院して聴きに行く
と申されまして」
「そうか。病気だったのか。引退しても不思議じゃない歳だからな。いくつだった」
「確か74です」
「で、どうした」
「それから、点滴の管を引っこ抜きまして、ベッドから立ち上がったまではよかったの
ですが、やはり具合がすぐれないようで、立っていられないんです。で、会長さんがお
っしゃるには、這ってでも行きたいところではあるが、会の途中で倒れて救急車で運ば
れるなんてことになってしまったら、他のお客様に迷惑だから、今回は新築披露のパー
ティーには顔を出すけれども、その後の義太夫の会の出席は見合わせる、と」
「そうか。それは可哀想になあ。前回も来られなかったのに」
「会長さんも非常に残念がっておられました。膝に乗せた手を固く握りしめまして、こ
れがぷるぷると震えだしたかと思うと、やがて手の甲にポトリポトリと涙が落ちて、し
ばしの沈黙の後、絞り出すような声で、『無念だ』と、こう申されておりました」
「そりゃあそうだ。すぐ義太夫が始まるというのにその直前に帰るんじゃあ・・・でも
病気じゃ仕方がない。可哀想になあ。じゃあ、こうしよう。2〜3日したら、私が見舞い
に伺って、その時に思う存分枕元でみっちりと語って聴かせよう」
「えぇ、そのぉ結構な計らいかと存じます」重田が少し言い淀んだ。
「じゃ、すまないがスケジュールの調整をしておいてくれ」木俣から、先ほどの浮かれ
た調子が消え去っていた。優しい人だけに、高山会長の病気を本気で心配しているの
が、良くわかった。「あれも苦労したからねえ・・・。ほら、バブルのときにゴルフ場
開発に一枚かんでしまって・・・。せめて、これぐらいの希望を与えておかないとね
え。あんまりがっかりして、ポックリ逝ってしまうなんて事になったら大変だから」
「お、仰るとおりです」また重田が言い淀んだ。木俣の言葉どおりに実行されたら、そ
れこそ本当にポックリ逝ってしまうことを懸念したのだろう。
「JKKの倉本はどうした」
「はい、倉本さんは、商用でアメリカに行くのだそうです。と申しますのは、アメリカ
のとある州が工場の誘致をしておりまして、これが大変に良い条件なんだそうです。
で、このタイミングを逸すると、今後の厳しい競争に遅れをとると考えておられまし
て、社運を賭けたアメリカ視察を敢行するのだそうです。そういう次第で、主だった社
員を連れて、今日の夕方に成田からアメリカに行くそうです」
「うん、そうか。ま、この不景気に結構な話じゃないか」
「で、まあ、そういう次第で、夕方には成田に行かなければならないので、新築披露の
パーティーには出席するけれども、その後の義太夫の会は、後ろ髪を引かれる思いでは
あるが遠慮させて頂くと」
「わかりました。良い話じゃありませんか。いや、めでたい」木俣が気のない口調で言
った。「そうだ。あれはどうした、ほら、日比野工業の社長は」
「それがですね、日比野さんがですね、そのぉ、急な受注が大量にありまして。社長自
ら油まみれになって働いておりまして。ええ。中国向けで。もちろん中国といいまして
も中国地方ではなくて、中華人民共和国のことでして。レッドチャイナでございます。
レッドチャイナといえば中華人民共和国で。ブルーダイヤは洗剤で。へへへ。まあご存
知の通り、中国というのはですね、13億もの人口を抱えておりまして、そこを狙って海
外からの投資も盛んになっておりまして、昨今は中国の躍進が目覚しくて、世界の工場
なんて言われておりまして、ただまあ、中国の金融機関の不良債権比率というのもあな
がち軽視できない問題で、しかもこれに人民元改革の問題まで絡んできまして、それは
もう、ブッシュの圧力がどうあろうと」
「こらこら。落ち着け、重田」木俣が重田の話をさえぎった。「いつ私が中国経済につ
いて質問した。私は、日比野の社長は来るのか来ないのかを訊いたんだ」
「はい、そういうわけでございまして、新築披露のパーティーには是非出席させていた
だくが、納期に遅れてしまって、次からの取引に影響があると大変ですので、その後の
義太夫の会は涙をのんで欠席すると」
「わかったよ。事情があるなら仕方がない。それならそうとすぐに言いなさい。何です
か。人民元と何の関係があるんです」
「申し訳ありません」
「ファイブポイントはどうした」
「ファイブポイントの荻野さんは、えーっと、うーんと、えーっと、そのう、あのう、
つまり、なんですね。そのう、あれなんです。まあ、何なんですよ。えー、何でしょ
う?」
「私が訊いてるんだ」
「ええ、そうです、もちろんです。あっ、あれです。工場見学だそうです。ええ。何で
も長野に先進の工場があって、主だった社員を連れて行くんだそうです。本当は、朝7時
の出発予定だったんですが、世話になってる社長の自社ビルの新築披露なら、是非とも
お祝いを申し上げたいと。一言でいいから祝いの言葉を伝えたいとおっしゃってまし
て。で、社長にお祝いを申し上げてから、すぐに長野に行くんだそうです。『すぐに』
なんだそうです。そこのところをとても強調していらっしゃいました。というのも、そ
の長野の工場というのが生産効率が非常に良いんだそうで、これを見ておかなければ
後々生き残ることは出来ないのではないかと、大変に危惧されておりまして。ただま
あ、荻野社長の憂慮ももっともな事で、ご存知のように、国内生産ということになりま
すと、コスト的には海外、まあハッキリ言って中国なんかには到底太刀打ちできないわ
けでございまして、もう付加価値、ハイテクに走らざるを得ないんですね、生き残るた
めには。ただ、今現在は優れた技術があったとしても、年々中国の製品も品質を上げて
おりまして、これに安い人件費、これでもって生産されてしまうと二進も三進も行かな
いということでございまして。ただまあ、私が思いますに、いくら中国が世界の工場な
んて言われていたとしてもですね、問題がないわけではございませんで、海外からの投
資が過熱気味というのもさることながら、産業を育てるべく役割を担った金融機関の不
良債権比率の高さというのもあながち軽視できない問題で、しかもこれに人民元改革の
問題まで絡んできまして、それはもう、貿易赤字に苦しむブッシュの圧力がどうあろう
と」
「待て重田。お前は何が言いたい」木俣が不機嫌そうに言った。
「ええ、ですからその、荻野社長の予定を」
「じゃあ、早く言いなさい」
「そういう訳で、新築披露のパーティーで社長に一言祝いの言葉を伝えたら、その後の
義太夫の会は、断腸の思いではあるが、欠席をすると」
「それならそうと早く言いなさい。事情があるなら仕方がないって言っているでしょ
う。もったいぶった話し方をするのはよしなさい。なんだって人民元の講釈までするん
です」
「申し訳ありません」
「粕谷建設はどうです」木俣が早口に言ったときデスクの上の内線が鳴った。
「粕谷建設の広野さんは」重田が言いかけたときに、「社長さま」と石川が割り込ん
だ。「内線が鳴っておりますが」
「ちょっと失礼」木俣は立ち上がるとデスクの上にある電話を取り、一言二言なにやら
話すと、すぐに受話器を置いて、石川と重田の方を向いた。「新藤さんが、一階におみ
えになっているようなので、ちょっと挨拶をしてきます」そう言ってドアの前まで行く
と、振り返って付け加えた。「石川さん、私は5分で戻ります。そのままお待ちくださ
い」