#419/1158 ●連載
★タイトル (tra ) 05/07/01 18:55 (143)
寝床(八) Trash-in
★内容
不機嫌さを隠しきれなくなった木俣が去ると、強い緊張から解放されたときに感ずる
弛緩した空気が社長室を漂った。石川はあんなに苛々した木俣を見るのは初めてだっ
た。せめて、もう少し重田がまともな受け答えをしていたなら、と思わないでもなかっ
た。
石川は、ふと重田という男のことを考えた。あと数年で定年を迎えるであろう初老の
男のことを。髪は七三に分けられ、きちんと撫で付けてある。グレーがかったスーツに
眼鏡。どこにでもいるような平凡な男だ。他人との共通点を探すのは簡単だが、違いを
見つけ出すのは難しい。満員電車で出社し、やはり満員電車で帰宅する・・・日曜の午
後はテレビ東京のゴルフ番組で時間をつぶし、やがて受給される数年後の年金を憂い、
定年後海外に移住した夫婦を特集した番組があれば興味深くそれを見つめる・・・だ
が、実行に移すほどの行動力はない・・・。先ほどの木俣との会話を聞く限りではおそ
らく大して仕事はできないだろう。なぜこの程度の人物が、義太夫の会を取り仕切るこ
とになったのだろう。いや、違う。逆だ。大して仕事が出来ないからこそ、皆の嫌がる
雑事を押し付けられたのだ。会社という組織はそういうものなのだ。石川は、組織とい
うものに対する義憤を、そして重田に同情のような、憐れみに近い何かを感じた。
「社長さまも、狙いすましたかのように欠席のところばかり聞いてきますね」苦笑混じ
りに石川が声をかけた。
「ええ・・・そうですね。狙いすましたように・・・ま、狙うも何も、誰も来ないんで
すけどね」
「ほほう。そうですか」石川はにこやかに答えた。そして稲妻に打たれたかのように唐
突に事の重大さを認識した。「だだだだ誰も来ないっていうことは、どどどどどういう
ことですか」すでに憐れみに近い何かは晴れやかに吹っ飛んだ。
「誰も来ないっていうことは、誰も来ないっていうことです」
「しししし新築披露のパーティーですよ」
「いや、新築披露のパーティーには皆さん来るんです。ただ、その後の義太夫の会を、
それぞれに理由をつけてキャンセルしたんです。全員」
「そそそそそれじゃあ、会はどうなるんです。いや、その前に社長さまのメンツが」
「会もメンツも丸潰れです」重田が淡々と答えた。
「そんなそんな、重田さん、あっさりと言われてますが、これはとてもマズイですよ」
「石川さん。もうどうしようもないんです」重田は開き直ったのか、ソファに体を預
け、妙に余裕たっぷりな口調だった。
「いやいやいやいや、あにはからんや、あにはからんや、何か打つ手があるはずです」
「いや、もういいんですよ。会もメンツも潰れてしまえば」
「良かないですよ重田さん、絶対に良かないですよ」
「このビルは工事を急がせて無理に早く完成させたんですよ。なぜだか分かりますか」
「いや」
「12月14日に忠臣蔵を義太夫の会でやりたかったんですよ。新しいビルで」
「はあ」
「討ち入りの日ですから」
「ああ、なるほど」
「確かに社長は立派な方ですよ。手前味噌のようですが」
「それはもう立派な方です」
「しかしこれは行き過ぎです」
「いや、お言葉を返すようですが」
「違うんですよ」重田が石川をさえぎった。「そういう問題ではないんです」そして一
瞬の間を置き、「下手なんです。下手すぎるんです」と絞り出すように言った。「人に
聴かせていいものと悪いものがある」
「しかしこういう形で会が中止になるのはあんまりです」
「これは報いですよ。嫌がる相手に、あの下手っぴいな義太夫を聴かせたことへの天罰
です」
「しかし、いくらなんでもこうした形での中止は何とか避けなければ」
「あれは公害です」
「いけません、本当のことを言っては」
「実は、私はもうあと何年かしたら定年です。最後の仕事としてどうにかこの問題を解
決しておきたいんです」
「すると」石川は一条の光がさしてきたような気がした。なんだ、もったいぶらずに言
ってくれればいいのに。「何か解決策が」
「無いことはないのです」
「それはいったいどのような」
「私の最後のご奉公だと思っています。若い人にはできない」
「ええ」石川は身を乗り出して力強く頷いた。
「石川さん、私はね、地元の高校を卒業するとすぐにこの会社に就職しました。だから
とてもこの会社に愛着があります。この会社の成長を一社員として体験できたことをと
ても誇りに思っているんです」
「うらやましい限りです」
「あれはもう40年近くも前になりますね。雨がしとしとと降る底冷えのする寒い冬の日
のことでした」
「なるほど、40年ですか・・・それがその・・・」
「それが今の社長と会った初めての日でした」
「はあ」
「私はまだ高校生でしてね」
「はい」
「社長もまだ若かった。まだ二十代でした」
「そうでしょうそうでしょう。で、重田さん、その、解決策というのは」
「いやいや、まあ聞いてください。実は私は大学に行きたかったんですが、実家が貧し
くてね。働かなければならなかったんです」
「それはそれは」
「というのも父親を早くに亡くしましてね。私は中学二年生でした」
「なるほど」
「白血病でした。痩せ細って骨と皮だけになった父が、私の手を握ってこう言うんです
よ、重夫、母さんと弟達のことを頼んだぞ、と。・・・私は、何も言えずにただ泣けて
泣けて・・・涙がポロポロと頬を・・・」
「ははあ、なるほど・・・・・・あのぉ、お取り込み中大変恐縮なんですが、そのぉ、
できれば社長さまがお戻りになる前に解決策の件を・・・」
「ちょっと、石川さん」重田が険しい顔付きで石川を見据えた。「人の父親が、死のう
か生きようかという、いまわの際に、義太夫がどうしたというんです。何なんですかあ
なたは。不謹慎な」
「いや、決してそういうつもりでは・・・これは大変失礼しました」
「・・・二日後でした。父が死んだのは。あの時、嘘でもいいから父が安心するような
言葉をかけてやれなかったことが悔やまれましてね」
「そうですか・・・この度はどうもご愁傷様です」石川が頭を下げた。
「いや、これはご丁寧にどうも」重田も頭を下げた。
「幼い弟が二人いたので、私は働きました。定時制の高校に通いましてね」
「それはそれは・・・で、その解決・・・」言いかけた石川を、重田は厳しい目つきで
にらんだ。石川は仕方なく「解決は、つまり、重田さんが働くことで、ご家庭の経済問
題は解決されたわけですね」と割り切れぬ思いを抱いたまま、ごまかした。一体なぜ自
分は、この切羽詰った状況で重田の貧乏青春記を拝聴しているのだろう。
「贅沢はできませんでしたがね・・・」重田は再びしみじみと語りだした。「今でも思
い出します・・・初めてもらった月給を、お袋が仏壇の前に置いて、『お父さん、重夫
が立派になってお金を稼ぐようになりました』といって、さめざめと泣きだして・・・
その、お袋も、お袋も・・・今年の春に・・・」
「お亡くなりに?」
「『冬ソナ』のロケ地を巡る韓国ツアーなんかに参加したりしやがって・・・・・・八
十を越えた婆さんがヨン様狂いなんて・・・みっともない。親父が生きていたら何と言
うか・・・」
「はは、ははは。なるほど。そうですか」
「杖に、ぺ・ヨンジュンのシールなんて貼ってるんですよ。みっともないから私は見つ
けるたびに剥がすのですが、昼間私の居ないときに、また貼り直すんですよ」
「昼間でしたら、奥様がご注意なされば・・・」なぜ俺は、こんなアドバイスをしてい
るのだろう。
「女房のケータイの待ち受け画像がすでにぺ・ヨンジュンなんです」
「ははあ」
「いやいや、話が脱線しました。とんだご迷惑を・・・さあ、話を元に戻しましょう」
「いえいえ、とんでもない。大変興味深く聞き入ってしまいました」石川は、ようやく
まともな会話ができる喜びから、いつものように心にもないほめ言葉を述べると、身を
乗り出した。重田は話を元に戻すと言ったが、一体どんな解決策を提示するつもりなの
だろう。本当にそれは義太夫の会を開催に導く有効な手立てとなり得るものなのか?重
田の能力を疑う気持ちはあったが、自分にこれといったアイディアが浮かばない以上、
その策にすがるしかない。石川は身を硬くして、重田が再び口を開くのを待った。
「実はね、石川さん。高校の同級生に、岡井さんというきれいな娘さんがいましてね」
「へっ?」そ、そこに話が戻るのかっ。石川は思わずのけぞった。
「同年代の男子は皆あこがれていました」
「そ、そうですか」石川は、かろうじて同意した。
「他人事のように喋ってますが、私もその一人でした。ふふ」
「甘酸っぱい思い出ですね」いいかげんにしやがれ、この極楽トンボめ。お前の初恋な
んて知ったことか。
「といっても私は遠くから眺めているだけでした。デートどころか話しかける度胸すら
なくってね・・・もっともデートに行くお金もありませんでした・・・。すぐ下の弟が
勉強がよくできたので、全日制の高校に入りましてね・・・」
「そうだったんですか」じれったいな。早く終われ。
「私は、自分が稼いで、弟にはいい大学に入って欲しかった。だから私は、大学へは行
かずに、この木俣製作所に就職したのです」
「いや、これは大変にご苦労なさいましたね。もちろん今も義太夫の会のことで、ひと
かたならぬご苦労なさっているわけですが」
「私だけが特別苦労したわけではないんですよ。日本全体が、今ほど豊かではなかっ
た・・・」
「全くその通りです。この国全体が貧しかったのです。で、その後豊かになった日本の
木俣製作所の義太夫の会の問題は、一体どのように・・・」
「高度成長期の前ですからね」
「そうですそうです。まったく仰るとおりです。なるほど高度経済成長の前ですから
ね。で、その、高度成長とともに躍進された木俣製作所の義太夫の会の問題は一体いか
ように解決が」
「お待たせしました」木俣が戻ってきた。