AWC    8 鍵盤楽器


        
#4759/7701 連載
★タイトル (GSC     )  96/ 9/22   0:13  (167)
   8 鍵盤楽器
★内容

 生来私は珍しい物好きで、色々な趣味に手を延ばすが、一つとして満足に実ったた
めしがない。
 幾度も夢にまで見て、幼い頃から憧れ続けて来たこと…、しかし今はもう完全にあ
きらめてしまった望みが二つある。一つは、水中を抜き手をきって自由自在に泳ぎ回
ること、もう一つは、ピアノで歌の伴奏や小品をサラサラと弾くことである。


 私が小学1年生に入学したのは昭和19年(1944年)第2時大戦中のことで、
盲学校の講堂には古ぼけたピアノが1台あって、生徒には一切触らせないことになっ
ていた。
 ある日の音楽の時間、先生の来るのが遅かったので、私は悪戯半分にピアノを鳴ら
して、同級生から先生に言いつけられたことがある。
 ピアノの前に座らされて、
「そんなに弾きたいのなら、みんなの前で弾いてみろ。」
 と先生に言われ、おそるおそるやってみた。
 いかめしく並んだ鍵盤に、ともすれば萎縮しそうな指で、それでもポツン ポツン
と『白地に赤く…』を弾くつもりだった。ハーモニカなら吹く自信があったが、ピア
ノの場合、ミとファ・シとドの間が半音差になっているなどとは知らなかったから、
最初に押した鍵盤の位置によって、曲が長く続く時とすぐ弾けなくなる時があり、な
かなかうまくできなかった。
 5分ほど弾いた頃、いきなり先生に、
「よし、やめえー。」
 と言って背中を一つどやされ、自分の席へ戻された。
 それ以来、ピアノという物が何かしら物々しく近寄りがたい楽器として印象付けら
れたようだ。
 今日のように、学校や家庭においてピアノやエレクトーンを自由に弾ける環境が羨
ましい。


 絶対音感の持主だったS氏は、5歳の時から愛用していたアコーディオンを寄宿舎
に持って来ていた。14ベース30鍵盤のアコーディオンと言えば、さほど上等なほ
うではなかったが、当時の私には、触れるのさえ恐れ多いすてきな楽器に思えた。

 中学3年になって、S氏とは先輩後輩というよりも、むしろ友達として付き合って
もらえるようになり、念願のアコーディオンを借りることができた。
 あんなに大切にしていた楽器を貸してくれたばかりか、弾き方の手解きまでしてく
れたので、私は嬉しくて嬉しくて、毎日寄宿舎の押し入れにこもって練習した。
 〈早春譜〉 〈スワニー川〉 〈波頭を越えて〉など、案外進歩が速かったようで
ある。
 ところが上達するに連れて、S氏の態度が冷淡になり、〈ハンガリア舞曲第5番〉
を教わる頃には、はっきりと面倒くさそうな様子が見えるようになった。私の教わり
方が悪かったのかも知れない。
 そこへ生来の飽き性も手伝って、私はいつのまにかアコーディオンから遠ざかり、
結局4ケ月ほど続いただけで練習をやめてしまった。


 高校2年の頃だと思うが、盲学校に2台のオルガンが寄贈された。1台は寄宿舎の
食堂に、もう1台は教室の前の廊下に置いて、生徒が自由に弾くことを許された。
 私は早速練習する決心をし、バイエルの点字本を借りてきて書き写した。
 当時はアルバイト先から通学していたにもかかわらず、朝早く登校して食堂へ飛ん
で行き、まだ舎生が食事をしている内から練習したり、授業の合間の僅かな時間にも、
急いでオルガンの所へ行ってはブーブー鳴らしたものだ。
 夢中でバイエルの90番くらいまで独習したが、その頃からボツボツ限界を感じ始
めたのと、適当な指導者がいなかったこともあって、またまた数ケ月で棒を折ってし
まったのは不甲斐ないしだいである。
 しかし、中断した理由はそれのみではない。何といっても、音楽の練習には時間と
場所が必須条件である。苦学の傍ら僅かの暇をみて、それも他人の迷惑を気にしなが
らの独習では成果が上がらず長続きしない。いくら無神経な私でも、度々練習をうる
さがられたりすると、ついつい遠慮しなければならなくなる。
 私が常々思うのは、学校や家庭において、十分大きな音で心行くまで楽器練習ので
きる場所と時間の確保が必要だということである。

 大学に入ってからも、なおピアノを弾く望みは捨てず、音楽科の友人に頼んで便宜
を計ってもらったりしたが、やはり時間と場所と楽器の不足に悩まされた。
 今ではピアノよりもヴァイオリンの方により強く興味を引かれるようになったが、
相変わらず、時間と場所の問題は解決していない。


 話は度々前後するが、父の弟で私たちが「大阪の叔父さん」と読んでいた人が、空
襲で焼け出され、一家3人、私たちの家の離れに住んでいたのは、昭和19〜21年
(1944〜46年)頃だったと思う。
 一人娘のD子ちゃんは、当時数え年13歳と言っていたから、私より五つ年上だろ
うか? 後に聞いた話では、叔父夫婦に子供が無かったので、姪に当たるD子ちゃん
を養女にもらって育てたとのことである。そうした境遇のせいか、彼女は「我慢強く
てしっかりした子」という評判で、確かに優しく思慮深いお姉さんだった。
 そのD子ちゃんが使っていたおもちゃのピアノを私にくれることになったのは、叔
父たち一家の気遣いによるものだが、子供の私はただ嬉しくて、学校が長い休みにな
り寄宿舎から家に帰ると、毎日練習したものだ。
 卓上式グランド型3本脚のいわゆるおもちゃのピアノで、鍵盤は8音・一オクター
ブしかなかったが、私には贅沢な楽器だった。付録にはまだ新しい楽譜の本も付いて
いて、D子ちゃんが大切にしていたことがよく分かる。私も乱暴に扱ったつもりはな
いが、D子ちゃんがハラハラするようなことはあったに違いない。けれど、いつもそ
のピアノをあちらこちらと持ち歩き、童謡や唱歌を弾いて楽しんでいたから、そんな
風に愛用していたということで納得してもらうしかない。
 八つの鍵盤の一音一音の響きを私は今も耳の奥に呼び起こすことができる。ド・レ・
ミはそれぞれ微妙に異なる倍音を奏で、ファは綿で包んだような柔らかい音、ソは安
定した重みのある音、ラは私の好きな優しい音、シと高音のドは愛らしい音色だった。
 しかし、1オクターブ・8音ではやはり音域が足りない。高音も低音も全て中音の
八つの鍵盤で代用しなければならないのはつまらなかった。
 それでも、〈白地に赤く〉 〈子狐〉 〈チョウチョ〉 〈鳩ぽっぽ〉 〈結んで開い
て〉 〈靴が鳴る〉 〈蛍の宿〉 〈兔と亀〉 〈桃太郎〉などは、代用の音を使わずに
弾くことができるので嬉しかった。
 D子ちゃんは遠慮してそのピアノに手を触れなかったが、一度だけ彼女が弾くのを
聞いたことがある。〈兔と亀〉・そしてもう1曲は何だったか?なにしろ非常に速い
テンポで演奏していたのでびっくりした記憶がある。

 叔父の本職は浪曲家だったので、私たちは「浪花節の叔父さん」とも呼んでいた。
ラジオに出演するほど有名人ではなかったが、叔父は正真正銘プロの浪曲家として、
朝鮮半島から満州まで講演して歩いた人である。
 離れへ叔父が引っ越しして来た当初、それはまだ戦時中だったが、村の人たちを大
勢招待して浪曲を聞かせようという話になり、私は下の兄と二人で近所中にふれ回っ
て、その晩私の家の土間には30人くらいの人が集まった。
 さて、浪花節を始めるに当たり、前座として私にピアノを弾いて聞かせるようにと
父が言ったが、そんな急な提案に私は反発し、かたくなに拒絶して、なんと言われて
も絶対にピアノを弾こうとしなかった。
 大人たちの感覚でいえば、ちょっとした余興に歌を二つか三つも弾いて聞かせれば
座がほぐれるし、後の浪曲もやりやすくなる。もし間違えてうまく弾けなかったとし
ても、どうせ目の見えない子供が弾くおもちゃのピアノだから、恥ずかしいどころか
むしろ褒められるくらいのものである。
 ところが、当人の私にはいっぱし大人のようなプライドがあって、
「ピアノといっても、たかが8鍵しかないおもちゃのピアノ。ちゃちな音しか出ない
し、ろくな歌は弾けない。そんなものをみんなに聞かせられる訳がない。人を馬鹿に
するな!」
 という自負があったのだ。
 厳格な父も人前で私を叱り飛ばす訳にいかず、叔父も諦めて浪曲を始めたのだった。
 さて、浪曲の講演が終って客たちが帰った後、最後に千葉県から遊びに来ていた母
方の親戚の親子が夜行列車で帰ることになった。すると父は、手みやげの品が何も無
いからと言って、事もあろうに例のおもちゃのピアノを、4歳くらいの子供に持たせ
てやってしまったのである。
 私は惜しいやら悲しいやらで、夜の庭先に出て一人こっそり泣いていた。すると父
がそれと知って、
「人に弾いて聞かせられぬようなピアノなどあっても仕方あるまい。」
 と言い、さらに付け加えて、
「せっかく遠くから来て、みやげがなんにもなしじゃあ気の毒だからなあ。」
 とも言った。
 30分ほどしても、まだ私が庭で諦めきれずにいるのを見て、父はさすがに可哀そ
うだと思ったものか、
「向こうの部屋で姉ちゃんがレコードを掛けているから、行って聞かせてもらって来
いや!」
 と慰めてくれた。
 ピアノが無くなってそんなにも悲しかった私だが、考えてみると、D子ちゃんもそ
れと同じ気持ちを味わっていたのである。


 余談ついでに、浪花節のことをもう少し書いておく。
 上に述べた浪曲独演会について、演目や内容・観客の反応がどうであったのか、小
学1年生の私にはよく分からなかったが、以後講演がしばしば行われた記憶はない。
 何より残念だったのは、戦災で家財道具と一緒に三味線を焼失してしまい、叔父は
伴奏も合いの手も無しで浪曲を演じなければならなかったことである。それはカラオ
ケのない流行歌よりもはるかに難しい。
 その後、叔父はこうも言っていた。
「皆に浪花節を聞かせてやるのはよいが、聴衆の態度が悪いからなあ。お茶を飲みな
がらしゃべってばかりいるような連中に、いくら一生懸命聞かせてやっても張り合い
がない。」
 観客の村人たちにしてみれば、どうせただ(無料)の浪花節だと思うから、あまり
真剣に聞かなかったのかも知れないが、聞く耳さえあれば、きっと素晴らしい芸術だ
ったに違いない。

 ラジオの〈素人のど自慢〉を聞いている時に、叔父が言った。
「俺が出たら一発で合格の鐘を鳴らしてみせるが、本職だということはすぐに分かっ
てしまうからなあ。」
 当時の素人のど自慢は非常にレベルが高く、プロ以上の実力がないと合格できなか
ったから、私は子供心にも、叔父の法螺だと思っていた。
 ところが、中学生になったある日、叔父が何気なく口ずさんでいる浪曲の一節を聞
いて、私は深い感銘に打たれた。うまいとか見事だとか言うレベルではなく、それは
神業に等しい! 最高音を美しい声で朗々と歌い上げ、軽やかに揺り動かして小節を
廻す。その技量は正にプロの物であった。
 それにしても、私が大人になってから、何故叔父の浪曲を聞かせてもらおうとしな
かったのか、今思うと不思議であり、後悔もしている。


                  [1996年3月12日   竹木貝石]
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