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美津濃森殺人事件 8 永山
★内容
新しい登場人物
松井平太(まついへいた) 高井戸喜子(たかいどよしこ)
利根音実(とねおとみ) 利根志津香(とねしづか)
利根洋介(とねようすけ)
黄色い光の下、書類が乱雑に散らばっている。一見、どこに何があるのか分
からない。しかし、工場長の松井平太には、ある程度分かっていた。
「あぁ、あーあ」
大きく伸びをした松井平太は眼鏡を外し、瞼の辺りを指でもんだ。もう片方
の手には、火の着いたタバコがあった。
白い物が多かった彼の髪は、この数日で、さらにその勢力分布が際だつよう
になったようだった。鼻髭の方にも、同じことが言えよう。
「どう考えても、従業員の職がなくなる。相手の申し出が本当だとしても、枠
が足りん」
その声が聞こえたか、高井戸喜子は帰る準備をしていた手を止めた。
「何度も申しましたように、莫大なお金が入るんですから、こちらで退職金を
充分に支払えば、納得すると思いますわ」
「それでは、私が納得いかんのだ」
工場長は、何度も繰り返した台詞を口にした。
「いいですか。奥様の方は賛成されているんですから」
「もっと多くの金を出せばっていう条件でね」
高井戸は、肩を落とすそぶりをした。短い毛のカールが、ちょっと揺れる。
「さあ、今夜はもう帰ろう。今のままじゃ、どうにもならん」
松井はタバコを銀色の灰皿でもみ消すと、ガタンと音をさせて立ち上がった。
「上着、どうぞ」
高井戸は、壁にかけてあった松井の上着を取り、手渡してくれた。そのとき、
彼女が上着のポケットに、ある物を滑り込ませたのを、松井が知るはずもなか
った。
「やあ、ありがとう」
目をしょぼしょぼさせながら、松井は高井戸に礼を言った。
「おい、帰ったぞ」
若いくせに、中年じみた帰りの挨拶をしたのは、山藤礼夫だった。亭主関白
願望が強いのだろう、彼は家の中だと、常にこんな話し方をする。
「お帰りなさい、あなた」
千恵美は笑顔を作って出迎える。
「飯、何かあっさりした物、くれ」
「飲んでいるのね。うまくいかなかったの、今日は?」
「いいや! そんなこたあないぜ。パトカーがピポパポ走り回っていた割にゃ
あ、よくやった方だ。それより飯! 茶漬けでいい」
「はい、今すぐに」
言葉こそしっかりしてるものの、夫の醜態に呆れた千恵美は、さっさと背中
を向けて、台所に引っ込んだ。
(彫弥の坊やと比べたら……)
千恵美は思った。
(どっちがいいかしらねえ……。暴力ふるわなきゃ、礼夫の方が頼りがいはあ
るんだけど。彫弥はお偉いさんのボンボンだから、お金を持ってるし……。で
も、いつまでも親父さんに口を出されそうだしなあ)
そのとき、ふっと彫弥の昼間の言葉が、千恵美の脳裏に蘇った。
(コロス……)
一瞬、思考が停止した千恵美。が、すぐに長い髪を振って、意識をはっきり
させた。
(無理よ、無理。礼夫を……。ちょっとやそっと飲んだって、力は底なしなん
だから。毒薬か、せめて……強烈な睡眠薬でも手に入らない限り……)
「やあ、瀧乃。今、ホテルのベッドの上だ。もちろん、一人さ。地元の人はい
い人ばかりで、非常によくしてもらっている。君が話していた通り、美津濃森
はいい人ばかりだ。
ん? 事件? まあね、始まったばかりだから、何とも言えないが、簡単に
はかたが着きそうにないな。単なる暴行殺人かと思っていたんだが、そう楽に
は、いかせてもらえないらしいよ。ああ、被害者の女子高校生には、そんな痕
跡があったようだね。随分、暴行に興味をひかれているようだけど、どうした
んだい?
え? ただ、女性が殺された事件だとばかり聞いていたのに、大変そうな事
件だから? そうか、僕が気楽に言いすぎたかな。いや、ごめんごめん。女性
全体に対して、配慮を欠いていたよ。
うん、まあ、そういう訳だから、まだ当分、そっちには帰れないな。ま、新
聞やテレビを通じて、僕の活躍を眺めていてくれ。ハハッ。そう言や、まだ、
新聞なんかには出てないだろうね? うん、夕刊に間に合うようにはしなかっ
たからね。ニュースでも流れないだろう。ローカルなら分からないが。朝昼の
ワイドショーネタだから、そっちを見たらいい、気になるならさ。
ああ、これでは時間がもったいないな。こんな話をするために、電話をかけ
てんじゃない。美津濃森の今の様子を君に伝えたいと思ったからさ。それに、
瀧乃の声が聞きたかったし。いや、ほんと。
美津濃森は、全く汚染が進んでいないな。湖を見た限りでは、そんな印象だ
ったよ。ま、実際は違うのだろうけど、表面的にはきれいなもんだ。そうだな、
今回の事件の関係者達と似ているかもしれない。表面はきれいに装っていて、
内面はその実……ってヤツだ。いや、断言している訳じゃない。だが、いきな
り、証人の一人に嘘をつかれたからね。そんな気にもなろうってものさ。
まあ、アップルケーキもまずまずな物があることだし、落ち着いて仕事がで
きそうだ。なるべく早く、きっちりとけりを着けるつもりでいるから、すぐに
また、君と会えるだろうね。じゃあ、おやすみ」
桑田は、こんな調子で電話を切り上げると、携帯電話をベッドの傍らにある
台に置いた。それから、大きく伸びをして、明日からの捜査に思いを馳せてい
った。
「何だ、父さん。帰って来てたの」
家に帰って来るなり、利根音実は、珍しい物でも見つけたかのような声を上
げた。
「何だとは何だ。一家の主が家にいちゃ、おかしいのか」
娘に対し、父親の玄造は、不機嫌そうな表情にもならずに、こう答えた。酒
に酔っているせいかもしれない。
「滅多にいないくせに」
「生意気になったもんだ。どこ、行ってたんだ。それにだ、ちゃんと行ってる
か、高校は?」
「関係ないだろ」
面倒臭そうに手を振り、奥に進もうとする様子の音実に、玄造は言葉を続け
た。
「いや、変な話を耳にしたからな。おまえの高校の生徒が死んだってな」
「え?」
さすがに聞きとがめたらしく、音実は立ち止まった。
「誰が死んだ? 誰から聞いたの」
「『リップ』で聞いた。あそこは聞き耳立てた連中が集まるからな。油断がな
らないが、情報も入ってくる。それで、死んだのが浜野の娘らしいんだな。や
やこしい話になるかもしれん」
「浜野って、浜野百合亜?」
「下の名前なんぞ知らん。それにしても、浜野もこんな大事なときに、娘を殺
されなくてもいいのによ。全く、面倒は御免だ」
それだけ喋ると、玄造は元いた居間に足を向けた。
「ちょっと。死んだってのは、自殺? 事故?」
「知らんよ。それより、音実。母さんはどんな具合いだ?」
急に話を換えられ、音実は言葉に詰まった観だ。
「……相変わらずよ。あんな火傷、しちゃうから。まるで不運だったのね」
「あんまり声、大きくすると、聞こえるんじゃないのか?」
「寝てるよ、この時間なら」
腕時計をかざしてみせながら、音実は言った。
娘の言葉に安心したか、玄造は居間に入って行った。
「火傷、自分はしなくてよかった」
父が久しぶりにこの話を持ち出したためか、音実もまた、久しぶりに母親の
火傷の件を口に出していた。
玄造の妻の志津香は、十三年前の今ごろ、顔と左肩に大きな火傷を負った。
命は取り留めたものの、かなり重い火傷で、その痕跡は一生残るだろうとされ
ている。せめて十三年前に、今の医療技術があれば何とかなったかもしれない
らしいのだが。
火傷の原因は火事であった。夕方に出火したとき、利根の家には志津香の他
に二人の子供がいただけだった。一人はもちろん音実で、もう一人は音実の弟
にあたる洋介だった。火の周りは早く、子供二人を寝かしつけ、自分自身もう
たた寝していた志津香が気付いたときには、もう手に負えない火勢だった。子
供だけは守ろうとした志津香は、焼け落ちてきた梁に左肩と顔をやられたのだ
った。
二人の子供は肉体的には無傷だったが、洋介には精神的障害が残ってしまっ
た。火事以来、洋介は自分の殻に閉じ込もるようになってしまい、加えて極度
に火を恐れるようになった。さらに、仕事中だった玄造が助けに来なかったた
めか、父親へのコンプレックスさえも持つようになっていた。
全くの無傷は音実だけだったが、その彼女は、自分は火傷を負わなくてよか
った等と考える娘になってしまっていた。
火事の原因は不明で、放火ではないかと考えられていたが、結論の出ぬまま、
今日に至っている。
「洋介はちゃんとしてるのかな」
独り言を口にした音実は、弟の部屋を覗いてみた。すでに明りの消されてい
た部屋に、廊下の光が漏れ入る。部屋の中には、様々なおもちゃが転がってい
た。十六才にもなるのに、洋介は自分の部屋に篭り切りになって、一人で遊ぶ
ことが多かった。
「やれやれ。いつも通りね」
声にしてそう言うと、音実はついでとばかり、母親の部屋にも足を運んだ。
「?」
ノブに手をかけたところで、その動きが止まった。志津香の部屋から、声が
するのを察知したらしい。
「電話、してるのかな」
音実はドアから手を放し、足音を立てないように注意する振舞いで、自分の
部屋に方向転換した。
「母さんがこんな夜中に電話なんて、珍し、珍し」
そう呟きながら。
倉敷妙子は朝刊を目にして、あっと叫び声を上げそうになった。
(百合亜が……死んだ?)
信じられない気持ちで一杯になった。昨日、都奈達と一緒に探して回った、
あの百合亜が……。
(都奈達は知ってるのかしら)
次に浮かんだのは、そのような考えだった。自分よりも長い間、探していた
んだから、新聞で読むよりも早く知っていても不思議ではない。
はっと思い付いて、妙子はテレビを入れた。ニュースでやっているかも、と
考えたのだ。が、どうやら一足遅かったらしく、どこの局も百合亜の事件を伝
えてはいない。
(見つかったのが昼ぐらいってあるから、昨日の晩から報道されてたのかもし
れない)
昨夜は、妙子はバイトは早く終わったものの、百合亜の欠席の件で気疲れが
溜っていたのか、家に帰って食事とお風呂を済ませるなり、すぐに休んでしま
っていた。
妙子は幼い頃に両親を亡くしており、しばらくは祖父母に育てられていた。
祖父母も亡くなってから現在までは、大学生の姉と二人で、勤労学生をしてい
る。両親の死は自殺だったが、それを理由に弱い者扱いを受けたくないという
気持ちが姉妹には強く、大学まで出ておこうと、多少の無理を重ねているとこ
ろがあった。
(早く、学校に行ってみなきゃ)
そう思い、妙子は身支度を急ぎ始めた。慌てると、余計に行動が遅くなる性
分の彼女だったが、このときばかりはそうではなかった。
結局、いつもより十五分程、早くに準備ができた。
(お姉ちゃん、また帰って来なかったんだ)
玄関に来てみて、ようやく彼女はそれに気付いた。
妙子の姉は、妹と同様、アルバイトをしている。それも水商売関係で、世間
一般から見れば好ましくない職種かもしれない。
そんなバイトだから、帰りが遅くなること、あるいは帰らないこともあった。
帰った場合は、その証拠にげた箱の上のアドレス帳を裏返して置いておくのが、
姉妹の間の約束だったが、それが今朝は、変化していなかった。
(置き手紙、しなくてもいいかな)
妙子はそんな考えを浮かべたが、学校にも早く行きたかった。
「私の方が遅くなったら御免、秀美お姉ちゃん」
彼女は口に出して、ここにはいない姉に対して謝ると、靴を引っかけるよう
にしながら、外に出た。
彼女の姉は、妙子の帰りが遅いと、ひどく心配する質だった。今のアルバイ
トをしているのも、妹の負担を少しでも減らそうという、姉なりの心意気の表
れに違いなかった。
妙子の姉−−倉敷秀美のアルバイト先は「リップ」という。そこでの彼女の
「芸名」は、「秀美=しゅうび」。
そう、倉敷秀美は古い言葉で言えば、夜は歌姫・秀美に変身し、妖しい魅力
を表立たせることで、生活費や学費を稼いでいるのだった。
−続く