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川島俊介『通り雨』1
★内容
通 り 雨
川島 俊介( 夢 人 )
1
六月も半ばを過ぎていた。
名古屋の夏は暑い。早くも熱帯夜が続いている。ぼくはひと月ほど前からエアコン
を使い始めていた。この頃は、日中はもちろん、明け方近くになってもエアコンは運
転を止めない。金曜の深夜である。時計はもう零時を回っていた。住宅街のどこかに
水辺が残っているのだろうか。閉めきった窓を通して、蛙の声が七階にあるこの室内
に流れ込んでくる。時折、遠く離れた幹線道路から、暴走族の鳴らすクラクションが
響いてくる。
ぼくは一時間ほど前から、パソコンのディスプレイに向かっていた。キーボードを
叩く指先は、休みがちだった。ゼミのレポート作りがはかどらないのである。ゼミで
は英文の文献講読をしている。一回のゼミに一〇頁を全訳、要約した上にコメントを
付けて、三〇分でレポートしなければならない。これが三週間に一度回ってくる。中
学の頃から英語が苦手だったぼくには荷が重かった。ゼミは他にあと二つ、講義を入
れると週に十四コマも授業がある。けれども、さして興味のない授業には代返を頼ん
であったから、実際に大学に行くのは週に二、三日だった。それ以外の日は、昼間は
本を読んだりテレビを見たり、たまには仲間とつきあったりして過ごし、夜中の十一
時頃からレポート作りを始めるのが常であった。十一時を過ぎると街は眠りにつき始
める。目ぼしいテレビ番組も終わっているし、突然の来訪者もない。何かに集中する
にはうってつけの時間である。
電話が鳴った。学生は夜が遅いから、この時間の電話は珍しいことではない。ぼく
はコードレスの子機をとり上げた。電話はほとんど子機で受ける。ぼくは概して長電
話である。電話をしながら用事を足すことができるのは都合がいいからだ。
「はい。川島です」
受話器は言った。
「こんばんは。俊介? わたし小島。遅くにごめんね。今いいかなあ?」
電話は小島由希子からだった。久しぶりだ。ぼくは子機を片手にマウスを動かし、
「上書き保存」のアイコンをクリックした。途中まで作りかけたレポートが消えてし
まってはかなわない。赤いランプが明滅し、ハードディスクドライブが軽い動作音を
たててデータを書き込む。これで落ち着いて電話ができる。
由希子とはこの二月まで教養部で同じL14クラスだった。ドイツ語の授業が一緒
だし必修科目も同じものが多いから、ほとんど毎日顔を合わせる。だから入学して間
もない頃から挨拶ぐらいは交わすようになる。けれども、親しいと言えるようになっ
たのは、その年の五月祭の頃からだった。一昨年のことである。
五月祭では五月最終週の水、木、金が休講になり、土、日を合わせた五日間が文化
祭にあてられる。もろもろのサークルに交じって教養部のクラス単位でも催しをする。
L14クラスも五月祭の催しに加わった。クラスの人数は五〇名程だったが、サーク
ルの方に忙しい者、休講期間を使って帰省する者、アルバイトや遊びに忙しい者など
が抜けるから、実際にクラスの催しに参加したのは十名程であったろうか。その中に、
ぼくと、坂井久美子、脇田淳、小池拓也、そして小島由希子がいた。実際には、この
五人のメンバーが中心になって五月祭の催しをとりしきった。
小池の家では、父親が先代を受け継いで豆腐屋を営んでいる。昔ながらの手作りに
こだわり、限られた小売店にしか卸していないという。味は本物である。これに目を
つけたのが由希子だった。彼女は小池の家の豆腐を使って湯豆腐の屋台を出すのだと
言い張った。
……絶対うけるって。今どきこんな豆腐食べられないんだから。
と由希子は強く主張したが、他のメンバーはあまり乗り気ではなかった。
……こんな陽気のいいときに湯豆腐なんか食べる客がいるか? 無難にたこ焼きくら
いにしとこうぜ。
と説得を試みたが由希子は譲らなかった。
……たこ焼きやアイスクリームなんてみんながやってるって! 珍しいもの出すのが
いいんじゃないの!
当の小池は、皆が由希子に折れて湯豆腐の屋台を出すことに決まってから初めて口
を開いた。
……じゃあ俺、親父に頼んでみるよ。
そういうわけで、L14クラスの出し物は湯豆腐の屋台になった。由希子の安易な
思いつきに振り回されて、小池の父親は、普段より余計に豆腐を作らなければならな
くなった。ただでさえ豆腐屋は朝が早い。五日間にわたる五月祭の期間中、屋台用の
豆腐を作るために、彼はさらに早起きを強いられるはめになったのである。
……これで客が来なかったら、小池の親父さんに悪いよなあ。
……余ったら小島が食うんだぞ。
屋台のセッティングをしながらも、メンバーはまだ由希子の発案に疑心暗鬼だった。
けれども、いざ五月祭が始まってみると、皆の予想に反して湯豆腐は人気を集めた。
スーパーマーケットの豆腐に辟易している客が、時には数名の列を作るほどだった。
湯豆腐は連日完売である。
……ほうら。わたしの言った通りだったじゃない。
最終日、屋台の後片付けをしながら由希子は自分の思いつきを自賛した。他のメン
バーは返す言葉がなかった。
二年間の教養部が終わると、それぞれが学部に進学する。ただし所定の単位が満た
されていればの話である。一単位でも足りなければ教養部に留年となる。毎年5パー
セントほどは教養留年の憂き目にあった。幸いにもぼくたち五人は所定の単位を充足
し、無事に学部に進学することができた。この四月のことである。
同じL14クラスではあったが、ぼくと坂井と小池は教育学部進学課程、由希子と
脇田は文学部進学課程だったから、学部に進学してそれぞれの学科に配属されると、
会う機会もめっきり少なくなった。都合をつけて会う約束でもしない限りは、大学生
協で時折顔を合わせるくらいだった。ぼくたち五人が名付けた「同級会」は、新学期
になってから五、六回はあったろうか。寂しいことに、メンバー五人が全員揃ったこ
とは一度もなかった。アルバイトの都合もあったし、所属するゼミの付き合いもあっ
たからだ。ただ、ぼくには、脇田が「同級会」に一度も顔を見せないことが不思議だ
った。彼は決して人付き合いのいいタイプの人間ではなかったが、教養部の二年間を
通してぼくたち五人の付き合いは大切にしていたからだ。
……脇田は今度も欠席か? 小島、脇田は何で顔を見せないんだ。
ぼくたちが訊いても由希子ははっきりした答えをしなかった。
……さあ。わたしも学科が違うからよくわからないんだ。
……学部に行ったら縁切りかよ。冷たいヤツだなあ。小島、おまえの彼氏なんだから
責任もって引っ張って来いよな。
ぼくたちが冗談交じりに言うと、由希子は浮かない顔をして黙り込んでしまうのだ
った。
電話口で、「遅い時間だという認識はあるわけだな?」と少しからかってみると、
由希子はそれを真に受けた。
「ごめ〜ん。やっぱりまずかった?」
ぼくはあわてて言い繕ろった。
「冗談に決まってるだろ。暇を持て余していたところさ。電話大歓迎」
「それならよかった。ちょっと頼みがあってさ」
と由希子は切り出した。
「何? ぼくにできることなら何でも引き受けるぜ」
レポート作りに苦しんでいたところではあったが、ぼくは愛想のいい言葉を返した。
由希子が久しぶりに電話をしてきた理由にも少なからぬ興味があった。
「俊介はワープロ詳しいでしょう?」
「最近まで使ってはいたけど、詳しいってわけじゃないなあ」
「難しいことを聞きたいんじゃないの。ただ、わたしワープロ使ったことないから、
買いに行く時につきあってくれないかと思って。それに、かよわい女が持ち帰るには
少し重いでしょう?」
「小島がかよわいかどうかはともかく、持つことぐらいは何でもないけどな。ワープ
ロなんて自分の好みで選ぶくらいしかできないぞ。藤本の方が詳しいんじゃないかな
あ。あいつ、昔からパソコンもいじってるし……」
ぼくは同意と拒否を半々に織り混ぜて曖昧に応えた。まだ由希子の真意をはかりか
ねていたが、少なくともぼくに好意を持っていなければ、こんな頼み事はしてこない
だろう。脇田に頼まないことを少々訝しくは思ったが、無理な頼みでなければ引き受
けるつもりになっていた。だから、小島が頼み事をしそうにない藤本という名を出し
てみたのである。
外見から言えば、由希子はぼくの好みに近かった。実際、講義で近くに座ったとき
など、睫毛の長い横顔とか、肩まで届くストレートの髪とか、スカートから伸びたほ
っそりした脚に視線を送ったことも一度ならずあった。ただ、由希子は入学後間もな
い頃から、同じ文学部進学課程の脇田淳と付き合い始めていた。これはL14クラス
内周知のことで、当人たちもそれを否定しなかった。それを承知の上で、あえて由希
子に誘いをかけるほどの思い入れはなかった。
「藤本君ってあんまり話したことないから頼みづらいんだよね。俊介は教養の時から
ワープロ使ってたでしょう。だから、お願い」
由希子は重ねてぼくに頼みたいという意志を示した。
「ぼくはかまわないけど。あんまり当てにするなよな」
と、一応引き受ける意志を示すと、すぐに由希子は続けた。
「いつだったら都合がつく?」
「ゼミのないときならいつでも。バイトもしてないし」
学生たちはその多くが、何かしらのアルバイトをしていた。それが学費に回るか生
活費に回るか、それとも遊ぶ金に回るかはともかくとして、自分の稼ぎというものを
持っていたのである。すべてを親からの仕送りでまかなっているぼくは、恵まれてい
たのかも知れなかった。
「じゃあ明日の昼ごろでもかまわない?」
と畳みかけるように由希子は言った。
「かまわないよ」
深夜に電話をしてきて、翌日の昼ごろに約束すると言うのはずいぶん急な話だとは
思ったが、さしたる用事もないぼくにそれを拒む理由もなかった。
「ああよかった。じゃあ面倒かけて悪いけど、お願い」
由希子はホッとしたような口振りで言うと、改めて尋ねた。
「ところでさあ、ワープロってどこで買えばいいのかなあ?」
「う〜ん。そうだなあ。大須あたりに行けば少しは安いかもしれないけど、そこらへ
んの家電店でも扱ってるな。値段もたいして違わないよ」
「近いのはどこ?」
と由希子が訊いてきた。
「そうだな、北部生協か、覚王山のM電器あたりがいちばん近いかな」
「俊介の家から近いのはどっち?」
「覚王山だな」
「じゃそこにしよ。なかったら北部生協ってことで」
「ああ」
「じゃあねえ……。M電器に十二時くらいってのはどうかな?」
「ああ、いいよ」
「サンクス。借りはいずれ返すからね。じゃあまた明日」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
電話はそれで終わりだった。たまに電話してくると一時間は話し込むのが常だった
が、由希子にしては切り方が慌ただしかった。ただ約束をとりつけるためにだけ、か
けてきたような風であった。
2
結局、その日のレポート作りは午前四時までかかった。こうした日はたいてい昼過
ぎまで寝ているぼくが、八時にはもう目が覚めていた。たまっていた洗濯物を片付け
てしまうと、着ていく服を選んだ。わりと新しくて配色のいい服を決めた時には、十
一時を過ぎていた。デートをするわけでもあるまいしと考えると我ながら可笑しかっ
た。
いつもは足代わりに使うだけで手入れもしない車を、ガソリンスタンドでワックス
洗車してもらってからM電器に向かった。当の店についたのは、十二時五、六分前だ
った。
由希子はもう来ていて、店舗の外の特売品を眺める風をしながらぼくを待っていた。
「お久しぶり」
「こちらこそ。って言っても先週生協で会ったろ」
「あ、そっか」
と言って由希子は舌を出した。
学部に進んでからは授業で会う機会はなくなっていたが、大学生協で顔を合わせる
ことは珍しくなかった。
……俊介。元気してる?
……まあまあだな。小島は?
……わたしも同じく。
中学英語の教科書にでも出てきそうな、さして意味のない会話がしばしば交わされ
た。先週のやりとりもそんなものだったように思う。
「わあ俊介、車買ったんだ。いつ買ったの?何て車?」
由希子はぼくの乗ってきた洗いたての車に目をつけると、二つの質問を一度にした。
「買ったって言うと聞こえがいいけど、買ってもらったんだよ、親にさ。二月から乗
ってる。これは『MR2』っていうヤツ。名古屋は車があった方が便利だからな」
「俊介はいいなあ、リッチで」