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沈 黙 の 森 U 紫野.
★内容
【 沈 黙 の 森 U 】 紫野.
鈴の音とも小鳥のさえずりとも思える音の満ちあふれたうす青の空間に一人たたず
む青年。輝きに邪魔をされ、はっきりと面は見えず、唯一見える唇はただ一言をくり
返す。
『気をつけなさい』
その一言は否応なしにこの森の言い伝えを想起させ、いつも、目覚めたばかりのわ
たしの心をとても不安定な状態へとかりたてた。
ただ一度限りの夢ならば、こんなにも心を乱すことはなかったろう。もしくは、鳥
の声であるかもしれないなどと思いついたりせず、単純に鈴の音であると思っていた
はじめの数回のまま、終わっていれば。
けれど夢は日を重ねるごとにその印象を深め、往々にしてただの夢でないことをわ
たしに知らしめた。半年を経て、今では三日に一度の割合でわたしの夜を訪れ、支配
している。睡眠薬を飲んでも、母直伝の心をやすらかにするという香薬草の煎じ薬を
飲んでも、その一切が無意味だった。いまいましくもあの夢はわたしの意志が遠く及
ばない領域に存在し、深い眠りという隙をつくようにわたしのなかに忍び入る。あの
一言をわたしに伝えんがために。
これは、言い伝えの通り精霊からの忠告であるのか、それとも単にわたし自身の占
い師としての能力が、意識という邪魔な枷から解放される眠りの中で近い未来わたし
の身に起きるかもしれない何かを訴えているのか。
たとえそのどちらにせよ、わたしは目覚めるたびに、この執拗な夢へのうとましさ
に少なからず滅入らずにはいられなかった。
わたしは今のこの生活に満足している。わたしは自分がどれほどの能力しか持ち得
ていないか知っている。なのに高名な占い師になりたいなどというだいそれた望みを
持つほどわたしは愚かではない。
手の届かないものや身にすぎたものを欲しがり、ひたすら贅沢をしたいなどという
欲さえ持たなければ、人は、静かで心穏やかな日々をおくれるものだ。そうして母の
愛したこの森で、母の果たせなかった夢──言い伝えに出てくる精霊のような占い師
にいつかなれる日を夢見ながら、救いを求めてやってくる者たちに助言を与え、わず
かばかりの報酬をいただく。
その日・そのときどきの空腹を満たすだけのパンとスープがありさえすれば、それ
で十分。
──もっとも、今日ばかりはそういうわけにもいかなかったようだが…。
はたしてどれくらい歩いたろう。ちょうど町との中間位置にある大木の頭が見えて
いるから、約半時か。ふと前方に大きなぬかるみを見つけて足をとめた。
ゆうに大人三人は並んで歩けるほどの道幅いっぱいに泥水がどっかり居座っている
。しかも浸かれば確実に足首までくる深さだ。こんなものに前をふさがれては、さす
がにここまではこれた女たちも尻ごみをして、引き返してしまうだろう。
見当をつけた通りだったとため息をついたあと、おもむろに左の木立へ目を向ける
。そこに落ちているいくつかの枝の中から適当な大きさのものを拾って、水溜りから
右の傾斜へ向かって溝を掘りはじめた。そちらへ水を逃がしてやるという計画である
。
ガリガリと音がするほど強く地面を削る。けれど枝の先で作った細い溝は、すぐ周
囲の泥に崩され、あっという間にまた埋まってしまう。溝を太めに、そして深めにと
根気よく何度も何度も重複して同じ場所を削り、少しずつ掘り進めていると、
「わたしがやりましょうか?」
という問いかけが突然頭の上から降ってきた。
それは今まで聞いた覚えのない、まだ若い男の声だ。
もう客がここまできていたのか。
近寄る気配にもまるで気付かず、必死に木の枝で地面を引っ掻いているところなどを
見られた失態を悔やみつつも、とにかく答えようと急ぎ身を正したわたしは、そこに
ある男の姿を見た瞬間言葉を失った。
そこにいたのはまぎれもなく、あの夢に現れる青年──上品なスーツをまとい、つ
ばのついた帽子をかぶった、金灰色の髪の青年そのものだったからである。
彼が現実に存在していたことに驚愕し、幻であることを請う思いで無言のまま凝視
し続けるわたしに、
「どうかしましたか? それとも、わたしの顔に何かついてます?」
青年は少しまごついてしまったように小首を傾げる。目の高さを同じくして覗きこん
できたその鳶色の瞳と目があった瞬間わたしははっと我に返り、急いで謝罪と、先の
申し出に対する返答をした。
「いえ、なんでもありません。少し考え事をしていたものですから…。お申し出は大
変嬉しいのですが、もう終わりましたわ」
「そうですか」
青年は頷き、わたしから見て左の方へ移動すると、まだぬかるんでいる地面を上手
に避け、片足の幅ほどしかないところを器用に歩いてこちら側へと渡りはじめた。そ
の姿にじっと見入る。胸板が厚く体格もがっしりとしており、とても背が高くて、よ
く陽に焼けた、健康そうな褐色の膚をしていた。歳の頃は二十五〜六といったところ
か。違っていても、三十は越えていない。おそらく遠くの街からきたのだろう。その
焼け方といい、身にまとった雰囲気からして周辺の町からやってくる若者たちとは違
っている。おのずと出る優雅な身のこなし、上等の衣服。まず間違いなく裕福な家で
何不自由ない教育を受けた者だ。
つつがなくぬかるみを渡り終えた青年は、先よりもわたしとの距離を詰め、聞くか
らに健康的な、張りのある声でこう訊いてきた。
「少々お尋ねしたいのですが、マリア=フォルストさんのお宅へは、この道でよろし
いのでしょうか?」
決定だ。気の遠くなる思いでそっと奥歯を噛みしめる。
「ええ、そうです」
「そうですか」
ほっと青年が安堵の息をもらす。
「それを聞いて安心しました。一応町のひとに訊いてからきたのですが、いくら歩い
てもそれらしい小屋はまるで見えないし、道もこれでしょう? 誰ともすれ違わない
ので、もしやどこかで道を間違えたのかと危ぶんでいたところでした」
「一本道ですもの、間違えようがありませんわ。この道をあと半時ほど歩かれた先に
小屋はあります」
無理矢理喉をこじあけ、それと悟られることのないよう慎重に答えたわたしの言葉
に、青年はにっこり笑って礼を言うと、わたしのきた道を進みはじめた。占い師・マ
リア=フォルストの住む小屋へ向けて。
とうとう現れた!
愕然とその背を見送りながら、総毛立った両腕を抱きこんでこみあがる衝撃に堪える
。そうやって正常の状態に戻るのを待つ暇もあればこそ、大急ぎ、右の木立へと踏み
入った。
下生えやしげみがたっぷりと含んだ雨粒に濡れることを気にする余裕もなく、とにか
く青年より先に小屋に戻らなければとの一心で小走りに樹の間を抜ける。
母が占いをしている間、わたしはこの森を遊び場として育ったのだ。どこをどう進め
ばどれほどの時間でどこに出るか、とうに熟知していた。なにも人の手で敷かれた道
ばかりが道ではないし、わたしは淑女然と気取った女でもさらさらない。
この獣道なら大丈夫、あの道を行くよりもずっと早く小屋に戻ることができる、そ
うわかっていながらも、わたしは速度を緩めることができず、露出した木の根に何度
も蹉き、目測を誤っては足首や手にすり傷をつくった。
けれどその痛みを受け入れる余裕も今はない。まるで、鋭利な鈎爪で心臓を鷲掴み
にされ、揺さぶられているようだった。高熱を出したときのように体が熱く痺れ、手
足の感覚がとても不確かなものに思える。息がつまり、喘いでいるというのに足だけ
はさながら別の生き物であるかのようにとまるということを知らず、ひたすら前に向
かって動き続けて。
夢の青年の、あまりに唐突すぎる出現は、想像していたよりはるかに激しい衝撃で
わたしのすべてを混乱させていた。
はあはあと渇いた喉をこするようにして息が飛び出し、冬だというのに汗が額や背
を伝う。けれど足はとまらない。
あぁでも本当にあの男は、夢の青年なのだろうか? あの男を見た瞬間に、なぜか
わたしは彼を夢の青年であると確信していた。顔も知らないというのに、おかしなこ
とだ。
あの男は、やわらかそうな金灰色の髪をしていた。きちんと櫛を通してあって、絹
糸のように細い前髪を一糸たりと乱すことなく左へ流れるように波打たせた、しゃれ
た髪型からも彼の育ちの良さがうかがえた。あかるい鳶色の目、褐色の膚。理知的な
その顔立ちは、わたしの知る限りではあるが、かなり上等の部類に入るだろう。身な
りもまた見るからに高級そうなものばかりでかためられていて。
そうだ、服装はどうだろう? 顔は見えなかったけれど、夢の青年はいつもスーツ
を着ていた。彼もスーツだ。ただし、わたしのような中産階級の者は購入どころか触
れることすらためらうような、高価な品なのは一目見るだけでわかったが。そしてそ
の下に着ていたのは目が覚めるほど真っ白の、糊のよくきいたシャツ。つばのある帽
子。袖元からは、ネクタイピンと揃いの赤い石をはめた銀のカフスが覗いていた。
清潔で、こざっぱりとした風体だ。それがまた小気味よいほど男に似合っている。
では夢の青年はどうであったか。
今だかつてこれほどまで思い出そうと努めたことはないというほど微に入り細にわ
たってあの夢の一部始終を思い起こし、照合しようとしてみたが、気が高ぶり、はや
っているせいか、今度はようとして夢の青年の姿が思い出せなかった。
あんなにくり返しくり返し、もううんざりするほど見て──今朝だって見たはずなの
に。
ああでももし彼が本当に夢の中の青年であったとしたなら、彼は一体何をわたしに持
ちかけようというのか。思いもかけない幸運か、それとも到底堪えがたい不運か。ど
ちらにせよ、わたしには苦痛でしかないというのに。
良きものであれ、悪しきものであれ、己の手の届かない位置から干渉を受けた人間
がどうなるか、わたしはよく知っている。そういった出来事に出会い、迷った者たち
が思案の末にわたしのもとを訪れるのだから。
彼等は皆そろって心の平安を見失い、より所となるべきものを失っておびえていた
。どこにいても常に身の置き場のなさを感じ、自分で自分を把握しきれない──そん
なのはごめんだ。
わたしは現状に不満を持ってはいない。今のままで十分わたしは満ち足りている。
ならば、彼は望まれざる客人だ。彼はわたしの人生に全く不必要なものを運び、わた
しからやすらぎを奪おうとしている。たとえ彼が夢の青年でなくとも、わたしには危
険な存在だ。姿を見ただけだというのに、もうこんなにもわたしは平静さを欠き、分
別をなくした子供のようにうろたえているではないか。立ちどまることで追い迫る何
かに捕われることを恐れ、夢中で足を動かしている。
彼にはすみやかにこの森から立ち去ってもらわなくては。
小屋を目にしたことでいくばくかの安堵を得られてか、裏手に出たところでようや
く足がとまる。胸に手をあてて息を整えながら、わたしはそう結論した。そしてこの
小屋へ続く道をたどり、青年が再び姿を現すまでの一時、急ぎ泥と夜露で汚れた衣服
と靴を替え、年端のいかない少女のようにたらしたままだった髪を梳きまとめて結い
あげると鏡に見入る。心の動揺がもしや面に出てはしないかと不安だったが、それは
無用の心配であったようだ。帰路ずっと走り通したため、まだ膚が幾分上気していた
が、普段のわたしは病的な色だとハンスに心配されるほど青白い膚をしているので、
この程度であれば、たぶん人並みであるとのごまかしがきくだろう。ただ、決意と緊
張に細くしまった青の瞳はさながら威嚇をする犬のような照りを放ち、きつく引き結
んだ口元など、まるで宿敵に挑もうとするかのようだったけれど。
そっと目を閉じて、心を静かにしようとつとめる。椅子の背凭れに身を預けたまま
一切身動がず、外部に対して無防備なまでに意識を広げる。どこまでも遠く、はるか
、限界という壁を知らないように。思考を排除する方法は既に心得ている。頭の中を
無にしてそうしていると、それまで全く意識していなかった森の音──鳥の鳴き声や
羽ばたき、風に散った雨露が地表に降りそそぐ音など──が、わたしよりもはるかに
強く大きな存在感という波動でもって感じとれた。
これは、森が生きているあかしだ。純粋な、それ以上でも以下でもない、ただそれ
だけのもの。他の何の介入も必要とせず、昔から変わらない姿でずっと長い時間を過
ごしてきた…。
今のように雑多な思いがまじりあい、自分を見失ってしまいそうになったとき、じ
っと耳を傾けてその波に身を任せているだけで、きまってわたしの心を静めてくれた
。まるで彼等からの助力が体の中にしみ渡って新たな力となるようで、勇気づけられ
る思いがする。
やがて、その中にまじって表の、しめった下生えを踏み鳴らして近付く足音がかす
かにしていることに気付いて、目を開けた。
彼だ。
朝の陽光を浴びて開花する花々のように意識が目覚める。
じっと膝上の両手を見る。大丈夫、もう震えてはいない。
さあ対面だ。いくら彼が用心するべき相手とはいえ、けして不様な応対を見せてはい
けない。まだわたしは十九で、ほんの若輩者であるのはどうしようもないのだから、
熟練した占い師のように姿を見せただけで相手の意識を自分のペースにつかんでしま
うようなことが不可能なのはしかたないけれど、それだけにしっかりガードを固めな
くては、小娘と侮られて見くびられるのがオチだ。ましてわたしは希代の占い師・マ
リア=フォルストの娘。たとえ断るにせよ──いや、断るのならなおさらその名を傷
つけるような言動とならないよう気をつけなくてはいけない。どんな事態に陥ろうと
けして対処に惑ったりせず、常に確固たる態度で接したうえで他の者にはおいそれと
持ち得ない能力を持つというエスプリを全面に押し出し、できる限り威圧し、自らの
意志で早急にお帰りいただきなおかつそのことでわたしに悪印象を抱いてタチの悪い
噂をばらまいたり妨害を受けないよう上手に誘導する。
はったりと、ひとの呼ぶ行為だが、占いというもの自体、ある意味でははったりだ
。当事者には知りえないことを告げたり予測するだけで事後確認もとらず料金をいた
だきその場限りとするのだから。そのくせわたしの場合、相手の生涯を無限に見通せ
るわけではないし的中率も完全とは言いきれない。さすがにこの距離では文句を言い
にくる気力も失せるのか、言われたことはめったにないが、はたして二度と訪れない
客の何人がそれに該等するかはあまり考えたくない事ではある。一応占いをする前に
ちゃんとそのことは断っているのだけれど……そう、やはり詐欺と違うところは、断
りを前もって入れているところだろう。それでも見てもらいたいと相手に言わせなく
てはならないのだから、詐欺よりも難しい。はったりは不可欠だ。
それにしても、こんなに緊張しているのはどれくらいぶりだろう。把手に手をあてた
まま、戸口の前で一度深呼吸をする。大丈夫、森の波動はまだわたしの中にある。そ
れを確認するように自分のなかへ知覚の触手を巡らせて、そしてもう一度大きく息を
吐き出すと、わたしは戸を押し開いた。
続.