AWC お題>ノックの音がした>真夜中のノック   沢井亜有


        
#906/1336 短編
★タイトル (TMF     )  97/ 9/23  22:11  ( 88)
お題>ノックの音がした>真夜中のノック   沢井亜有
★内容
 ノックの音がした。
 彼はペンを動かしていた手を止めると、目を細め、ゆっくり顔を上げた。
――来た。――
 机の上のスタンド以外に明かりはない。薄暗い真夜中の部屋で彼は立ち上が
り、窓の方へ歩み寄った。
 窓の外は風のない蒸し暑い夜である。と思ったのだが突然、ざあっと音を立
てて木々が震えた。彼は別段驚きもせず、窓を開けて外を眺めていた。
――ああ、そこにいたのか。――
 彼は穏やかな微笑を浮かべると、顔を少し左に向けた。今にも消え入りそう
な青白い光が二つ、庭木の根元にふわふわと浮いていた。その二つの間に、彼
女がいるのだ。
 彼が彼女に向かって軽く手を振ると、ちょっとふくれていた彼女はにっこり
笑って、彼の目の前までやってきた。髪が風になびいて、少女の白い額を星明
かりにさらしている。
 彼女はあぐらをかくように脚を折って――浮かんでいた。彼の部屋は二階な
のである。
「今日はいい天気だね。」
 彼女は透き通るような声で嬉しそうに言うと、つややかな髪をざっとかき上
げて空を見た。
 さっきまであんなに蒸し暑かったのに、涼しい風が部屋に流れ込んでくる。
彼女の周囲にだけ冷気が漂っているのだ。まるで彼女自身が身体から発散させ
ているかのように。彼女が近づくと、木も草も身を震わせ、すくんでしまうの
である。
 それでも彼は黙ってうなずき、窓際にあるクーラーのスイッチを切った。大
きな音を立てていたモーターが次第におとなしくなり、周囲に静寂が戻ってき
た。
「ほら、もうすぐ月が昇る。」
 彼女が振り返った。その視線の先、庭を隔てた隣家の屋根の上には、微かに
白く浮かび上がるちぎれ雲が漂っていた。

 そういえば、初めて彼女に出会ったのもこんな夜だった。
 下弦の月が昇る頃、窓を開けて外を眺めていた彼は、庭木の根元で青白い二
つの光をお手玉のようにもてあそんでいる少女を見つけた。白い布をまとった
彼女に周囲の空間と異質なものを感じて、でもなぜか不気味だなどとは思わず、
彼は黙って窓から見下ろしていた。
 やがて、彼女はふと彼の方を見上げた。彼が少し首を傾げて微笑むと、彼女
は一瞬不思議そうな表情をし、そして笑った。
 次の日から彼女は、週に三日は来るようになった。彼が窓を開けていれば、
ひんやりとした空気が流れ込んでくるのですぐ分かる。窓を開けていないと、
彼女は窓をノックし、かくれんぼでもするように庭木の間に降りていって、彼
が窓を開けて自分を見つけるのを待つのだった。

 そうか。あれからもう一か月たったのか。
 彼は、ちぎれ雲と隣家の屋根の隙間から顔をのぞかせた下弦の月を見ながら
考えた。
 ちょうどあの頃だった。次に書くべき物語が浮かばなくて、欠けていく月を
一週間も見送った。怪談を書こうと思いついたのは彼女が現れたからか、それ
とも怪談を書いていたから彼女が現れたのだろうか……。
 ともかく粗筋はできあがった。しかし、それを文章にする最初の一文が書け
なかった。最初の一文ができれば、後は自然に書けるはずなのに。
 彼女はもちろんそんなことなど知らず、どこからともなくやってきては、彼
と星を見たり、たわいのないおしゃべりをしたりし、またどこへともなく消え
てゆく。彼にとっても、原稿用紙と向かい合う一日を過ごした後の彼女とのひ
とときは、決して悪いものではなかった。――たとえ彼女がこの世の人間でな
いとしても。
「ね、なに考えてるの?」
 彼女が彼の顔をのぞき込んだ。彼は我に返った。
「いや……きみは不思議な人だなあって。」
 言ってしまってから、触れてはならないことを口にしたのではないかという
不安に襲われた。しかし彼女はふっと笑って、
「あなただって、同じくらい不思議な人だよ。」
と言った。
「そうか、そうだよね。」
 彼も笑った。二人は再び、雲の間に漂う月へと目をやった。雲の輪郭が異様
なまでにくっきりと映し出されていた。

 一週間後の真夜中。
 机の前でペンを持ったままぼんやりしていた彼は、ノックの音を聞いたよう
な気がした。そういえば、あの半月の夜から、彼女は姿を見せていない。彼は
いつもと違い、急いで窓を開け放った。身を乗り出すようにして庭を見回す彼
の額を涼風がなでた。
――彼女だ!――
 しかし、月のない闇の中に、青白い二つの光も彼女も見つけることはできな
かった。木々のざわめきの代わりに聞こえるのは虫の音だった。風が涼しいの
は秋が近づいているためなのだろう。
――気のせいか。――
 彼は何度も庭を眺め回し、あきらめて窓を閉めた。窓を背にしたとき、再び
聞こえたような気がした。
――ノックの音がした。
 机の前に座った彼は、それを何となく原稿用紙につづってみた。彼は頬杖を
ついてその文字をしばらく見つめていたが、やがてペンを持ちなおすと、その
文字の後に文章を書き始めた。彼の意識から彼女のことはすぐに消え、升目を
埋める作業に没頭していった。

 その後、彼女は彼の前に現れることはなく、彼も彼女を探そうとはしなかっ
た。だが彼は忘れられない。彼女が窓を叩くノックの音を。

                            <おわり>




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