#243/1336 短編
★タイトル (YPF ) 94/ 6/ 4 17: 4 (197)
お題>「水底の天使」 不知間
★内容
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水底の天使
不知間 貴志
波の音と潮風は、気がつけば、いつでも思
い出せる。きっとずっと消せない。様々な力
を、どうやらどんな海も持っているらしい。
「ねええ。ちゃんとみてるう? 海だよお」
声のする方の、風にゆれる大きな帽子と左
右に大きくふられる、彼女の細長い腕だけを
僕は見ていた。ありきたりな、青い空だった。
「うん? ああ」
僕は先に走っていく彼女のあとから、くた
びれたカメラバッグを担いで、だらだらと歩
いていく。走って砂が靴に入るのが嫌だった。
「ほらほらあ。あれ・・・船え」
「うん、ああ、船だねぇ」
「なにそれ、この年寄りっ!」
けらけらと、神崎理砂が笑う。
理砂は機嫌が良いと、わりかし場所を気に
しないで、ぴいぴいと口笛を吹く癖があった。
それが流行モノのの歌謡曲でなく、かといっ
てコ難しい名曲なんかでなく、調も拍も無い
ような、なんだかよくわからないものだった。
理砂とは特にクラスが同じだけで、用がな
ければ口をきくようなことはなかったのに、
僕はちょっとしたきっかけから、彼女と彼女
の口笛が、急に気になりだしていた。
ある日、ちょうどそんな理砂と廊下ですれ
ちがい、とうとう思い切って言ってみた。
「おい。学年一番の成績の奴が、らしくねえ
ぞ」
「えっ、なになに」「口笛」
「・・・ふん」
にぃ、っと唇をあげ、整った白い歯列を一
瞬見せて、その時理砂は僕には初めてみせる
表情で笑った。
「だって口笛って、気持ちがイイ。そうじゃ
ない? 香川クン」
そしてくるりと背中を見せて、何か指でリ
ズムをとりながら、何事も無かったように歩
いていく。複雑なカタチに織り曲げられ、銀
色のピンで止めた髪と後ろ姿に、僕は魅せら
れた。それが、つまるところ最初だった。
僕は、真っ赤になって、まるで馬鹿のよう
に廊下の真ん中で立ちすくむ。
(なんだ・・・僕の名前は知ってるね)
「ねえ、写真撮るんでしょう。そういったじゃ
ない。ちゃんと撮ってくれなきゃ駄目なんじゃ
ないかなぁ」
「うん、ちょい休憩中」
「さっきから、そればっかり」
「・・・塩が、カメラに悪いんだよ」
「へええ。そんなとこ変に神経質なんだ」
図書館での待ち合わせは、思った以上に緊
張した。土曜の午後である。
僕の学校の図書館は比較的大きく、そのフ
ロアのもっとも奥に、学習コーナーがある。
入口のカウンターからそこまでは、沈黙が勝
利している。独特の匂いをもつ古い本の壁が、
音を吸収している。
ゆらり、と本を抱えた何人もの無表情な者
たちとすれ違う。それらはまるで、水族館の
水槽の底を泳ぐ、魚のように思えた。お互い
にまるで関心が無いようなふりで通り過ぎる。
僕は図書館が苦手だった。
・・・理砂は、もちろん”受験勉強”をして
いた。僕はといえば、写真部の部室で用事を
済ませてから来たのである。そんな僕は、彼
女の黙々のペンを走らせている背中を見つけ
て、急に罪悪感をおぼえる。
何もいわないうちに、僕が近づくとクルリ
と彼女はふりむく。
「じゃぁ、いこうか。香川クン」
唐突に彼女が言った。
「え、勉強途中だろ? いいのかよ」
僕は、あわてて実にバカなこたえ方をする
(呼びだしたのは僕じゃないか)。
「呼びだしたのは、あなたじゃない」
理砂は当然のように口にする。そして、な
にかイライラしているように、素早い動作で
ノートや教科書をカバンにしまいこむ。そし
て、トンッと音をたてて椅子から立ち上がる。
その時、ちょうどチャイムの音がきこえた。
図書館のスピーカーのせいか、それはとても
小さく響いた。
結局、テトラポッドの詰んである場所で、
理砂と二人で、しばらく黙って海をみていた。
「カメラ、ちょっと心配だなぁ」
理砂がポツリと口にした。
「え、なに急に。海みてるんじゃねえの?」
「こんなに日射しが強いと、熱くなっちゃう
んじゃないの? フィルムとか」
「うん、まあ、バッグいれとけば少しはマシ
だけどね。あんまり良くない。けど大丈夫」
僕は、そう言いながら、ごそごそとカメラ
バッグにさわる。
「・・・ちゃんと撮れてなきゃ、嫌だからね」
「うん、まあね。カメラがいいから」
理砂が海の方に歩き出す。白い長めのスカ
ートと、白いサンダル。それらは僕が頼んだ
ものだ。
「・・・南極とか行きたいな」
背中をこちらに向けたまま、彼女は言う。
「突然、何だよそれ」
僕は彼女の歩き方を見ながら、ふと思いつ
き、彼女に気がつかれないようにそっとカメ
ラを取り出し、構えた。
「だって冷たくて静かだし、とっても広いで
しょ?」
「知らない。そう単純なもんじゃねえだろ?」
ファインダーの中で、理砂が波打ち際に歩
いていく。キキッと音がしてピントが合う。
「ペンギンがいて。そう、氷が青いんだって。
・・・知らない?」
「写真でなら知ってるけどさ、死ぬぜあんな
とこ」
理砂が小さく口笛を吹く。
「それ何の曲なの?」「知りたい?」
「う、うん、まあね」
もう少し広角。あ、雲がでてきた。
「・・・ある漫画家さんの為のレクイエム。
バイオリンの曲なんだけど。知らない?」
「知らない」
「そうよね」
少し逆光ぎみ・・・でも大丈夫。
「たとえば、南極のぜんぶ氷がとけたら、ど
うなるか、知ってる? ここ、沈んじゃうな」
「へぇ、そうなの、知らないよ」
もうすこし。右のほう。ああ、そう、そこ
だよ・・・
「香川クン!!」
「は、はいっ?!」
カシャッ。
突然、理砂が大声を出したので、慌てた僕
は、思わずシャッターをきってしまった。
カメラをおろした。理砂はまっすぐに僕の
方を向いて言った。
「あなた、何も知らないのね。つまらない」
暗室。
僕は、何本か目のフィルムをセットしなが
ら、今度こそ自分の才能の無さに落胆してい
た。カラーの方は、先にラボに出しておいた
といっても、構図が同じなので、あがりにあ
まり変わりはないだろう。
もう、めんどうくさいから写真なんて辞め
ようか、そう思えて来た。だんだん無意識に、
機械的に焼き付け作業を続けていた。そんな
時だった。
「うわっ、何だこれ・・・」
現像液のヴァットの中でゆらしていた印画
紙に、大きな鳥が翼を広げたような像が浮か
び上がってきた。そんなのを撮った記憶が無
かった。背中にハネの生えた人間?
・・・数秒で、そんな幻想は消えた。それ
は、理砂だった。
結局、海で理砂を撮った日、別のカメラに
変えたのと、変なタイミングで撮ったので、
先に全然関係のないモノが写っているフィル
ムに理砂の写真がまぎれていたのである。
海にむかって、背伸びをする理砂。帽子と
空にむかってまっすぐのばされた腕。それが、
暗室の赤い光に照らされて、現像液の底でふ
るえた。白いフチが、その時間を明確に区切っ
ているように見えた。
(そういえば・・・その後会ってないな)
図書館に入って、しかし僕はとくに理砂を
探すわけではないんだぞ、と自分に嘘をつき
ながら、入口近くのソファに座った。手のと
どくところにあった科学雑誌を手にとってめ
くった。最初に目に入った記事を読み始めた。
「・・・何読んでるの、香川クン」
そしてストンと隣に座ったのが理砂だった。
僕はその瞬間、あまりに急だったので、どう
していいものだかわからなくなり、しばらく
彼女の顔をじっと凝視してしまった。
「あ、ああ。これ。ええっと、飛蚊症の解説」
「ヒブンショウ?」
「簡単にいえば」僕は一つ咳をする。「目の
中の、ゴミみたく飛んで見えるやつだよ」
「へぇ、よく知らない」
そこで少し彼女は口ごもって、また口をひ
らく。「ところで・・・あの海の写真は?」
僕はその時の理砂の少し困ったような顔を
みて、胸がいっぱいになる。
「ああ。よく撮れてた。特に一枚、偶然に、
すごく気持ちイイのがね。今度みせるよ」
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1994.6/4