#5222/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/10/31 0:14 (182)
そばにいるだけで 53−8 寺嶋公香
★内容 18/06/13 02:49 修正 第2版
席を立ったのを機に、純子と相羽は駅を出た。天気もちょうど霧雨模様にな
ってきたから、都合がよい。
「動き始めたのはいいけれど」
出入口付近で、自転車ごと相前後して並ぶ相羽と純子。料金の前払を示すレ
シートを窓口に出して、自転車置場の外へ。
「どこに行くか、まだ決めてなかった」
「あの、天気もこんなのだし、帰った方がいいと思うわ」
純子は敢えて言った。相羽の厚意を感じる、だからこそ、遠回しに避けよう
と努力をしなければならない。
自転車をあてどもなく漕ぎ始めてからも、会話は続いた。
「疲れてる?」
「え……それほどでもないわ」
「早く帰って、寝たいのかと思ってさ」
「そういう意味じゃないってば。雨のせいよ、雨」
片手を放し、慌てて天を指差す純子。そうしたら――突然、落ちてくる雨が
大粒になってしまった。偶然とは言え、あまりのタイミングのよさに、顔が変
な具合に強張る。
相羽が一旦停車し、前髪付近に手で庇を作りながら、空を見上げた。
「夕立……じゃなさそうだな」
「急いで帰りましょうよ。これってやっぱり、早く帰りなさいっていう――」
「嫌だ。唐沢に負けたくない」
雨音を始めとする雑音と早口のせいで、しかとは聞き取れなかったが、相羽
は確かにそう言った。
純子の口が、え?の形になった。しかし、相羽は言い直すことはしない。一
段階、大きくした声で言う。
「ここからなら、僕の家の方が近かったよな、確か」
「多分、そうだと思う」
「じゃあ、僕の家で雨宿り」
全てを言わない内に、自転車で走り出す相羽。純子も着いていく。
「待って」
「何て?」
「行ってもいいけど、この雨……服が」
「心配いらない」
極短い会話のやり取りをしながら、相羽のマンションへ急ぐ。到着する頃に
は、土砂降りになっていた。地面を叩く雨粒が、白い飛沫となって、激しく咲
き散っていく。
「急ごう」
相羽の声に引っ張られるようにして、エレベーターに転がり込む。奥の壁に
もたれかかり、息を弾ませ、髪の先から滴る水を何度も拭った。扉が閉じると、
心なしか、箱の中の湿度が上がったような感じを受ける。
「母さんが女性用の服を、また買い込んできてたから、着替えは大丈夫だよ」
「そういうわけだったの。でも、どうして、おばさまが……」
「君にあげるためだろ。ああいうときの母さんを見てるとさ、本当は女の子が
ほしかったんじゃないかって思えて、妬けるよ」
「うふふ、まさか。現実に女の子が産まれていれば、男の子をほしいと思うも
のよ、きっと」
エレベーターは途中、一度も停まることなく、五階に着いた。降りる際、床
に残った雨粒のひどさが気になったが、致し方ない。
「それで、おばさまは?」
先を行く相羽に何気なく尋ねると、相手は「あ――」と言って、ぴたっと立
ち止まった。危うく、ぶつかりそうになる。実際に、スポーツバッグの端が当
たってしまった。
「ど、どうしたの?」
「言うのを忘れて、ごめん。仕事で留守にしてるんだ」
振り返り、申し訳なさそうに顔を伏せる相羽。奥歯を噛みしめる節が窺えた。
「嫌だったら、ずっと外に出てる。その間に着替えてもらっていいから」
「いいわよ、そんなことしなくても」
両手を振り、急いで返事する純子。
「おばさまは仕事なんでしょ。それなら仕方がない。だいたい、ほら、いつも
のことじゃない」
「いつものこと……?」
「そう。私があなたの家を訪ねるときって、おばさまはたいてい不在だったわ。
雨のときは特に」
「言われてみると……だけど、そういう問題か?」
「いいの。私がいいって言ってんだから。私だって風邪を引いたら、他の人に
迷惑掛けることになるかもしれないから、それだけは絶対に避けなくちゃいけ
ない。さ、早く入りましょ。寒くてたまらないよー」
軽い悲鳴を上げ、相羽の背を両手で押す。
(雨が上がったら、すぐに帰ろうっと)
後ろめたさを懸命に打ち消しながら、純子は扉をくぐった。
「お邪魔します……」
ほとんど独り言のようにつぶやく純子の目の前が、真っ青になった。相羽か
ら蒼いバスタオルが投げ渡されたのだ。
「着替えはそこにあるよ」
相羽が、リビングの壁にもたせかけてある紙袋を指差す。純子は、頭にすっ
ぽりタオルを被り、髪を拭きながら応じた。
「ありがとう。でも、本当にいいの?」
「気にする必要なし。それって、多分、母さんから君への誕生日プレゼントみ
たいな物だから」
「あとで、お礼を言わなくちゃ」
紙袋に手を掛けたところで、相羽が促す。
「先に着替えなよ。身体が冷えているのなら、シャワーを使って。タオルは、
その辺にあるのを自由に使っていいはずだから」
「――ありがとう。遠慮しないからね」
「どーぞ、どうぞ」
純子は、タオルと着替えを手に、脱衣所に向かった。入って、ドアを閉める
刹那、相羽を振り返って、お決まりの台詞を軽い調子で告げる。
「念のため言っとくけど――覗かないでよ」
「念のために答えておきます――当たり前じゃないか」
どうしてこうクールでいられるんだろう?と、純子が不思議に感じてしまう
くらい、相羽は淡々と、しかし笑み混じりに切り返してきた。
(今の相羽君は、私のこと、ただの友達と見なしてるんだ。だから、あんなに
冷静でいられるんだわ)
言い聞かせる。それが、みんなの望む通りの事態を指していると信じて。
シャワーの方は、考えに考えた挙げ句……浴びることにした。考えすぎて、
心にもやがかかった状態になってしまい、熱いお湯を頭のてっぺんから浴びる
ことで、全部洗い落とそうという、そんな気持ち。
雨に冷えた身体が充分暖まったかどうか、自分でもよく分からないまま、浴
室を出る。無心で全身を拭き、服を身に着ける。下着もほんの少し湿気た感じ
があったが、さすがにそこまで替えはない。
相羽の母が用意してくれていたのは、長袖のシャツとチョッキ、ジーパンの
組み合わせだった。手早く着替えて、鏡を覗く。これで赤いスカーフを着け、
テンガロンハットを被れば、カウガールができあがりそうだ。濡れた服は、ひ
とまず畳んで、ビニール袋に入れてくるみ、紙袋の中へ。
「相羽くーん、ドライヤー、借りていい?」
「あ? ああ、ドライヤー。使って!」
ドア越しに大きめの声でやり取り。純子はドライヤーとタオル、そして紙袋
を持って、脱衣所を出た。キッチンに立つ相羽に、声を掛ける。
「ありがとう。あの、相羽君も、早く暖まらないと」
「うん……もう少し」
何か飲み物を入れてくれているらしい。遠慮しても、やめないだろう。分か
っているので、純子は黙って見守った。
「こういう状況って、前にもあったわよね。何回目かしら」
立ち尽くしたまま、純子は言った。二人きりなのを意識してか、多少、固い
口調になる。
「三回目じゃなかったっけ」
真剣な顔をして答えた相羽。いや、実際のところ、純子に相手の顔は見えて
いないのだから、この判断は想像に過ぎない。口ぶりは真面目だが、恐らくジ
ョークのつもりなのだろう。
「四回目だったかもしれない」
やはり、ジョークだった。くすりと笑う純子。
「今日は雷が鳴ってないから、そういう意味では、初めてじゃないかな」
「雷かぁ」
色んな思い出がよみがえってきて、ついつい、遠い目になる。純子は髪にタ
オルをあてがい、小さくかぶりを振った。
「相羽君、本当に早く入らないと、風邪を引きかねないわ」
「できた」
振り返った相羽の両手には、木のお盆。焦げ茶色の液体に満たされたカップ
が湯気を立て、その隣には底の浅いバスケットにクッキー、否、ビスケットが
盛ってある。
「純子ちゃん、ドアを開けてくれる?」
「え、ええ」
返事するや、純子は相羽の自室のドアを開け、背中で押し止める。その合間
に、相羽が盆を中へ運んだ。
「飲みながら、髪を乾かしててよ」
「――うん。飲みながらドライヤーを使うのって、難しそうだけど」
「はは。じゃ、適当に乾かして、適当に飲んでて。シャワー浴びたなら、冷め
ても大丈夫だと思う」
相羽は微笑を残して、浴室へ向かった。
部屋のドアが閉じられ、音が遮断されたせいか、雰囲気が変わったように感
じる。どこかしら、安堵できた。
「きちんと片付いてる」
部屋を見回し、ふとつぶやく。仮に散らかっていたら、整理整頓してあげよ
うと、頭の片隅で考えていた……ような気がする。
(男の子らしく、ちょっとは散らかせばいいのに……なんて)
心中で舌先を覗かせ、純子は笑いをこらえながら、お盆を前に絨毯に座り込
んだ。飲み物から立ち昇る湯気に誘われる。タオルを頭に巻き直し、カップに
手を伸ばした。
唇を縁に当てる前に、香りでココアだと分かった。当然、色から、紅茶では
ないと分かっていたが、それでもやはり意外な印象を受ける。
一口、ゆっくりと飲み込んで、思わず、「あったかぁい。甘くて」と声が出
た。シャワーだけではカバーできなかった分を、芯まで温めてくれるかのよう
に、身体中に行き渡っていく。
全体の三分の一ほどを飲んで、真の意味で人心地つけた。純子は息をつくと、
ようやくドライヤーに取り掛かる。コンセントの位置は、探さなくてももう覚
えた。膝立ちで少し移動し、プラグを差し込んでから戻る。
髪を乾かすことに専念しようと、タオルを外す。ドライヤーのスイッチに指
をかけたそのとき、意識が本棚の一番下の段に吸い寄せられた。
いや。本当は、先ほどコンセントにプラグを差し込みに行った際、目に入っ
ていたのかもしれない。
それほどまでに純子の気を引いた物――アルバム。上の角が、少し前向きに
傾いて、棚の枠からわずかにはみ出し、自己主張しているかのよう。
「……思い出した」
部屋に入ってから、三度目の独り言。残りは、胸の中だけにしておく。
(あれはいつだったかしら? 相羽君に、前の学校の卒業アルバムを見せても
らって、それから、もっと前のアルバムも見せてもらう話になったんだわ。で
も、機会がなくて、見てなかった)
純子はドライヤーを置き、タオルを手の内で握りしめ、本棚に近付いた。手
を伸ばすと、アルバムの角に指が触れた。
(いいよね?)
四つん這いの体勢で、ドアを振り返る純子。言葉にしていない問い掛けが、
相羽に聞こえるはずもなく、また、たとえ声に出しても浴室内までは届くまい。
純子は深呼吸をして、アルバムを抜き取った。
淡い水色をした体裁のアルバムは市販の物で、シンプルな表紙をしていた。
当然ながら、卒業アルバムみたいに大げさなタイトルは掲げられていない。
めくる前から、純子の表情はほころんでいた。相羽の小さい頃を様々に想像
してしまって、おかしさがこみ上げる。
純子は改めてタオルを頭に巻いて、再度、深呼吸をした。笑みを収め、ペー
ジをめくる。目は、自然と優しい眼差しになっている。
――つづく