#4798/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 4/29 16:28 (199)
そばにいるだけで 35−5 寺嶋公香
★内容
「は?」
何の脈絡もなくサインを求められ、純子は髪をいじる指を止めた。髪がぱら
りと下がる。相羽も手の動きを中断していた。
富井は満面の笑みを振りまきつつ、中腰になって純子の方に身を乗り出す。
「一応、純ちゃんも有名人になったわけだしぃ、この前出たファッション誌に
『ファーストキス』の広告載ってたから、そこにサインしてほしいなあって。
いいよね?」
「ああ……あはは、は」
私のサインなんかもらって何になるの?と言おうとしたが、口を動かす筋肉
に力が入らず、ふにゃふにゃと苦笑するのみになってしまった。
「あ、それ、いいわ。私にもちょうだい」
「私も予約。鷲宇憲親には及ばなくても、有名人には違いない。将来値打ちが
出るかも」
井口、町田も乗ってきたところへ、相羽が口を挟む。
「先立つ問題として、芸名が決まってなかったんじゃなかったっけ?」
相羽自身は答を知っている問い掛けだ。
純子はほんの一瞬だけ不可解さを感じたが、じきに理解できた。
「そう、そうなの! 決まらない内はサインできなくて」
右と左に拳を握って力説。
「元々、サインすることなんかないと思ってるから、名前が付くかどうかも決
まってなくて。でも、それでもかまわないかなあと」
「しょうがない。だったら、『涼原純子』でいいよ」
町田が狙いを切り換えてきた。
「な、何が?」
「本名でOKってこと。考えようによっちゃあ、本名の方がもっと値打ち出る
可能性が……あ、怒った? にゃはは、冗談だって」
純子が心持ちふくれ面になるのを見て、町田はすかさずフォローに回った。
席を離れてすぐそばまでやって来ると、肩をばんばん叩く。
「怒ってはいないけど。――鷲宇さんのサインがあるだけで充分よね」
純子が終止符を打とうと肩をすくめてみせたのに対して、にわかファンでも
ある友達三名は首を縦に振らなかった。
「いんや。私らはブレイク前のあんたのサインもほしい」
「そうそう。こんなことって滅多にない」
純子は考えた末、鞄の中からノートを取り出した。
早々と富井が反応する。
「あっ、してくれるんなら、ノートじゃなくてファッション誌に」
「そうじゃないわ。えへへ」
純子はノートの片隅を指差した。そこには「三年五組」のあとに続き、自分
の名前が書いてある。言うまでもなく整った書体で綴られており、芸能人のサ
インとはとても呼べない。
「最後まで使い切ったら、このノートあげるね!――なんちゃって」
純子は只今、悩みを一つ抱え込んで下校していた。
それは、小さな頃に琥珀を譲ってくれたのが香村綸だったこと。香村から打
ち明けられて以来、誰にも伝えず、胸に仕舞い込んだままでいる。
と言っても秘密にするつもりは全くない。本心では聞いてもらいたい。今日
も部活のあとだって、何かきっかけがあればぽろっと話していたかもしれない。
しかし。
(この話をしたら、香村君とどうやって知り合ったのかも話さなくちゃいけな
い。長くなるし、また隠しごとしてたってばれちゃう。ドラマが放映されるま
で待った方がいいよね、多分)
そういう風に考えると、話せるのは相羽ぐらいに絞られてしまうのだが。
(相羽君、香村君とは案外反りが合わないみたい。そんな人の話を持ち出して
も、相羽君は面白くないわよねえ、きっと。
あと、一応、私が会えますようにって待ち望んでいた男の子のことだもんね。
それを男の子の相羽君に話すなんて)
顔の真ん中辺りがほんのり赤くなった。
(べ、別に、香村君が好きとかどうとかじゃないし、相羽君に話してもいいん
だけれど! ……香村君とまた話せる機会、あるのかな。あのときは慌ただし
くて、詳しい話ができなかった。お礼を言うのと、もっと話したいのと)
言葉を交わすチャンスはもう訪れないような気がした。それどころか、ドラ
マで共演した事実までもが夢だったのではないかと思えてくる。放映されたの
を目にすれば、また実感が湧いてくるのだろうけど。ただ、実感がいくら湧い
たって、香村との会話には結び付かない。
(今できると言ったら……お父さん達に聞いてみようっと)
恐竜展に連れて行ってくれた両親が何か思い出すかもしれない。少しだけ期
待した。
純子の足取りが軽くなった。
家に帰ってしばらくすると父も戻って来た。話を持ち出すのを夕飯の席にす
るかその前にするかを迷って、結局逸る気持ちが優る。
「ねえ、お父さん、お母さん。恐竜展に行ったときのこと、覚えてる?」
「んー?」
新聞紙が音を立てた。夕刊に視線を落としていた父の反応は鈍い。母親の方
も食事の準備で急がしそうだ。包丁の音が激しいから、聞こえなかったかも。
純子は料理の手伝いをしながら、母に改めて聞いてみた。
「何度か観に行ってるけれど、いつの?」
「私が小一のとき。ほら、迷子になりかけた……」
「覚えているわよ」
短く応えると、黙って味見をする母。「それがどうかした?」とでも言って
くれれば言葉をつなぎやすいのだが、純子は待ちきれない。使ってから洗った
ボールを拭きつつ、話し掛ける。
「あのとき、同い年ぐらいの男の子が」
「ええ、そうだったわね」
今度は返事が早い。
「どうしたの、いきなり恐竜展の話なんて始めて。また行きたくなった?」
「えっと、行きたいことは行きたい。でも今はそうじゃなくて」
香村綸の話をあますことなく伝える。そして、記憶に残っているかどうかを
聞いてみた。
「香村綸君て、この間のドラマで一緒に出た子でしょう? 本当に? へえ、
偶然てあるものなのねえ」
母親の関心は、思いも掛けぬ巡り合わせの方に向いてしまったようだ。純子
はいじいじしてきて、両手に拳を握った。
「それよりも、香村君の顔、思い浮かべてよ。私が恐竜展で一緒だった男の子
と比べて、どう?」
「……そう言われてもねえ」
包丁を持ったまま、宙で器用に頬杖をつくポーズを取る母親。先ほど火に掛
けた鍋が、小さく音を立て始めた。
「元々の男の子の方が思い出せないわよ。あのときは、すぐに別れてしまった
のよね。お礼がてらにお茶でも飲む時間があったらもっと鮮明に残ってるもの
なんでしょうけど」
「ああん、思い出してよぉ」
「長い間一緒だったあなたが覚えてないものを、無茶言わないの。だいたい、
あなたが一年と言ったら今から……七、八年前?」
母は再び料理に没頭。純子は横で立ちすくむ。
「そんなに昔の話、覚えてない。歳かしら」
「こういうときだけ急に老けないでよー。ねえー、お父さーん」
食卓に茶碗や湯呑みを運ぶついでに――逆かもしれない――、純子は父に話
を再度向けた。そして案の定、一からの説明を強いられる。
「僕らに確かめなくても、相手の男の子がそう言ってるんだからいいんじゃな
いのか?」
「違うの。次に出会ったときに話をするために、思い出しておきたいの。お父
さん達が何か覚えてたら、私、また何か思い出すかもしれないでしょ」
加えて、「思い出を深くしたい」という意識もある。どちらかというと、こ
の後者の理由が前者を上回るだろう。
「残念ながら、さっぱり覚えてないんだ」
新聞を折り畳み、肩をすくめ気味に笑う父。
「何しろ、香村綸というタレントが分からない。見たことあると言われてもな
あ……うーん」
純子は声もなく嘆息した。
気分を切り換え、手伝いに復帰すると、今度は母の方から問い掛けがあった。
「元先生から絵のモデルを頼まれたという話、どうするつもりなのかしら?」
「あ……断ろうかなあと思ってるんだけど、いいのかな」
純子は天井を見つめて、舌先を覗かせた。事務所のOKは確認したものの、
先方から問い合わせの連絡がないのをいいことに、後回しにしていたのだ。
「お世話になった先生なんじゃないの?」
「短い間だけね。臨時の先生だったから」
「大事なモデルなら、引き受けた方がいいかもしれないわよ」
「大事かどうかは分からないけど。大事だったら、普通、ちゃんとしたモデル
を探すんじゃないかなぁ」
「どちらにしても、きちんと返事しときなさいな。礼儀として」
「もちろん」
返事を引き延ばしてきた事実もどこへやら、純子はきっぱり言い切った。
* *
「たまにはテレビも見なければいけないな」
紅畑は口元だけで苦笑しつつ、テレビのスイッチをオフにした。そのまま籐
の椅子に身を預ける。
(なるほどねえ。タレントなんかやってたのか。道理で、私が誘いを掛けても
乗ってこないはずだよ。普通の女生徒なら、喜んでほいほい着いてくると踏ん
でいたのにねえ。当てが外れたな)
眼鏡のフレームを指先で軽く押し上げ、短いため息のあと、不意に立ち上が
るとパソコンの前に座り直す。画面には縦横の線に日付を示す数字等が並んで
いる。スケジュールソフトが起動してあった。
「計画変更、か。面倒臭い」
つぶやきつつも、両手を組み、画面を見つめて考え始めた紅畑。五分と経過
しない内に、煙草を手にした。開けたばかりの一箱がキッチンテーブルの片隅
にあったが、懐から新しいのを取り出す。灰皿もあちこちにあった。
(接触方法を新しく考え直すか、やり方そのものを変えるか)
煙を機械的に吐き出す。事実、味わって吸っているわけではない。習慣だ。
(別の方法――理由を考えたとして、涼原純子に再び接触を図るのはよろしく
ないな。しつこくして、万が一にも怪しまれたら元も子もない。くそ。あいつ
め、どうしてタレントなんかやってる子を……。ふふん、変わり者は変わり者
に惹かれるということか。こいつはいい。お似合いだ)
自らのジョークを気に入り、ほくそ笑む紅畑。肩が揺れた。吸いさしの煙草
はまだ長かったが、あっさり灰皿に押し付けられた。
「さてと、仕方ないねえ。手間を掛けさせてくれる生徒だ」
身を乗り出し、キーボードに手を添える。スケジュール欄の一部を消去。
(涼原純子を誘い出せば、いずれあいつがついてくるという狙いはよかったん
だが、捨てるしかないか? あるいは別の女生徒にするか……。しかし、あい
つが最も気にしてる女生徒が涼原純子なのは間違いない。非常に分かり易かっ
たからな。それ以外に適した女生徒を見つけ出せるかねえ? あまり時間を掛
けたくない。多人数に接触していたら、それもまた勘づかれる要因になりかね
ないし。
畜生。あいつのせいだ。あいつが変わり者を好きになるから、こんな目に遭
う。まったく忌々しい。おかげで計画を全面的に変えねばならない羽目になっ
たじゃないか。
あいつの家族は……母親一人か。いよいよとなればこの母親に接触しよう。
元とは言え、教師の言葉に疑いを持つ親はいまい。向こうに筒抜けになるのは
マイナスだが、顔を見せることで精神的圧力を掛けられるプラス面もある。
しかし、これはあくまで最終手段。何か他にあるはずだ)
最後の手段をメモすると、紅畑はさらに思考を巡らせにかかった。
(人を使えば簡単なんだが、仲間なんて当てにならないからな。自分一人で成
し遂げられる計画を……。
そうだ。何も自分を名乗らなくてもいいじゃないか。ふふ。こいつはいい。
何度も繰り返して使えはしないが、非常にメリットがある。どうしてこんな簡
単かつ効果的なやり方を、今まで思い付かなかったかな。
どういう風に料理してやろう? そうだな、あいつ自身を精神的につらい目
に遭わせてやる。涼原純子の名であいつを呼び出して、そのまますっぽかすだ
けでも充分効くだろう。逆に、あいつの名前で涼原純子を呼び出し――ふふふ、
楽しいねえ。あいつの顔が歪むのが、目に浮かぶ)
紅畑は声もなく、肩をかすかに震わせた。
(とりあえず、涼原純子のデータも改めて見ておくか。ええっと)
臨時教員を務めていたときに持ち出した生徒の基本的な情報は、今もパソコ
ンの中のデータベースに保存してある。
検索を掛けるために、紅畑はキー操作を始めた。
「ん? ツ?」
思惑外の文字が表示され、新たにくわえたばかりの煙草を落としそうになっ
た紅畑。火を着けていなかったのが幸いする。
画面の片隅を見れば、いつの間にかカナ入力になっていると知れた。
「どうも調子狂う。こんなことまで面倒かけやがる」
些末なミスにまで八つ当たりしながらも、操作を続ける。やがて、データが
表示された。
「なるほどね。同じ小学校か。三人家族で、成績は、何だ、随分といいじゃな
いか。タレントなんかやってるからばかだと思ったが……」
* *
――つづく