#4778/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 2/27 17:33 (158)
そばにいるだけで 33−8 寺嶋公香
★内容 17/04/20 19:57 修正 第2版
「進路調査の紙を配ります」
ホームルームの時間、純子はプリントを配り始めた小菅先生をそれとなく見
やりながら、昨日の放課後のことを思い起こした――。
「相羽君の考え過ぎだったのよ」
話を聞いた町田は、いとも簡単に断定した。
小菅先生が職場復帰したのは、純子達がお見舞いに行った翌々日からだった。
以来、何ともなかったかのように授業やクラスの仕事が進められている。
他言無用の必要もなくなったとの判断から、富井が、調理部の活動のあと、
町田や井口らに話したのである。
「相羽君でも外れることあるんだ」
「当たらない方がいい」
同席する相羽は興味なさそうに返事した。先生のことは気になるが、自分の
ぶしつけな推測が当たろうが外れようが関係ない、そんな風情だった。
――純子は隣席の相羽に視線を移していた。前から回ってきたプリント、そ
の物音で我に返る。一枚取り、後ろに渡した。
(相羽君は今の先生を見て、何か違うことを感じてるのかしら)
純子の目には、先生の元気が以前より薄くなったように映る。
「何?」
相羽の声に、純子は背筋を伸ばした。長い間、見過ぎていたようだ。
「あ、相羽君はどうするのかなーと思って」
「すぐ書くわけじゃないんだから、覗いたって仕方ないでしょ」
相羽はプリントに記名だけして、折り畳み始めた。進路希望調査は家の者と
相談し、三つ程度を回答する形になっている。提出期限は今週末だ。
「それはそうだけれど……進学は間違いないわよね」
「多分。――純子ちゃんは選択の幅がずっと広いね。この場で大っぴらには言
えないけれど」
秘密めかす風な相羽の言葉を、純子はプリントに目を通しながら聞いた。
「ううん。私も進学希望よ。相羽君の成績なら、この辺でトップの緑星高校も
狙えるよね。それとも私立?」
「……まだそこまでは。そっちこそ、もう決めてるの?」
「とんでもない。ただ一つ思ってることは、みんなで一緒の高校に行けたらい
いなって」
「みんな、ね」
相羽は軽くうなずいて、鼻息をゆっくりついた。
「あ、無理だと思ったでしょっ」
「思ってない」
「ほんとに? そりゃあね、友達みんなが同じ学校に行けるなんて、実際には
難しいでしょうけど、でも、そうなればいいって思う気持ちも真実なんだから」
「分かってるよ。――差し当たって、三年になって同じクラスになれるかどう
かの方が重要じゃないか」
「……うん。すぐに修学旅行があるし、できれば仲のいい友達と一緒になりた
いな」
お喋りに夢中になっているところへ、ホームルーム終了を告げる先生の声が
聞こえた。
「……しまった、失敗」
舌先を覗かせる。説明をほとんど聞いていなかったことに気付いた。
一瞬にして、大人。
「これがコンセプト。キャッチフレーズだよ」
CFディレクターの東海林がコンテの冒頭に書かれた文字を弾いた。
後方では、手をゆったりと組んだ宣伝部の中垣内部長が、穏やかな笑みを作
っている。天気のよい昼下がり、揺り椅子に収まって編み物でも楽しんでいる
婦人を思わせる姿だ。
美生堂の新商品口紅『ファーストキス』の撮影現場は、慌ただしさの中にも
徐々に緊張感が高まりつつあった。
(試験直前の気分。……学校試験も迫ってるんだっけ)
気持ちを集中させようとする純子だが、時々雑念が入る。まだまだ。
「あなたにキスの経験はあるのかしら」
中垣内が物静かな口調で聞いてきた。実に日常的に、喉越しのよい飲み物の
ようにするりと届いた言葉に、純子は反応が遅れた。声に出さずに両手を振っ
て否定しておく。
(本物の、意識したキスはまだだもんね)
嘘は言ってないと純子が自身を納得させる間に、中垣内は満足げに首肯した。
「それでこそ、『ファーストキス』のモデルにふさわしいわね」
「あ、ありがとうございます」
よく分からないまま、謝意を示した。
お辞儀した拍子に、肩に掛けていたショールがずれた。肌色が覗く。
「あっと――危ない」
年齢に比すと大胆に肩を露出した衣装に、まだ慣れないでいる。着心地はよ
いのだが、他人の視線にさらされることに慣れない。
(今の、相羽君に見られたかしら?)
ショールを戻しつつ、スタジオの四方の壁に目を向ける。今回、久方ぶりに
相羽が見学に来ているのだ。
(あとでどうせ見られると分かってても、やっぱり恥ずかしいよ……)
幸い、相羽はスタジオの隅っこにいて、母親と何やら話し込んでいた。撮影
機材の影になっているから、純子の方を向いても視界は判然としないだろう。
「雪で渋滞してるから、男の子の方はあとから到着ってことで。そろそろ始め
ますか」
号令が掛かった刹那、スタジオに意外な訪問者が足を踏み入れた。
「香村綸よ」
「え? あっ、本当だ」
香村綸とそのマネージャーの登場に、全体がざわつく。
アシスタントの数名が仕事の手を止めてしまい、驚きを声に出している。驚
愕が中垣内や東海林らにも伝染し、撮影はスタート寸前で一旦停止。
「突然お邪魔をして申し訳ない」
近寄る主要スタッフらの機先を制するかのように、謝辞で始めたのは藤沢マ
ネージャー。なよなよと砕けた感じが影を潜め、毅然とした物腰だ。普段がプ
リンだとしたら、今の彼は冷凍プリンか。
自己紹介を兼ねた挨拶を済ませると、藤沢は来意の説明を始めた。
「彼女――涼原純子さんを見ておきたいと、うちの香村が言うものでしてね」
かいつまんで言えば、ドラマ共演予定の純子を応援がてら、見物に来た、そ
んなところらしい。
「お忙しい最中、わざわざお越しくださって、ありがとうございます」
ドラマとCM双方に関わる相羽の母が中に入る。多少非難がましい響きを持
って、藤沢と相対した。
「事前に連絡の一つもいただければ、こちらとしても席を用意しておいたので
すが、突然のことですから驚くばかりで」
「かまいません。そこらで大人しく見させてもらいます。今日はたまのオフな
のでのんびりと」
藤沢は直線だけで作ったような笑顔をよこした。動じていないようだ。
「あの子を緊張させないでくださいね」
相羽の母が忠告した折も折、香村は藤沢の横から離れ、駆け出した。撮影ス
ペースに入る寸前だった純子へ一直線に走る。
「やあ。元気してる?」
「――元気よ。心臓が運動会してるわ」
ため息混じりに返す純子の前、香村は快活に笑った。純子の手を取り、さら
に微笑みかける。
「元気ならいいじゃん。頑張ってよ。凄くきれいだ」
故意なのか気付いていないのか、話の長い香村。このままでは撮影がいよい
よもって遅れかねない。
と言って、若手の中では十指に入る人気タレントのすることに、おいそれと
口を出すのも難しかった。藤沢の言葉さえ通じない場合もあるという。中垣内
が言えばどうにかなるかもしれないが、初対面の相手に現時点では遠慮してい
る。年功者故の慎みに違いない。
「CMが流れてポスターが出回って、みんなに広まった頃にドラマ。インパク
トあっていいと思うんだよね。それに、『ハート』のあの女の子っていうのも
話題集めるの間違いないしさ」
「え、ええ」
いい加減、純子も話を打ち切るべきと考えたとき、第三者が不意に割り込ん
できた。
「サインをお願いしまっす」
相羽だった。ぼんやりした眼差しにかすかに笑みを携え、香村を見据えてい
る。背はわずかではあるが、相羽の方が高いようだ。
「あい――」
「誰だい?」
純子の声に香村のが重なる。まるで北極でらくだを見かけたかのように、と
表現しては大げさに過ぎるかもしれないが、この場にどうしてこんな子供がい
るのか香村には理解できないようだ。
「僕も見学者です」
相羽はストレートに答えた。依然、笑みを絶やさない。純子は呆気に取られ
ながらも推移を見守った。そうするほかない。
「こんな有名人に会えて、運がいいや。感激もの!」
「……君は彼女の友達かい?」
「同級生。あ、でも今日ここに来たのは、僕の母が仕事に関わっているからだ
けどね」
心なしか、二人とも言動が挑戦的な空気を帯びつつあるようだ。
「突然思い付いたもんで、色紙も何も用意してないんだ。このシャツにでもし
てくれる? それとも撮影してる間に買って来ようかな、色紙」
「――ふむ。僕に男のファンがいるとは思わなかったな」
鼻を鳴らすと軽く両手を上げ、歩き始めた香村。
「当分見学してるから、色紙とペンを持って来て。何枚でもサインしてやるよ」
「どうも、サンクス」
微妙な緊張感を保ちながら、二人の少年はスタジオの壁際に向かった。
(相羽君……何考えてんのよ)
彼が本当にサインを欲しがっているのではないと、純子もさすがに気付いて
いた。奇妙な成り行きに、調子がおかしくなりそう。
が、今はそうそう弱音を吐いていられない。やっと準備が整ったのだ。
(よし、やるぞ)
気持ちを引き締める。でも、表情はやわらかく。
順調に進んでいた撮影だったが、あるところまで撮り終えると途端に滞った。
男の子のモデルの到着が遅れに遅れているためだ。背中を撮るだけとは言え、
構図的にどうしても必要な存在である。
休憩も兼ね、やきもきして待っているところへ電話連絡が入る。それは最悪
の内容を携えていた。
「事故った?」
――つづく