#4772/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 2/27 17:26 (200)
そばにいるだけで 33−2 寺嶋公香
★内容
答を待つ短い間、不安がよぎった。
「えへへ。だったらよかったんだけどさぁ」
耳打ちしてきた井口。息がくすぐったい。
しかし純子が笑ったのはくすぐったさのせいではなく、安堵したからかもし
れない。
「さっき、そこで相羽君とも偶然に会ったのよ。凄いラッキー。ハクがいなけ
ればもっとよかったのに」
「あは。そんなかわいそうなこと」
内緒話をする二人を前に、相羽はおもむろにしゃがんで、ハクの身体を撫で
始めた。優しく、しかし忙しない手つきだ。
「相羽君も散歩? ……じゃないわよね」
格好を見て自らの言葉を訂正する純子。
「トレーニング中でしょ? 油売っててもいいの?」
相羽が見上げてきた。が、視線が安定しない。以前ほどではないが、まだ避
けようとしている節が見え隠れする。
「問題なし。このあと倍やるよ。それに井口さんと約束したから、家に戻るま
で付き合うって」
「じゃ、私も行こうかな」
と言って井口の方を向く。でも次の瞬間、純子は首を横に振った。
「あ、いけない。お使いの途中なんだった。帰りしなだったらよかったのに」
嘘をつくのは心苦しいものがあったけれど、井口の表情に笑みが戻るのを確
認できて、よかったとも思う。
「さて、忙がなきゃ。こうしてられないのは私の方だったわ」
説明がましくなりそうな物腰が自分でももどかしく、落ち着かなかったが、
手を振ってごまかしながら純子はその場を立ち去った。
方角が合っているのかどうか自信はないが、とにかく走った。
(よく分からないけど……あいつのこと気になってたまらない)
考えごとがまた一つ増えたかもしれない。
* *
放課後、相羽は一人で音楽室にいた。
音楽担当の源(みなもと)先生に頼んで、運良く貸し切り状態にすることが
できた。この季節、三年生の授業が変則的なおかげも少しはあるのかもしれな
い。あるいは、関屋先生が口添えしてくれたことも大きいだろう。
「やるか」
相羽はつぶやき、上着の学生服を脱いだ。畳んで近くの椅子に掛けておく。
多少肌寒いが、文句は言えない。詰め襟を着たままだと、何となく弾きにく
いのだ。
ピアノに向かう。許可を得ているとは言え、一生徒が学校のピアノを長々と
独占していいはずもないから、時間は無駄にできない。
準備を整えると、深呼吸した。緊張しているわけではもちろんない。演奏前
のセレモニーみたいなもの。自分以外に聴く者がいなくても、よい演奏をした
いじゃないか。
最初は何がいいかな?と思った。
(純子ちゃんが好きなオサリバンか、デビュー曲の『そして星に舞い降りる』
にしようか)
そこまで考えて、急に頭を振った。自嘲気味の苦笑を浮かべ、こめかみ辺り
を指で軽く揉む。
(今日は純子ちゃんを――涼原さんのことを忘れないとね。雑念を取り除くた
めに弾くんだ)
相羽が選択したのは、初めて父に教わった曲。脳裏に五線譜をイメージし、
メロディを唱えてみると、これこそふさわしいと感じた。
暗譜できているかどうかは確認しない。ただ弾くことが大事。
相羽は黒光りするピアノに自らの顔を見つけ、かすかに微笑んだ。
「楽しく行こう」
自分のための独演会。
さあ、始まりだ。
* * *
肩をぽんと叩かれた相羽は、でも手を止めることなく首だけ振り返った。
「集中していたね」
関屋先生の穏やかな表情があった。
さすがに演奏を中断し、相羽は立ち上がった。
「すみません。全然気付かなくて」
「いやいや、かまわない。弾き続けてくれてよかったのに。だいぶ前から、後
ろで聴かせてもらっていたんだよ」
「そうだったんですか」
何気なく教室の後方を見やる。と、少しだけ驚いた。
「私としてもね、聴き続けたかったんだが、あの子が君に用があるらしかった
から」
先生の言う「あの子」とは純子のことだった。
相羽は純子の顔を、全身をじっと見つめてみた。
* *
本来、純子は早く帰るつもりだった。身体を休めなさいという脳の要求に応
えるために。
(何だってこんなときに、清水の奴ぅ)
生徒昇降口まであと数歩という地点で、清水に呼び止められた。
最近になってようやく普通に会話できるようになったが、見るとこのとき清
水は一人。純子は脈絡もなく、告白されたときのことを思い出した。あるいは
今、北村からの告白の問題を抱えているせいかもしれない。
「何か用?」
警戒しつつ、尋ねる。スポーツバッグを肩から背負った清水の方は何ごとも
ないみたいにつかつかと近寄って来ると、右肘を折って辞書を肩の高さに掲げ
た。
「相羽にこれ、返しといてくれよ」
赤い表紙の英和辞書が純子の手に渡る。心構えができてなかったため、ほん
のわずかだがよろめきそうになった。
「じゃあな。急いでるんで」
「――ちょっと! 自分で返したらいいでしょ!」
部室へ急いでいるところらしい清水に、純子は大声で聞いた。返答も大声だ。
「だから暇がねえの! 探しても見つからないんだから、しょうがねえじゃん。
同じクラスならどこにいるか分かるだろ!」
よく聞けば無茶な理屈だが、純子が言い返すより前に清水は視界から消えて
しまっていた。
「もう」
頬を膨らませたが、それは一瞬のこと。純子は手元の辞書に視線を落とし、
相羽の名前があるのを確認すると、彼のいそうな場所に思考を巡らせた。
真っ先に下駄箱を見に行った。外靴があることから、まだ校内だと知る。
(教室にはいなかったようだけど)
それでも一応、十組へと急いだ。が、これは徒労に終わる。
(じゃあ……部活はないから家庭科室は違うと思うし……唐沢君と一緒にいる
としたらテニスコートかな? あ、でも、あそこは外靴。立島君のバスケ部を
見に体育館へ行ったのかも)
迷うことなく体育館へ。ところがここでも予想は裏切られた。しかも、前田
に「見ていかない?」と呼び止められ、つい見入ってしまったせいで時間を食
う。遅れたついでに、立島らに相羽の居場所を知らないか聞いてみたが、芳し
い答えは返って来なかった。
(どこ行ったのよー)
嫌気が差し始めた頃、渡り廊下をせかせかと急いでいた純子は漏れ聞こえて
くる音に意識を留めた。
「ピアノ……相羽君だわっ」
根拠はない。ただの直感だ。
絶対の確信を持って純子は音楽室を目指し、その手前の廊下で直感が正しか
ったことに満足したのだった。
最初はとばっちりを受けた気晴らしに、どやしつけてあげようかしらと思わ
ないでもなかったが、この相羽の演奏が万一にも授業に関係していることだっ
たら洒落にならない。純子は自重して、ガラス細工に触るみたいに教室後方の
扉を丁寧に開けた。
「失礼します……」
相羽の音楽に満ち溢れた音楽教室は、ただいるだけで気分がよくなるよう。
短い間、音に身を任せた純子は、相羽の姿を探そうとしたが、それより先に関
屋先生の存在に気付いた。
(関屋先生のために弾いてる? とりあえず、授業とは無関係みたいだけれど)
念のために足音を潜め、純子は教室の最後列の席でやわらかい笑みをたたえ
る関屋先生に接近した。
「あの、すみませんが」
「――ああ、涼原さん」
先生は眠りから覚めたばかりのような目つきをし、小声で応じてくれた。純
子は用件を伝え、辞書を置いて行くから渡してくださいますかとお願いした。
だが、先生は、
「彼にも休憩が必要でしょう」
とつぶやくと、おもむろに席を立ったのだ。そのまま相羽のいるピアノへと
歩いていき、背の辺りを一度軽く叩く。そんな様子が窺えた。
音楽が途切れた室内で、相羽が自分の方を向く。純子は視線を意識し、身を
ちょっぴり固くした。
(や、やあね、じろじろと。……あらっ? 私のこと避けてないわ)
そうと分かれば全身の筋肉もほぐれる。
純子と相羽は同時に歩み寄った。
「用事って?」
「これを返すようにって」
「怪我をするような無茶は慎むように」
三日前、校内球技大会開催を知った相羽の母と市川から、何度も釘を刺され
た。念入りに、それこそガラス細工の取り扱いのように。
(大事な撮影が近いってことは分かるけれど……おうむに言葉を覚えさせてる
んじゃあるまいし、一度言えば分かる)
注意された時点での純子は内心、反発していた。
しかしいざ大会が始まってみると、本来の運動好きも手伝って、ついつい力
が入ってしまう。
「やった!」
タイムアップのホイッスルが鳴ると同時に、仲間と手を合わせて歓喜する。
バスケットボールに出場した純子は、忠告も忘れて張り切っていた。
「寒さを覚悟してたけど、案外だったよね」
「他の種目と違って、体育館でやるとやっぱり違うみたい」
体育館の壁際に座り込むと、火照った身体を冷やさぬよう、ジャージ上下の
着用にかかる。
「準決勝が難関だよね」
一人がつぶやくと、他の四人がうんうんとうなずいて同意。
「相手チームには前田さんがいるから」
マネージャーとは言えバスケ部の前田は、選手としても力を秘めている。背
が割とある上に、ジャンプ力が飛び抜けているのだ。
「頼みの綱は涼原さんだから」
期待される純子は、言ってみれば前田と同タイプ。事実、これまで勝ってき
たのも、純子のジャンプ力によるところが大きい。
でも今回はさすがに自信がなかった。
「そう言われても本職にはかなわないだろうから、動いてかき回そうかな」
「だめよー。かき回すのは私達に任せて、ばんばん飛んでちょうだい」
「うまく行くかどうか、始まってみなきゃ分かんないよ」
着終わって、体育館を出た。準決勝以降はお昼休みを挟んで午後からだ。
「純子ちゃん、どう?」
渡り廊下を歩いていると、相羽から声を掛けられた。男子達もちょうど教室
に引き返すところだったと見える。
「何とか残ってます。次が強敵よ。前田さんがいる」
「さすが」
「サッカーはどうなの?」
四種目ある内、相羽達はサッカーに出ている。
「絶好調だぜ!」
答えたのは同じサッカーチームの藤井。やけに明るくて、Vサインを作って
いる。そしてもう片方の手で相羽の肩を引き寄せる。
「こいつと組むとやりやすいんだ。以心伝心て感じ。ベスト!」
「そいつはどーも」
苦笑で応じる相羽。
「まあ、以心伝心は本当だよな。あそこにいてくれって願うポジションを見れ
ば、藤井がいる。ああいう瞬間、やった!と思える」
「自分も同様。ボールよこせ、ほい来たってね」
「うふふ、息がぴったり合ってるのね」
純子は感心を含めた微笑を浮かべた。
(この二人、普段はそれほど話していないと思ってたのに。男子って分かんな
いなあ)
お喋りのおかげで時間が掛かったが、教室に到着した。
と、その際に。
「あ――何か落ちそうだよ」
後ろを行く相羽の注意に、純子は立ち止まって肩越しに振り返った。
「え?」
――つづく