#4755/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 1/31 3:28 (200)
そばにいるだけで 32−5 寺嶋公香
★内容
分からなくて首を激しく振ると、ストレートに垂らしていた髪が傘を作った。
「純、どうしたん?」
ぽんと肩を叩かれ、面を上げると町田に焦点が合った。向こうは、まぶたで
風を起こそうとしてるみたいに両目を何度も瞬かせている。
「気分よくないの?」
「そんなことないわ……ううん、ちょっとよくないかも、気分」
小さな声で答えた。
「大丈夫? 部活自体は終わってるんだし、気兼ねなしに抜けていいんだよ」
「平気。頭が痛いとかそんなんじゃないから」
唇の両端をきゅっと上げて笑みをなす。モデルのキャリアを重ねたせいか、
単純な表情を作るのはお手のものになっていた。
「ねえねえ、久仁ちゃんとこのクラスに転校生があったんだって!」
「はいはい、知ってますよ」
騒々しく話を振ってきた富井に、町田が落ち着いて対処する。さすがに情報
通、転入生があった件もチェック済みだ。
「坂祝晴彦(さかほぎはるひこ)クンだっけ? 見た目は、よく言えば影のあ
る、悪く言えば根暗そうな、ともかく物静かなタイプでしょ」
問いかける相手は井口だ。彼女は二度うなずいた。
「うんうん。でもね、ルックスはいいのよ。痩せてて、悪者側の若き指揮官て
イメージの」
「ヒーローよりも人気が出ちゃうってやつ?」
相羽が軽口を挟むと、井口は大真面目にうなずいた。
「そう、ほんとにそんな感じなの。話し掛けづらい雰囲気があって、まだ女子
は誰も積極的に動いてないんだけどね、人気出るかも」
「それじゃ、相羽君に探ってきてもらおうかしら。男同士ってことで、私らよ
りは話し掛けやすいはず」
冗談を飛ばした町田に対して、相羽は簡単に請け負った。正確には、引き受
ける素振りを見せた、ということになりそうだ。
「そうだね。転校の経験豊かな僕は、おかげで人見知りしなくなったから。き
っとうまく声を掛けられる。ははっ」
どうやら冗談だったらしい。
相羽の愉快そうに笑う横顔なんかを見ていると、純子は、自分にだけ壁を作
っているように感じるのは何故なんだろう?と思わずにいられない。
「お昼も近付いてきたことだし、そろそろ帰りますか」
純子の思考を町田の声が遮った。
夕食後の涼原家の居間は、穏やかな空気に包まれていた。
「何をやってるのか、話してくれないか」
娘の稽古事の中身を気にしたのは父。アルコールが入っているが、意識はは
っきりしており全く問題なし。ただ、少量でもすぐ外に出るタイプだから、今
も顔は真っ赤だ。
レッスン疲れで返事する気力に乏しかったけれども、水を飲んで喉を潤すと、
純子は頑張って答えた。
「今はね、発声と色んな表情を作る練習が多いかな。他にはダンス」
「発声? 歌を一つ出したのに、またかい?」
父が不可解と言わんばかりに首を捻った。母も続いて疑問を呈する。
「表情にしたって、モデルのために散々やったんでしょう? 笑顔を」
「それが違うの。今度のは演技指導。滑舌のよさとあらゆる表情を作れるよう
になることからスタートってわけ」
「何? じゃあ、あれか。少し前に聞いた、ドラマの」
「ううん、関係なし。具体的に目的があるわけじゃなくて、将来に備えて、な
んだって」
クッションを抱きかかえ、そこに顔を半ばうずめるようにして目元をほころ
ばせる純子。
「やることは主にモデルと歌手が……半分半分ぐらいになるって聞いたわ。当
然、そっちのレッスンも続いてる」
「そうか。まあ、何だ。無理だと思ったら、いつでも言っていいんだからな。
純子が普通に育ってくれれば充分。店なんかでたまに歌が流れているのを聞く
と、びっくりするやらため息が出るやら」
「心配しなくても、もうじき戻りまぁす」
両拳を胸のクッションの前に掲げ、はつらつと答えた純子だったが、次の父
の問い掛けに固まる。
「ときに……学校の成績はどんな調子だ? 上がったか?」
「……変わってない」
「下がってないなら、いいじゃありませんか」
母からのフォローに、ちょっと安堵する。固く抱きしめられていたクッショ
ンが、柔らかさを取り戻した。
「純子ほどの成績があれば充分です」
「まだ何も言ってないぞ」
父の方は困惑気味に眉を寄せた。
「成績が落ちていないのは本当なんだな?」
「う、うん。ただ……」
「ただ?」
促され、努力して口を開く。
「得意科目は上がって、その分、苦手なのが下がってる……」
「つまり苦手科目を遠ざけ、好きなものばかり力を入れてるわけか。しょうが
ないな」
大きく息を吐く父。さてどうしたものかと思案げに、顎へ手を当てた。
「高校はどうするんだ?」
「行く」
「何のために」
娘の即答に、父も間髪入れないで質問を重ねてきた。
「何のためって……」
「もしモデルだの歌手だのをずっと続けるつもりなら、行く必要ないとは思わ
ないか」
「続けて行くかどうかなんて、決めてないよー。私一人で決められることじゃ
ないと思うし。それに続けるとしても、高校に行きたい」
「では、さっきの質問に逆戻りだ。どうして行きたいんだい」
「……」
「純子は、勉強が好きか」
「うーん……しんどいけど、嫌いじゃない」
ちょっと空気が緩んだ。
「新しく何かを知ることって、とっても面白いの。化石や星について新しい発
見があったって聞いたときみたいに、わくわくする」
「――そうか。それならいいか」
息をつくと、父は両手で顔をひと拭いした。圧力のせいで、肌の色が一瞬だ
け白くなる。
「高校に行くのはいい。芸能の仕事をどうするのかも、純子の考えに任せる。
これから決めなくちゃいけないことだぞ。何かあったときは、真っ先に相談し
てくれよ」
「うん」
「……正直言うとなあ、父さんも自慢したくてたまらんよ」
父は不意に頬を緩め、嬉しそうな苦笑いをした。
「うちの娘は普通に中学に通いながら、歌手でモデルでもあるんだと」
「えっとね。ひょっとしたら、言えるようになるかも」
「本当か? そりゃますます将来どうするか……いやいや、今はこんなことよ
りも、純子。どういうことだ? 事務所の方針が変わったのか」
身を乗り出す父に母が声を掛ける。
「あなたったら、何にも聞いていないんだから。三日前だったかしら、話しま
したよ、このことは」
「何? そうか」
唖然とする父への説明は母任せにして、純子はクッションを置くと立ち上が
った。
(美生堂さんからのお話、決まりそうなのよねっ。しかも口紅! 子供用だけ
ど口紅のキャンペーンモデルに。商品名が『ファーストキス』だって! やあ
ん、もうっ)
相羽の母から聞き出した際のことを思い出して赤面し、両頬を押さえる純子
だった。
相羽の母とは、撮影を通してしばしば会える。
純子は何度か話す内に、相羽の様子が変なのは、家庭の事情には関係してい
ないと感じ取った。
親子間のもめ事じゃないと察してひとまず安心できたものの、疑問は去らな
い。純子は他の理由に考えを巡らせ、別の可能性に思い当たった。
(もしかして、武道の方で何かあったんじゃ?)
しかし、これ以上は頭の中で想像が空回りするだけで、ちっとも進展しない。
判断する材料を得ようと、相羽に直接尋ねる手もあるが、どうせ無駄だわとい
う予感が強かった。
(……明日は少し暇だから、道場に見に行ってみよう)
これが結論。幸い、道場の大まかな場所は相羽本人の口から聞いたことがあ
って、メモこそ取っていないが頭の片隅に記憶している。
そして翌日の放課後。
純子は相羽が教室を出て行くのを見送ってからも、しばらく待った。相羽に
知られないよう、内緒で見に行くのだから、すぐあとをつける形になるのはま
ずい。さらに言うと、みんなを誘うわけにもいかない。図書室で宿題をしなが
ら時間を二十分ほど潰し、頃合いと見て学校を出た。
友達につかまることもなく、いつもの下校路と違う道を行く。おおよその方
向を見当づけて進んでいるため、たまに修正のために行きつ戻りつするが、ひ
どい迷い方はしないで済んだようだ。やがて武道場らしき平屋が見えた。
なだらかな三角屋根が特徴的で、四方の窓には木の格子があつらえてある。
そこを通して、若草色と朱色からなる床の模様が窺えた。塀の類はなく、開放
的な印象を醸し出していた。
純子は立て看板で間違いなく目的地であることを確認してから、そろりそろ
りと足を踏み入れた。玄関へと導く敷石の小径があったので、意識がそちらに
向く。
しかし、相羽に気付かれたくないので、正面から見学を申し込む方法は採れ
なかった。
(すみません。ちょっと覗くだけでいいんです)
心中で謝りながら、純子は向きを換えると窓際を目指した。玉砂利で埋め尽
くされたスペースがあり、足音で気付かれはしまいか冷や汗もの。だが、道場
からは気合いの入った声や投げたときの音がほとんど間断なく漏れ聞こえてお
り、安心してよさそうだ。
植え込みの間をすり抜けて、格子窓のすぐ横に純子はたどり着いた。壁に身
を寄せ、隠れる。そして、そーっと首を伸ばし、中を覗き見ようと試みる。必
要以上に気持ちが張り詰め、かすかに白づく息が活発になる。
先ほど垣間見えた緑と朱色の畳の上、手足が交錯するさまが確認できた。白
い道着の裾がひらひらとまぶしい。
そのとき。
「どなたかな」
穏やかさと鋭さが渾然一体となったような、不思議な調子だった。凛とした
声と表現するのが最も近いだろうか。
右手を振り向いた純子の目に、小柄な男性の立ち姿が映った。声の主に違い
ないのだが、イメージがぶれて重ならない。もっと大きな身体の人を想像させ
る声だったのだ。
今眼前にいる男は、顔にはしわがいくつも走り、頭には白髪が多数混じって、
黒縁の眼鏡を鼻に載せるように掛けていた。この寒空の下、薄手の道着のみで
平気な様子をしている。
「お嬢ちゃんは入門希望?」
見ているこちらが気味悪くなるほど、その男性はにこにこしている。恵比寿
様が結婚式を迎えたらこんな感じかもしれない。
(きっと道場の偉い人だわ)
純子は目をそらすこともできず、驚きと緊張で固まりそうな体をぎくしゃく
と動かし、頭を深く下げた。
「わ、私は、知り合いです。ここの生徒さん……道場生の一人と。それでこっ
そり、見学させてもらえたらと思って」
「何だ。なるほど」
入門希望者ではないと知って多少落胆したようだったが、それでも人のよい
柔和な笑みを浮かべている。ごま塩頭の男は柳葉早雄(やなぎばはやお)と名
乗った。
「お嬢ちゃんの名は?」
「涼原純子と言います。相羽信一君の友達です」
「お? 相羽君は本日は休みだが……連絡もあった」
「ええっ、本当ですか?」
純子は恐縮ですくめていた首を戻し、口をぽかんと開けてしまった。
「今日は練習がある曜日だって聞いてたのに」
「それは間違いでないよ。今日だけ、急用ができたと電話で知らせてきよった。
考えてみれば彼が休むのは珍しい」
「どんな用事なのか、そちらで分かるでしょうか?」
「いや、詳しくは知らんがね」
全身の力が抜けて、純子はしゃがみ込みそうになった。種々の要素が集まっ
て緊張が高まっていただけに、気疲れが押し寄せるのも早い。
「お嬢ちゃん、大丈夫かね」
「は、はい」
気を取り直し、折角だからこの人に聞いてみることにした。手の平を握りし
め、どう切り出そうか文をまとめる。
「すみません、お伺いしたいことがあるのですが、今、かまいませんか」
「問題ない。何かな」
「相羽君は……強いですか?」
−−つづく