#4751/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 1/31 3:22 (200)
そばにいるだけで 32−1 寺嶋公香
★内容
純子は口から飛び出そうとした固有名詞を飲み込んだ。
年の瀬も押し迫った街中、人々が気忙しげとは言え数多く行き交う通りで、
この有名人の名前を声高に発するのはまずい。
(あの人、鷲宇さんだわ。間違いない。何してるんだろう?)
鷲宇憲親は雑誌などで見るイメージとはかけ離れた、野暮ったい形をしてい
た。色あせたグリーンのジャンパーを羽織って、そのポケットに両手を突っ込
み、赤の古臭い野球帽を被っている。下はジーパンだが、洗い方が悪いのか、
妙にてかてかしている。目を覆っているのはサングラスと言うよりも、単なる
分厚い眼鏡だ。長く伸びた髪をうなじ辺りで括っているのも、髷を結うのを失
敗したときを連想させかねない。
(声を掛けても、誰も信じないわね)
思うものの、実行ははばかられる。純子は一生懸命に歩いて接近した。
「すみません、あの、鷲宇さん……?」
「――お。奇偶に乾杯ってとこか」
眼鏡の奥で目を強く見開いた鷲宇だったが、相手が純子だと知って安心でき
たらしく、頬を緩めた。
「ばれたのかと驚いたよ。いや、それを差し引いてもよく分かったねえ」
「うふふ、もう記憶に刻み込まれていますから。視力にも自信があるんです」
笑ってから、そのまま並んで歩き出す。
「ところで、鷲宇さんはこんなところで何をなさっていたんですか」
「まず、君は?」
「お使いです。お父さん――父の使ってるプリンタのインクリボンがもうすぐ
なくなるから。仕事にいるって。変な機種で、近くの店には専用のインクリボ
ンが売ってないんですよ。ここまで出て来なくちゃならない」
「親御さんのためにわざわざ? 僕が君ぐらいのときは、お使いなんて拒んで
ばかりだった」
呆れるように感心する鷲宇。純子は微苦笑とともに首を横に振った。
「ついでがあったんです。冬休みの宿題のグラデーションをやろうとして、絵
の具が足りないことに気付いたの」
「どっちにしてもご苦労さん。僕の方はまあ、散歩だ」
「散歩。こんなに寒いのに」
「趣味みたいなものさ。こうして外を散策していると、ふっ……と旋律が浮か
ぶ。様々な情報がランダムに飛び込んでくるからかな。目や耳、鼻、ときには
肌をも刺激してくれる」
「そういうものなんですか。何となく分かる」
納得して、小さくうなずいている純子の上に、鷲宇からの声。
「ところで……君に教えてもらいたいことが一つあるんだが、いいかい?」
「はい? 私にできることなら」
「何て言うのか分からないんだけどね。ボランティア。人助け」
「ほとんど一緒じゃあ……。それに、何のことだかさっぱり」
交差点を前に立ち止まる。歩行者用信号が点滅から赤に変わったところだ。
「向こうでは、ちびっ子どもからのサンタクロースへのおねだりの手紙が山と
積まれている台が――ま、山は大げさか。とにかくそういうスペースが、クリ
スマス前になると街で散見されるんだよ」
「はぁ……」
「周囲には結構な数の大人が群がる。気に入った手紙、自分にできる手紙が見
つかれば、サンタになってボランティアをするわけさ。だから多くは熱心に、
真面目に手紙を読む」
「外国のドラマにそういうシーンがあった気がします。でも、実際には」
「そうか、君も知らないか。僕はこの間、クリスマス前に暇を作って見て回っ
たんだが、どこにもなかった。仲間に聞いても同様の返事」
「恐らく、日本にはあったとしても数少ないんでしょうね……でも、歳末助け
合いの募金があります」
よいことを思い出したと、指を立てて張り切って答えた。ちょうど信号が青
になり、周りの人達に追い抜かれる中、二人はゆっくりしたペースで進む。
鷲宇はうなずいてから、でも、かぶりを振った。
「んー、お金を出すだけなのが悪いとは言わないけれど、もうちょっと」
左手の人差し指と親指とをすれすれまで接近させ、小さな隙間を作る鷲宇。
「年に一度ぐらい、具体的に行動を起こしても罰は当たらないのにね」
「……どうしよう。私、何にもしてない」
真に受けて、顔一面に申し訳なさを刻む純子。
「ごめんごめん。そんなつもりで言ったんじゃないから、気にしなくていいよ。
ただね、戻ってからつくづく感じる。日本人は格好いいことを格好悪いと思っ
ているんだとね。大企業に有名人――」
「あ、あの、意味が分からないんですけど」
「じゃあ個人レベルの話をするとだね……たとえば、横断歩道を渡ろうとして
往生しているお年寄りを見かけたとして、実際に手助けという行動に移せる人
は、どれぐらいいるだろう。他にも電車で座席を譲る、ポイ捨てを注意する、
まあ色々あるが、なかなか実行できない。よいことイコール特別なことと捉え
ているんじゃないかな。目立つのを嫌うからね、日本人の大部分は。特別な行
為をして目立ちたくないんだろうな。よいことっていうのは、やって当たり前
なんだとみんな考えるようになれば、きっと変わる」
両手の指先同士を合わせ、聞き入った。理解できた上に、感心させられた。
「と、偉そうに言った自分も実行できていない。言い訳じみるんだが、有名人
になると枷が生じるよ。マスコミに嗅ぎつけられたらアウト。全てを美談の冠
を被せた記事にされてしまう。それだけならまだしも、ほぼ確実に悪口が返っ
てくるんだよな。やれ格好つけやがって、やれ売名行為だって。嫌になる」
「そう言えば」
純子は昔、鷲宇憲親が様々なチャリティ活動を行っていたことを思い出した。
しかとは覚えていないが、「若造のくせに」とか「事務所もイメージ作りに懸
命だ」なんていう声が芸能誌面をにぎやかに飾っていたようだった。
純子はこのことに軽く触れた。すると鷲宇は声を立てて長く笑った。
「――ははははっ。まあ、あの頃はね、稼ぐようになった僕の周囲ががたがた
しっ放しで、段々と嫌気が差してた。それで、俺が稼いだ金だ、好きに使って
やる!と、ほとんど当てつけのつもりで寄付やら何やらをしたんだけどさ。き
っかけの動機は不純だったが、やってる内にね、僕みたいな人間にも少しずつ
分かってきて、今につながるわけ」
「ふうん。よかったじゃないですか、鷲宇さん」
「ん? ああ、そうとも言えるな、結果的にはね。それより、君も気を付ける
といい。チャリティに限った話でなく、同じ芸能界の連中を含め、周囲から足
を引っ張られないように」
「もしもそんなことになったら、鷲宇さんのせいですからね」
純子の発言に、鷲宇は歩みを遅くした。口を開く間を与えず、純子は続けた。
「私なんかの足を引っ張るとしたら、その原因は鷲宇さんがひいきするからだ
と思って間違いなし。ですよね?」
「ふふ、なるほどねえ。じきにそうじゃなくなると思うけど」
鷲宇は含み笑いをして、純子の左肩を軽く叩いた。
ボランティアの方は現時点では結局のところ、歳末助け合いの募金ぐらいし
かできなかった。
これまでの年末に比べたら、純子の身辺は多忙を極めた。それ故、まず年賀
状を書き上げるのが遅れた。玉突き現象で大掃除に取り掛かるのも遅れる。
というわけで、涼原家は本当の「年末」大掃除に取り掛かっていた。
(普段からやってるつもりなのに、こうしてると汚れてる)
割烹着姿で椅子に載り、カーテンレールをはたていると、つくづくそう感じ
る。まあ、マスクを掛けるほどではないけれども。
「純子、電話が鳴ってる!」
突然、母親の声がした。確かに呼び出し音が聞こえる。要するに、手を離せ
ないから出てくれということだ。
純子は返事のあと、椅子の上から慎重に飛び降り、廊下を走った。今日ばか
りは文句を言われずに済む。
すっかり古くなった送受器を取り上げて応答すると、相手は相羽の母だった。
「お待たせしてすみません。今日は何でしょうか?」
「お母さんはおられる?」
「いますが、忙しいみたいですから、私が聞いておきますけど」
「ん……そうね、純子ちゃん自身のことだし。ただ、長くなるかもしれないの
だけれど、あなたは忙しくない?」
「えっと、大掃除中ですが……さぼれるからいいです」
聞こえるはずないのに、親の耳を気にして小声になる純子。舌先を覗かせた。
「それじゃ、なるべく手早く済ませるわ」
紙の擦れる音がした。が、こちら側の掃除機の騒音でかき消されてしまう。
「驚かないように、落ち着いて聞いてね。ドラマの話が来ているわよ」
「ふうん、今度はバンドですか」
「え?」
「ドラマーって」
「……純子ちゃん。本気なのか冗談なのか、よく分からないんだけれど」
「はい? 私、冗談なんて」
声に真剣味を帯びる純子。焦りも募る。
「ドラマーじゃなくて、ド・ラ・マ。電話が遠いのかしら。語尾は伸ばさない
ようにお願いよ」
「ご、ごめんなさいっ」
送受器を持ったまま頭を下げると、額を壁にぶつけそうになってしまった。
急ぎ、元の姿勢に戻る。
「謝る必要はないわ。それで、話は分かった?」
「ドラマですよね――ドラマ! どうして?」
折角落ち着いた心が、急転直下、再び揺れ動く。心拍数が跳ね上がったのか、
鼓動が頭の奥でどっくどっくと音を立てているような気がした。
「どうしてって……先方が使ってみたいと思ったからでしょう」
「歌を聴いただけで? それともコマーシャルですか」
「ルークではなく、私からの話だということを忘れないで。歌やCMじゃない
わ。あなたのモデル写真を見たある人からの話よ」
きちっと訂正された。
「それだともっとひどい! 演技どころか動いてもない私を見て、ドラマ……」
「きっかけなんてそういうものなのよ。善し悪しは別としてね」
「ええと、そのう、私にできるとはとても思えないんですが。やったことない」
「最初は誰だってそうよ。それに、あなたには経験もあるでしょうに」
しばらくは相手の言葉の意味が分からなかったが、察しが付くのにさほどか
からなかった。純子は声量を大きくした。
「冷やかさないでくださいっ。学芸会と一緒にしたら俳優さん達に失礼ですっ」
「ふふふ、ごめんなさい。でも、自覚があるのなら結構なことね。やってみる
気はあるかしら? 詳しくは知らされていないけれども、印象的な役柄だそう
よ。先方もとても乗り気でね」
話を聞く内に、ほんのわずかであるが、やってみてもいいかなという気持ち
が芽生えたのは事実だ。けれども。
「……おばさま」
「『おばさん』でいいと言っているのに。改まって、何?」
相羽の母の苦笑混じりの物腰に、純子は話しやすくなった。
「私、まだこういうことを始めたばかりで、モデルと歌手で精一杯だと思うん
です。俳優をやってみる余裕があるくらいなら、モデルと歌手にもっともっと、
今以上に力を注いでやっていく。これが本当じゃありませんか。あ、すみませ
ん、生意気を言ってしまいました……」
「謝ることないわ」
電話の向こうで、苦笑が微笑に変わったらしかった。
「純子ちゃんが自分の考えというものを持っていると分かって、嬉しくなった。
私や市川さん、鷲宇さんが振り回しているだけじゃないって」
「たっぷり、振り回されていますー」
純子は自嘲気味に応じた。その直後に口調を引き締める。
「でも、やるからには、なるべくきちんとしたものを出したいんです。モデル
は少しずつですが回数を重ねて来れたし、歌は鷲宇さん達に徹底してしごいて
もらったのがちょっぴり自信につながっています。――あの、本当に大口を叩
いてしまって、ごめんなさいっ。まだまだです。ただ、私が言いたいのは、人
気じゃなくて、私の内での自信というか、基礎力という意味で」
「分かるわ」
こらえきれなくなったのか、はっきりそれと分かる笑い声が流れてきた。
「正直言って、私自身はあなたにモデルとしての成功を望んでいるわ。順調に
発育して、背が伸びているのも頼もしい」
「は、はい……」
まるで母親からのような言葉に、純子は戸惑った。
「どうしてもモデルの仕事を優先させたい気持ちが強いのよ。でも、公平を欠
かないように、ドラマの話を勧めてみたの。その上にね、繰り返しになるけれ
ど、相手のプロダクションが大変熱心なのよ。市川さんも乗り気で……。会う
だけ会ってほしいな。あなたのお母さんかお父さんもご一緒にね」
「え? え?」
急展開に戸惑う。所詮は振り回されてしまう運命らしい。
「断るのは自由だから」
「だけど、会えば断りにくくなるんじゃ……」
「私には何とも言えないわね、ふふ」
「そんなぁ」
「向こうはガイアプロといってね、大手なの。市川さんが言うにはこれからの
活動を見越して、今の内につながりを持っておくと有利だって」
事情を聞くと、少し考えてみなければいけないかなとも思う。
「結論はまだ先でいいの。会うかどうかの返事は少し早めに……年明けにでも
お願いよ。家族で相談して、じっくり考えてもらえばいいから」
「はい、分かりました。考えます」
電話を切ると同時に、母親が通りかかった。
「どなたから? 随分話し込んでいたようだから、あなたの知り合いね?」
「うん。お母さん、あのね」
頭の手拭いを取りながら、純子は話し始めた。
−−つづく